第一部 信仰論 星加弘文

Chapter 4    超越的認識の可能性 (27)

(注)

『純粋理性批判』の引用は岩波文庫版『純粋理性批判』上中下(篠田英雄訳)1977, 1978年を使用し、慣例に従って第一版をA、第二版をBとする原版頁番号を表記。

引用文中「表象する」は「観念として持つ」の意味。「先験的」は「transzendental」の岩波文庫版での訳語だが、現在では「超越論的」と訳されるのが一般的。「先験的=超越論的」の意味はSection 7-1参照。「a priori=経験に由来しない」の訳語である「先天的」とは別の語。

■Section 1

[1] J.I.パッカー『福音的キリスト教と聖書』いのちのことば社 1963年 pp.50-51

[2] E.トレルチ『信仰論』教文館 1997年 p.67, 76

[3] 小田垣雅也『現代のキリスト教』講談社学術文庫 1996年 p.87

[4] E.ブルンナー『弁証法神学序説』福村出版 1973年 p.112

[5] 前掲書 p.211, 212

[6] カール・バルト『ローマ書』カール・バルト著作集14 新教出版社 1994年 p.382

[7] R.ブルトマン『新約聖書と神話論』新教出版社 1980年 pp.15-16

[8] 春名純人『哲学と神学』「近代神学の認識論的基礎に関する弁証学的考察」法律文化社 p.220

[9] J.I.パッカー「啓示についての現代の諸見解」『聖書論論集』聖書図書刊行会 1974年 p.127, 128

[10] C.F.H.ヘンリー「序(二)」前掲書 p.7

[11] R.A.フィンレイソン「現代の霊感論」前掲書 p.306

[12] 有賀寿〝あとがき〟F.A.シェーファー『理性からの逃走』いのちのことば社 1984年 p.121

■Section 2

[1] B.ラッセル『西洋哲学史3』みすず書房 1976年、岩崎武雄『西洋哲学史』有斐閣 1982年、岩崎武雄『カント』勁草書房 1981年、野田又夫「カントの生涯と思想」『世界の名著39 カント』中央公論社 1979年、鎌井敏和他『イギリス思想の流れ』北樹出版 2001年

[2] I.カント『純粋理性批判 上』岩波文庫 1978年 p.61(B5)

■Section 3

[1] 野田又夫 前掲書 p.53

[2] I.カント『プロレゴメナ』岩波文庫 1977年 p.20

[3] 前掲書 p.269

[4] I.カント『純粋理性批判 上』p.73(B19)

[5] 前掲書 p.33(要約)(BXVI)

[6] I.カント『プロレゴメナ』pp.81-82

[7] I.カント『純粋理性批判 上』p.95, 102(B44, B52)「経験的実在論にして超越論的観念論」については、さらにSection 7-2中の「超越論的実在論」に関する叙述箇所を参照のこと。

[8] I.カント『プロレゴメナ』「付録」「批判」を研究しないで「批判」に下された判断の見本〟pp.261-262(要旨)

