第二部 信仰と理性論 星加弘文

Chapter 4 超越的認識の可能性 (6)「現象と物自体の分離」思想の考察

Section 3-3 経験的実在論にして超越論的観念論

カントは空間と時間について、実在性を持つと同時に観念性をも持つとし「経験的には実在であり、超越論的には観念である」と述べる。[7]

ここで「経験的」とは感性的という意味で、カントによれば、感覚を通じて経験される外界や対象物は、我々の受動的認識能力である感性的直観、およびその根底にある純粋直観としての空間と時間という制約に依存せずに成立することはない。

したがって感覚を通じて得られる経験という観点においてはすなわち「経験的には」空間と時間はすべての対象への客観的妥当性を持ち、我々の経験における対象が実在性を持つと考えられるのと同じく、空間と時間もまた実在性を持つのである。

一方、空間が「超越論的には観念である」とは、ここでは同じく『純粋理性批判』の認識観に立ち、直観を取り除いた立場から経験的対象を考えることとして述べられている。B43-44)

空間は現象として現われる限りでの対象との関わりにおいては実在的といえる。しかし、対象をそのように見えさせている感性の働きを取り除いて「感性の性質を顧慮せずに」理性だけからこの事態を推論するならば、そのような現象の背後には物自体の存在が考えられなければならない。

この物自体を想定する立場から空間を考えるならば空間は観念である。この立場において、空間は、我々の経験が物自体からの触発によって現象として成立する際に、常にそれに先だつ、あるいは常にそれに伴うところの形式、つまり現象にだけ関わるものにすぎないからである。それゆえ、真の実在というべき物自体の世界においては、空間は物自体の存在に必要とされるものではなく無である。B44)

カントの理論において空間と時間は物自体が持つ性質ではなく、現象を成立させるときに働く感性的直観の形式にすぎない。したがってこの理論は感性的直観(五感)および、その形式である純粋直観(空間・時間)を人間に固有の認識制約とみて人間の認識を相対化する理論である。

そこでは人間が認識できない物自体が勘定に入れられ、その物自体の認識が可能であるであろう神の知性的直観(B43)という視点までが考慮される。このように神の認識論までを視野に置く『純粋理性批判』の理論においてはすなわち「超越論的には」空間と時間は人間の主観に具わった認識機能であるにすぎず観念なのである。(超越論的」についての詳細は Section 7参照)

さらに言えば、ここで『純粋理性批判』が人間の認識論と神の認識論にまたがる「超越論」ではなく、ただ「超越論的」と言われるのは、『純粋理性批判』が人間の認識については完全な理論を示すが、人間とは別の恣意的存在者の認識についてはその様態を知ることがまったく不可能(B43)だとカントが考えているゆえである。

さて、カントは自身の超越論的観念論をバークリの観念説と区別して次のように述べる。(超越論的観念論の超越論的実在論からの区別についてはSection 7-2当該箇所を参照)

バークリは空間を経験あるいは知覚によって知られるものとした。これに対して、『純粋理性批判』の思想は、空間をア・プリオリな認識とする。空間は我々の本性に備わっている純粋直観でありこれが経験を可能ならしめている。ここから次のことが明らかになる。真理というものが普遍的必然的法則として成立するものとすれば、バークリ説の経験では真理は成立しない。というのは、その場合ヒュームの因果律議論が働いて、空間的な幾何学原理が、経験から帰納的に得られた規則に堕してしまうからである。これに反して『純粋理性批判』では、空間と時間は悟性カテゴリーと協同して経験を成立させるので、幾何学にア・プリオリ(確実)な法則を供給することになる。この法則性を定立できるということが『純粋理性批判』をバークリ説から分かつのであり「現象」としての経験を現実のものとするのである。[8]

現実世界が「経験的に実在である」ことの意味は上の叙述にも認められる。空間と時間が、悟性からの包摂を受ける直観の形式であることによって、我々の経験は数学的秩序に適うものとして成立し、世界はでたらめな夢や仮象のようなものではなく、まさに現実と呼んでよいものであるということである。経験の実在性とは夢と区別しうる現実性のことであり、秩序の存在のことであるともいえるからである。

また、上の叙述からは現実世界が「超越論的には観念である」ということも帰結する。

物質を観念とみるバークリの考えは、ある意味ではカントと同じく、経験すべてを観念とみなすものであるために反駁も困難であり、またそのような観念的な経験が、実はそのまま我々の実際の経験なのだと主張することも不可能ではない。

しかしバークリの観念論は、基本的にはロック認識論の不備を指摘する懐疑論であり、それ以上の積極的主張をもつものではなかった。「外界をすべて観念と考えても不都合はない」とバークリが述べ、そこで我々が「だからどうなのか」と問い返すなら、バークリはそれ以上に言うべきことを持たないだろう。その哲学史的意義を除けば、外界を純粋な観念とみなしうるとする懐疑論は、ただそういうことが矛盾なく主張できるということ以上のものではない。

これに対してカントの「超越論的観念論」には極めて重要な帰結が伴う。「超越論的」という語の意味については後段(Section 7-1)に考察するが、ここでは本来の使用例からは外れるものの、とりあえず「形而上学的」という意味に捉えると、[9]「形而上学」とは「真の存在」を扱う学のことであるから、「超越論的」とは「真の存在を勘定に入れて考える」といった意味になる。

