第二部 信仰と理性論 | 星加弘文 |
プロテスタントキリスト教に分断をもたらしたカントの「現象と物自体の分離」思想を考察します。神が理性的な言葉(聖書)で人間に語りかけること、あるいは内在的理性が超越である神を意味あるものとして述べることは不可能であると考えている方はぜひお読みください。
カント哲学最大の功績とされる「現象と物自体の分離」という考えは、世界を、認識できるものと認識できないものに分けることで、科学が関わる世界と宗教が関わる世界を分離し、それによって両者の競合が起こらない世界観を構築しました。
中世における地動説批判と宗教裁判という誤った科学批判の歴史を持つキリスト教は、カントのこの思想を、宗教を科学から守る原理とみて、これを受け入れる方向へと進みました。
しかしその結果、伝統的キリスト教は「啓示」や「奇跡」などの超越的事象を、学問上は否定しつつ、信仰としては受容するという、学問と信仰が分離したキリスト教へと変容していくことになります。これが現在のプロテスタント教会で大勢を占める現代主流派神学の状況です。
一方、保守派のキリスト教は、カント哲学を拒否することで初代教会以来の伝統的キリスト教を保持しようとしてきました。しかしそれはカント哲学の克服によるのではなく、教会が危険とみなす思想への関わりを断つという消極的な対処にすぎませんでした。
この結果、保守教会はカント哲学を受容した新プロテスタンティズムへの批判を強めながらも、自らは伝統的キリスト教に比して原理主義的・権威主義的傾向を強めていくことになります。理屈を拒否することが、保守教会をある種の頑な信仰に導いたといえます。
当論考は、カントの「現象と物自体の分離」思想がキリスト教にとって致命的分断をもたらす思想であり、しかも論駁し難い思想であることを理解することから始め、『純粋理性批判』の解説を経てカント哲学の克服に挑みます。(Section5までが『純粋理性批判』の解説と「現象と物自体の分離」の解決方針の提示、Section 6から改めて本論が述べられます。)
カントの造語である「超越論的(先験的)」という語は、カントの新思想『純粋理性批判』のコンテンツ(目次表題)にことごとく冠された語であり、その意味についてはこれまでにおびただしい数の解釈が行われてきました。しかしそのいずれも、この語に関して第一に採用すべき当然ともいえる解釈を捉えそこねています。それは「超越論的」とは「純粋理性批判的」の謂い(いい)にほかならないということです。(Section 7 参照)
「超越論的」とは、カントが『純粋理性批判』によって示そうとする認識観を、既存の認識観から区別するために使われた語であり、例えば、その冒頭に位置取る感性論は、本来であれば「純粋理性批判的感性論」とすべきところ、「純粋理性批判的」という表現はそれだけで5,6語を要することから、これを1語で賄う(まかなう)ために考え出されたのが「transzendental」(「超越論的」または「先験的」と訳される)という新たな形容詞だったといえます。
したがってこの語は『純粋理性批判』全体の認識観において初めて正確に理解される語です。しかし試みに、『純粋理性批判』の目次に「超越論的~論」として掲げられている表題、「超越論的とは~である」と述べられている箇所、また、空間および時間の「形而上学的解明」に続けて「超越論的解明」が述べられている段のそれぞれを、「純粋理性批判的」と読み替えてみれば、この難解とされる語が、実はきわめて単純な用法で使われている語であることが理解されるでしょう。またそこで語られようとしていることの内容もはるかに明瞭になります。
この「超越論的」という語には「二つの領域にまたがる立場」というアリストテレス以来の古典的意味が保存されています。そのことは「緒言」冒頭の言明「我々の認識はすべて経験をもって始まる」、「そうだからといって我々の認識が必ずしもすべて経験から生じるのではない」に明らかである通り、カント認識論が、主観と外界の関係を論じる18世紀までの伝統的な認識論と同じく、「主観」と「対象」という二つの領域の関係を考察の出発点とするものであることを示しています。
そして『純粋理性批判』では、この「主観」と「対象」の関係が、第二部門 超越論的論理学「第一部 超越論的分析論」までと、「第二部 超越論的弁証論」以降で、それぞれ「分析論」と「弁証論」という表題が示す通り、異なる二つの叙述法によって述べられています。
前者が純粋直観および純粋悟性カテゴリーという主観機能から「現象」を演繹する前件肯定式推論であるのに対し、後者の主たる議論は「緒言」冒頭に提示された経験論的な「対象」概念を、「現象」とも「物自体」とも見ることによって形而上学が抱える二律背反を解き、それによってカントの視点の正しさを証明しようとする後件肯定式推論です。
そこで『純粋理性批判』の立場、すなわち「超越論的」立場とは、「超越論的感性論」から「超越論的分析論」までと、「超越論的弁証論」の、その両方の立場に立つことでもあります。言い替えれば「超越論的」とは、「現象のみを演繹によって語る立場」と、「現象と物自体を同時に仮説演繹的に語る立場」という二つの視点から経験の成り立ちを説明するその認識観全体を指すものであるということです。
したがってカントにおける超越領域としての「物自体」は、それが語られる段では当初からその存在が前提されていた概念であって、「現象」の単なる反対概念として生じてきたものではないといえます。そのため『純粋理性批判』における現象と物自体の超越論的関係は、「『現象』と『物自体』」としてではなく、「『現象』と『現象と物自体』」として捉え直されなければなりません。それは「認識できる/認識できない」という古典論理の排中律による二分法とは異なる関係にあります。
カント自身は超越が内在に関わることを否定しておらず、「物自体」が「現象」を引き起こす原因であると考え、これを繰り返し述べていました(A251、B61他多数、Section 7-2参照)。しかし、後の「触発論」と呼ばれる議論においてこの点が問題視され、「物自体」が超越である限り、内在である「現象」には関わることができないとする理解が優勢となります。また、「現象は物自体ではない」という『純粋理性批判』の中で繰り返されるカント自身の言明も、この「触発論」の考えを正しいとする論拠とされました。
しかしながら「物自体」が「現象」に関われるはずがないという考えは、次の点を考えれば誤りであることが明らかです。すなわち、カントの現象概念は感性と悟性の綜合として成立している概念ですから、「現象」とは「感性的でありかつ悟性的である」事象のことです。
そこでこの「感性的であり、かつ悟性的である」の否定を考えると、ド・モルガンの法則から「感性的ではない、または悟性的ではない」が帰結します。これが現象の否定としての正確な物自体概念ですが、ここには3種類の物自体が含まれています。詳細は本論(Section 4-5)に示しますが、つまり現象の否定としての物自体は必ずしも「感性的ではなく、かつ悟性的でもない」というものではないのです。「物自体」が「現象」に関われないという考えは、物自体が、この「感性的でも悟性的でもない」ものとしてだけ考えられてきたことの結果にすぎません。
当章では、様々な形において現代イデオロギーとして定着している「現象と物自体の分離」という理解が、どのようにして『純粋理性批判』から引き出されたかを示して『純粋理性批判』の正確な理解を目指し、4つの論点から物自体が現象に関わりうることの可能性、すなわち超越論的認識における超越的認識の可能性を示します。(Section 4-5 参照)
読解難易度★★★★☆ 文字数 89,000字