[9] 野田又夫 前掲書 p.53「超越論的』とは『存在論に関する』とか『形而上学的』という意味に解して済ましうる場合が多い」

[10] I.カント『プロレゴメナ』「第三二節」p.134

[11] 前掲書 同

[12] 熊野純彦『カント 世界の限界を経験することは可能か』NHK出版 2002年 p.81

■Section 4

[1] 坂本百代『新版現代論理学』「序 論理学とは何か」東海大学出版会 2000年 p.14

[2] 黒崎政男『カント「純粋理性批判」入門」講談社 2004年 pp.7-8

[3] A.アインシュタイン『相対論の意味』岩波書店 1958年 p.2

[4] 稲垣久和「自然法と近代認識論」『基督神学』東京基督神学校 1984年 p.70

[5] ポール・リクール「解釈学の課題」『解釈の革新』白水社 2005年 p.147

[6] H.ツァールント『史的イエスの探求』新教出版社 1971年 p.86, 110

[7] 以上の引用の他、A101, B61, 206, 336, 522, 536 566、『プロレゴメナ』岩波文庫 1977年 第三二節 p.134等

[8] A.ショーペンハウアー『意志と表象としての世界 正編Ⅲ』「カント哲学の批判」白水社 1975年 p.15

[9] 黒崎政男『カント「純粋理性批判」入門』講談社選書メチエ 2004年 p.30

[10] 前掲書 p.133

[11] 岩崎武雄『カント』勁草書房 1981年 p.135

[12] 前掲書 pp.135-136

[13] B.ラッセル『西洋哲学史3』「カント」みすず書房 1976年 p.709

[14] 直観によって単に空間的、時間的なものとして与えられた対象(直観の多様」に、どのようにして悟性がカテゴリーを適用して認識を成立させるのかということは、カントにとって難題の一つであった。カントは悟性の一形態である「構想力(想像力)が産出する「図式」という観念表象が両者を結びつけているとした。例えば、感覚に与えられる一個の三角形は、悟性による三角形の概念定義と、三角形の普遍的イメージのような「図式」によって結ばれることで三角形としての認識が成立するとされる(B180)。また悟性カテゴリーの「量」を感覚対象に結びつける「図式」は「数」であるとされる(B182)。

[15] カント自身はおもに論述上の理由から、「直観の多様」を感性と悟性の「隙間」としては認めなかったといえる。認識が「直観の多様」を介して二段階を経て成立するという考えでは、「直観の多様」に悟性カテゴリーが漏れなく適用できることを説明できないため(B122)、当初「超越論的感性論」の部分で二段階説的に述べられていた認識の成立は、論が進むにしたがって、直観を統一的に認識する根拠としての「純粋統覚」(B126)、あるいは「覚知の総合」(B160)といった感性と悟性の協同による一段階説となっていく。認識における悟性の役割は、『純粋理性批判』第一版と第二版の書き換え問題としても論じられているが(Section6注[8])、「直観の多様」についてのカントの最終的な見解は、「形象的総合」と「知性的総合」の区別(B151-152)にみることができる。

[16]「実際、感官の対象を単なる現象とみなすならば、我々はこのことによって同時に現象の根底に物自体の存することを認めることになる。」I.カント『プロレゴメナ』「第三二節」p.134

[17] I.カント『純粋理性批判 中』B438, 545-551 岩波文庫 1977年 pp.192-197「世界は決して全体として与えられ得るものではない」「私は世界全体の量の概念を、経験的背進によって初めて構成せねばならない」

[18] I.カント『純粋理性批判 上』岩波文庫 1978年 p.108(B59)訳は西研『100分de名著カント純粋理性批判』NHK出版 2020年 p.30より

[19] 前掲書 p.41(BXXVI)

■Section 5

[1]「直観」は「対象を受け取る能力」と解されるが、正確には感性が作りだす感覚や視覚観念などの「表象」のことを言い、「対象を受け取る能力」は感性である。ただし「直観する」という言い回しがみられる(B59)ことから能力的な意味にも解される。空間と時間は経験的な感覚表象がもつ形式とされ「純粋直観」と呼ばれる。

[2] 岩崎武雄『カント』p.73(超越論的(先験的)と「形而上学的」の区別については『判断力批判』XXIX「V 自然の形式的合目的性の原理は判断力の先験的原理である」を参照のこと)

[3] B.ラッセル 前掲書 p.707

[4] B95   1 分量(全称的判断、特称的判断、単称的判断)

   2 性質(肯定的判断、否定的判断、無限的判断)

   3 関係(定言的判断、仮言的判断、選言的判断)

   4 様態(蓋然的判断、実然的判断、必然的判断)

[5] Section4注[13] 参照

[6] 岩崎武雄『カント「純粋理性批判」の研究』に詳細な解説が試みられている。pp.264-289

■Section 6

[1] B.ラッセル『西洋哲学史3』「カント」みすず書房 1976年 p.709

[2] 坂本百代『新版現代論理学』「序 論理学とは何か」東海大学出版会 2000年 p.14

[3]「カント最大の功績は現象の物自体からの区別ということである」A.ショーペンハウアー『意志と表象としての世界 正編Ⅲ』「カント哲学の批判」白水社 1975年 p.15

[4]「そのうちでもっとも重要な前提が、〈物自体〉と〈現象〉との峻別、という発想である」黒崎政男『カント「純粋理性批判」入門』講談社選書メチエ 2004年 p.30

