第二部 信仰と理性論 | 星加弘文 |
カントが最も重要な課題としたのは「確実であり、しかも認識を拡張する知識の成立はどのようにして可能か」を示すことであった。このことは、カントが『純粋理性批判』全体の目的を、その「緒言」において、
「ア・プリオリな総合的判断はどうして可能であるか」
という著名な定式言明にまとめていることから知られる。
既述のように、カントの時代には、一方に、自然科学および数学のめざましい発達があり、他方には、それらの学問的基礎を問うイギリス経験論の台頭があったが、カントは、ここで改めて、自然科学と数学がすでに確実性をもつ学問として確立されていることを示そうとした。
間違っているのは因果律に疑問を呈し、科学的認識の確実さに異を唱えるイギリス経験論の方であって、学問が――特に、因果律規定を含むことが明らかであり、我々の認識を拡張させることに成功していると考えられる自然科学のような学問が――確実な知識として成立していることについては異議を挟まず、それが確実な知識として成立している理由を明らかにしていこうと考えたのである。
そこでまず、確実な知識とは分析的・論理的であるか、または先天的であるかのいずれかであるから――この状況は現在も同じだが――カントは、因果律を含む一切の自然科学の規則を先天的(ア・プリオリ)とみる決断をする。また、分析的学問とみられてきた数学については総合的判断(認識を拡張させる判断)でもあるとみる。
すでにライプニッツにおいて、自然科学の因果律が総合的判断であることが言われており、数学については経験に依存しないア・プリオリな体系であることが知られていたので、カントのこの新しい見立ては、自然科学と数学において、自然科学には確実性を、数学には拡張性を付与することで、いずれも「ア・プリオリ」でありかつ「総合的判断」、すなわち「確実で拡張的な認識」が成立しているとするものであった。
学問的認識に基礎を与えようとするこの大事業を、カントは「コペルニクス」になぞらえた一つのアイデアによって達成しようとする。
「認識が対象に従うのではなく、対象が認識に従うとしたらどうだろう」
ここにカント哲学の「認識論的主観主義」という考えが登場することになる。すなわち、我々の認識を主導するのは、客体側の情報ではなく、主体側の機能であるということである。この認識観では、主観能力に因果律のような必然性のある論理機能が先天的に備わっており、そのため我々が認識するものはすべてそういった規則に適ったものとして経験されることになるとされる。
主観能力に備わるその論理機能とは、アリストテレス論理学などの、事実と切り離された体系としての「形式的論理」ではなく、対象と認識が結合した論理である。カントはこれを「超越論的論理学」という、後にヘーゲル哲学の基本思想となる新たな論理学部門を『純粋理性批判』の中に作り上げる。
そこで中心的役割を果たす「悟性カテゴリー」は、抽象する能力、つまり概念を作る能力としての「悟性(ごせい)」の働き方を示すもので、
(1) 分量(単一性、数多性、総体性)
(2) 性質(実在性、否定性、制限性)
(3) 関係(付属性、因果性、相互性)
(4) 様態(可能、現実的存在、必然)
に区分され、すべての事象認識は、この悟性カテゴリーのもとに行われているとした。
ただしこの設定だけでは「確実で拡張的な認識のもとに経験が置かれる」ことの説明としては不十分である。というのも、外界が我々の主観を通って認識されるという認識観だけでは、ロックの常識的な認識観とそれほど異なるところはなく、その場合、そういった主観機能に合致せずにその制約から漏れる外界のあり方、ロックの用語で言えば物質の第一性質のようなものが、我々の認識機能の制約を受けることなく経験の内に存在するあり方が可能であるからである。
したがってこの認識観をもってカントの意図である「対象が認識に従う」とするにはなお釈然としないものが残る。しかしカントの「現象」説にはもう少し根本的な部分がある。
「悟性カテゴリー」は、カントが述べる認識部分のうち「対象を思惟する」ことに関わるもので、認識能力のうちの知性に相当する。しかし物事を認識するには、それ以前に、その思惟すべき対象を受け取る部分、つまり感性部分が必要である。
カントはそれを「直観」と呼び(「直感」ではない)、「対象が直観を通じて与えられ、それを悟性が思惟する」(B29)という認識構造を考えるのである。
「直観」とは「見る」を語源とする語だが、「対象を受け取る能力」と解するのが最も適切であるような認識能力のことである。対象を思惟する「悟性」――対象を抽象し概念化する――が、対象を知性のもとに捉えようとする能動性の認識能力であるのに対し、「直観」は対象を受け取る受動性の認識能力である。
我々に備わる直観は視覚、触覚などの感覚であり、カントは人間のこの直観能力を感性的な直観、すなわち感覚器官によって対象を受け取る能力であるとする。なお人間の直観は感性的なものに留まるが、形而上学を視野に入れるカントは神の直観というものを考えるため、そのような神の「知性的」直観と区別されたものとして、人間の直観は「感性的」直観といわれる。
ロックは物の形や固さは物に属する性質であるが、色や匂いなどは我々の感官を原因とする主観的な性質であるとし、前者を物質の第一性質、後者を第二性質としていたのだった。カントは、ロックのこの第二性質という考えを大幅に拡張する。すでにバークリが第一性質と第二性質の区別を取り払い、物質そのものを観念とみていたのだが、カントはバークリよりもさらに先へ進むことになる。
物質がその広がり(「延長」と訳される)により常に空間の中にあること、また、物質は存在し続ける(「持続」と訳される)ことにおいて常に時間の中にあるといえることから、空間と時間は物質存在の根本的な規定であると考えられる。
カントはこれら空間と時間が我々の主観に先天的に備わるいま一つの認識能力であって、それを対象を受け取る際に働く感性的直観の「形式」だと考える。何らかの外的対象を感知する際、その対象は何らかの形式をもって感知されることになるが、人間においてそれは空間と時間という二つの形式であるというのである。
この空間と時間は感覚と同じく直観であり対象を受け取る受動的認識能力だが、感覚が質料的内容を伴なう経験的な直観であるのに対し、空間と時間はそれら感性的直観の形式部分であって内容を伴わないところから「純粋直観」と呼ばれる。
さてこのようになってくると、カントが考える「経験」というものが、ある程度了解できるものになってくるように感じられる。我々の経験とは取りも直さず外界対象の認識のことであるが、その認識される対象は純粋直観である空間、時間なしには考えられないものとされる。
ロックは物質の色を主観的な観念とみなし、バークリはその固さまでをも観念とみなしたのだったが、カントはそういった物質の第二性質、第一性質だけではなく物質存在のあり方までを、すなわち我々が「経験」と呼びそこに住まう外界世界全体を、我々の直観および悟性のなせるわざであり、したがって観念としたのである。
「しかし私は重要な理由にもとづいて、これらの述語のほかにも、物体に属するその他の性質で第一性質(primarias)と呼ばれるもの――例えば拡がり、場所、また一般には空間および時間に属するいっさいのもの(不可入性、形態等)をも単なる現象に加えるが、しかしこのことを許し難いとして反対する根拠は、何びとといえども挙示し得るものではない。」
カントはこの極度に観念的となった経験を「現象」と名づけた。しかしそれは我々の住まう世界をあえて観念だと言う必要がない程に現実性をもった経験観だったのである。