すると、我々の経験が「超越論的には観念である」ということの意味は、確かに経験は我々にとって実在的なものだが、「真の存在」という立場から見れば、この経験世界は我々の直観能力の下に成立した主観的・観念的なもの言いかえれば真の存在を捉えていない世界ということになる。

つまり「超越論的観念論」とは、我々の経験世界の他に「真なる世界」というものが存在しているという、一見、キリスト教の世界観などに極めて近いことを哲学的に主張するものなのである。先に見た、カント哲学を推奨するトレルチの言明にはこの背景がある。

このことは、カントが述べる経験の成り立ちというものを考えるとき、当然の帰結といえる。カントはまず、空間と時間という直観形式を通じて対象が与えられるとし、次いで、その対象に12個の悟性カテゴリーが適用されることで、我々の認識が成立し、それがとりもなおさず我々の経験であるとした。これによって空間的かつ時間的であるという外界の現実性と、それを考察対象とする学問の確実性が確保されることになる。

このとき、外界の成立において働く純粋直観と悟性カテゴリーは、いわば本来の、あるがままの存在物に対するフィルターのようなものともいえるから、このフィルターを通ることができない「悟性の統一の条件にまったく適合しないような対象」B123)あるいは我々の認識能力に適さない何らかのものが存在しうるということが考えられなければならないことになる。

つまり我々が経験において見たり触れたりしている対象は、本来の「物」そのままの姿ではないと考えられなければならない。それはすでに空間的な延長を持ち、時間的な持続性があり、因果的な振る舞いをするようなものとしてのみ成立したものであり、我々はそのようなものを物と考えてきたが、我々の認識にかけられる以前のもともとの「物」がそのようでなければならない理由はないからである。

この意味で我々の経験世界は、対象物をあるがままに経験する「真の世界」というのではなく、我々の認識による観念性を帯びた世界であるといえる。

そこでカントは我々の認識能力を顧慮せずにその存在が考えられた場合の物のあり方を、物そのもの、すなわち「物自体」と呼んだ。

これに対し、我々の主観を通って成立した経験世界が「現象」である。我々の経験は「現象」であって、本来の「物自体」は「現象」の背後にその原因として存在しているとされる。

「実際、感官の対象を単なる現象とみなすならば、我々はこのことによって同時に現象の根底に物自体の存することを認めることになる。」[10]

すなわち、バークリ観念論と比べられた上でのカント哲学が、経験を「超越論的には観念」であると主張することの意味には、主観観念の関与のゆえに法則的なものとして成立する「現象」としての我々の経験は、しかしその一方で真の世界としての「物自体」の世界を同時に帰結させるものであって、それとの対比においてはなお観念にとどまる世界である、という意味が含まれているのである。

この世界観はその二元性においてキリスト教の世界観と親近性を持つが、しかしこのところに、後にキリスト教が深刻な影響を受けることとなるカント哲学の主張点もまた登場している。それは、上に述べてきたところから明らかである通り、この「物自体」という領域を、我々はけっして知ることができないということである。カントは上の言明に続けて次のように書いている。

「しかし、その場合にも、この物自体がどのような性質のものであるかを知るのではなくて、物自体の現われであるところの現象を知るだけである、換言すれば、我々に知られていないこの何か或るものが、我々の感官を触発する仕方を知るだけである」[11]

経験世界が我々の主観能力である空間、時間、悟性カテゴリーによって成立しているのであれば、「物自体」世界の存在者、例えば、神について、我々が経験を通じて知ることはありえない。また福音書に記されている奇跡のようなできごともけっして経験しえない。我々の感性的直観に対応するものとして成立する外界は悟性カテゴリーに適うものだけであり、したがって因果的振る舞いをする事象だけだからである。

このことは我々認識者にとって「現象」と「物自体」が完全に分離しており、認識可能であるのは現象だけであって、物自体に属する一切のものは認識できないことを意味する。

また、物自体に属するものは空間的時間的でないばかりでなく、悟性カテゴリー的でもない、すなわち我々にとって理解可能なものではないということにもなる。

つまり、神が聖書を通じて自らを我々に理解可能なことばで語るという、キリスト教が主張する「啓示」はありえないと考えられなければならない。なぜなら物自体である神は論理的な存在ではないからである。

あるカント解説書では、旧約聖書に偶像崇拝が禁止されている理由について「神が、世界内部のどのような存在者とも似てはいないからである」と述べている。[12]

偶像崇拝禁止についての解釈として、この理解はおそらく正しくないが、神が、我々が知っているこの経験世界のどのような存在とも異なっているということについては、トマス・アクィナスがすでに述べていたことでもあり(神学大全1』1部第12問題第12項」、ここでのカントの思想に基づく限りにおいてもまた確かにそう理解しなければならないのである。

『純粋理性批判』の思想は、存在、現実、経験といった語の意味を変更することを我々に要求する。世界は夢ではなく確かに存在し、我々の経験が確かであるのと同様に現実的な存在である。

しかし、我々が経験において知るその世界というのは我々の認識能力の関与において初めて成立しているのであるから、有限な我々の主観に縛られていない本来の世界は我々の想像の及びもつかないものとして別様に存在しているはずである。

その世界は形而上学的な真の存在というべきものだが、ただし我々はそれを知ることはできない。なぜなら我々に与えられた認識能力が、ちょうどミダス王がその触れるものすべてを金に変えてしまうのであるように、認識するものすべてを「現象」に変えてしまうからである。