[5] E.トレルチ『信仰論』教文館 1997年 p.39,67-76, E.ブルンナー『弁証法神学序説』福村出版 1973年 p.112,210-213, C.バルト『ローマ書』カール・バルト著作集14 新教出版社 1994年 p.382, J.I.パッカー『啓示についての現代の諸見解』「聖書論論集」聖書図書刊行会 1974年 p.127 等参照

[6] B307-309

[7] B37,102,136,143等多数

[8] 岩崎武雄『カント「純粋理性批判」の研究』勁草書房 1965年 pp.108-116, 143

■Section 7

[1]『カント事典』〝超越論的〟p.336「アリストテレスのカテゴリーのいずれにも適用されるという仕方でそれを超越するような概念を表す述語」(Chapter 3 - Section 2-2、Chapter 4 - Section 5冒頭参照)

[2] I.カント『実践理性批判』岩波文庫 p.65(訳者注)

[3] Section 3注[9] 

[4] B25, 80-81

[5] B352, 注[7] 引用箇所

[6]『プロレゴメナ』13節 岩波文庫 1977年 p.90

[7] 前掲書 “付録 「批判」を研究しないで「批判」に下された判断の見本」”p.259

[8] B80 引用箇所の後には「表象」および「適用」との関連での「超越論的」が述べられている。

[9] Immanuel Kant, CRITIQUE OF PURE REASON: Translated by J.M.D.Meiklejohn, Prometheus Books, 1990(原文はKANT, IMMANUEL KRITIK DER REINEN VERNUNFT, FELIX MEINER VERLAG, 1956を参照)

[10]『プロレゴメナ』では「実際、物の実在を疑うということを、私は嘗つて思いみたことすらなかった。」とも述べられている。p.90

[11] カントの考察が「主観と対象」の二者関係において始まっていることは「超越論的感性論」の次の記述からも知られる。「外感が我々に与えるのは関係の表象だけであるから、外感の表象に含まれ得るものもまた主観と対象との関係だけであって、対象自体に付属するものでないことは、容易に判断し得るところである」(B67)、「しかしかかる性質は、主観と与えられた対象との関係において、主観の直観様式によってのみ規定せられるのである」(B69)

[12]「私がすべての現象の超越論的観念論と言うのは、それにしたがえば、我々がすべての現象をことごとくたんなる表象とみなして、物自体そのものとみなさず…物自体そのものとしての諸客観のそれ自身だけで与えられた規定ないしは条件ではないとするような学説のことである。」(A370)『純粋理性批判』(原佑訳)平凡社 2005年 p.120、他にB44, B52参照

[13]『プロレゴメナ』「第三二節」岩波文庫 1977年 p.134「実際、感官の対象を当然のことながら単なる現象とみなすならば、我々はこのことによって同時に、現象の根底に物自体の存することを認めることになる。しかしその場合にも、この物自体がどのような性質のものであるかを知るのではなくて、物自体の現われであるところの現象を知るだけである。換言すれば、我々に知られていないこの何か或るものが、我々の感官を触発する仕方を知るだけである、それだから悟性は、現象を認めることによって同時に物自体の現実的存在をも承認することになる、またその限りにおいて、現象の根底に存するこのような存在者の概念、従ってまた単なる悟性的存在者の概念はただに許容されるばかりでなく、また不可避であると言ってよい。」

[14] I.カント『道徳形而上学原論』岩波文庫 1978年 p.169「人間を現象と見なす限り、同一主体における原因性(すなわち彼の意志)を感性界のいっさいの自然法則から引き離すことは矛盾であろう、しかし彼等が、現象の背後には確かに物自体が(たとえ隠されているにせよ)根底に存在しなければならないということに深く思いを致し、またこれを当然のことながら、承認しようとすれば、この矛盾は解消されるのである。」

[15]「経験的には実在論」などの記述は以下。

カント事典』〝実在論〟〝統覚〟 弘文堂 1997年 p.216, 373

黒崎政男『カント「純粋理性批判」入門』講談社選書メチエ 2004年 p.108

岩崎武雄『カント』勁草書房 1981年 p.76

野田又夫「カントの生涯と思想」『世界の名著39 カント』p.56

[16] 岩崎武雄『カント「純粋理性批判」の研究』p.81

[17]『プロレゴメナ』「13節 注二」pp.80-81

[18] A255, B311

[19] B309, 312

■Section 8

[1] アンチノミー命題はいずれも「現象の総括」「現象のなかにおける無条件者」を求める理性による「悟性概念に対する総合」であるが(B446)、それがカントの「現象」規定に収まるか否かにより、最初の二つは「世界概念」、後の二つは「超越的自然概念」と呼ばれ、「数学的アンチノミー」と「力学的アンチノミー」に区別される。これはアンチノミー命題の形成に関与する四個の悟性カテゴリーが「数学的カテゴリー」と「力学的カテゴリー」に大別されていたことに関連している。

[2] 岩崎武雄 前掲書 p.464

[3] 前掲書 p.426, 432 実際の「岩崎判定」は「第三アンチノミー」について、カントの論述上の理由を考慮して「真/真」としているが、これは「カント判定」を了解しようとする意図に基づいた見解であるため、ここでは岩崎本来の見解である「偽/真」として扱っている。

[4] B545-551

[5] B557-560

[6] B558-559

[7] B549-551

[8] 岩崎武雄 前掲書 p.432

[9] 前掲書 p.427

[10] 拙論『キリスト教命題学』では、さらに三度の書き換えによって「カント判定」のより正確な状態が導かれる。

■Section 9

[1] B33, 42, 93 他  

[2] B358, 566

[3] BXXVI, A360

[4]『プロレゴメナ』「13節 注二」p.80

[5] A.ショーペンハウアーによると、G.E.シュルツェ(1761-1833)による指摘であることが記されている。『意志と表象としての世界 正編Ⅲ』「カント哲学の批判」白水社 1975年 p.56

[6] 岩崎武雄 前掲書 p.78

[7] E.アディッケス『カントと物自体』法政大学出版局 1988年 p.243

[8] 前掲書「訳者解説」p.248

[9]「現象は物自体ではない」B335、566等

[10] B33, 42, 61, 93

[11] B344, 358

■Section 10

[1] B33, 69, 74, 122, 165等

[2] ショーペンハウアー 『意志と表象としての世界 正編Ⅲ』「カント哲学の批判」p.62

[3] BXVIII, 130

[4]「超越論的弁証論」では、この「構成」という観念論的方法を厳密に駆使する立場が述べられている。B547-551

[5] Section 4注[7] 特にB336, B566

■Section 11

[1] B61『純粋理性批判』(下)索引訳 p.92

[2]『カント事典』弘文堂 1997年 pp.508-509〝物自体〟における物自体の多義性リスト(※以下のまとめ方と箇所指示は星加による)

(1) アンチノミーの解決策としての超越論的区別における現象と物自体(B566)

(2) 現象の対概念、論理的要請物としての物自体(XXVI)

(3) 現象の原因としての物自体(B66、344)

(4) 認識限界としての消極的なヌーメノン(B309、311)

(5) 悟性的存在者における認識対象としての積極的ヌーメノン(B307)

[3] 岩崎武雄 前掲書「カントは決して『純粋理性批判』全体を通じて物自体の概念を同一の意味で考えているのではない」p.80, 「カントの物自体の概念をすべて同一の意味に解そうと努力することは恐らく徒労に終る外はないであろう。」p.81

[4]『プロレゴメナ』「第三二節」p.134

[5]『道徳形而上学原論』p.169

[6] B566『純粋理性批判』(中)p.211

[7] Section 7注[16] 

[8] B274「観念論に対する論駁」でも、経験的対象の実在性が要請されている。

[9] B69「しかしかかる性質は、主観と与えられた対象との関係において、主観の直観様式によってのみ規定せられるのである」

[10] B557-559, 566, 588

[11] I.カント『判断力批判(上)LV-LVI)岩波文庫 昭和43年 p.65

■Section 12

[1] ショーペンハウアー 『意志と表象としての世界 正編Ⅲ』「カント哲学の批判」pp.38-39

[2] Section 10注[2] 

[3] KANT, IMMANUEL KRITIK DER REINEN VERNUNFT, FELIX MEINER VERLAG, 1956, pp.219-220(B206)p.505(B536)

[4]「信仰と理性論」Chapter 2 - Section 4 注[9] 参照

[5] Chapter 2 - Section 4