第二部 信仰と理性論 星加弘文

Chapter 4 超越的認識の可能性 (20)「現象と物自体の分離」思想の考察

Section 7-2 「構成主義」と「実在論」としての超越論性

前段でみた「対象」と「主観」にまたがる視点を採用する超越論性とは、『純粋理性批判』の「超越論的感性論」から「超越論的分析論」までの論述を指す。ここでは「現象」概念の確立に向けて、超越論的演繹、形而上学的演繹などの基礎づけ論証から始まる前件肯定式推論が行われ、これが『純粋理性批判』の前半部を占める超越論的観念論の部分である。[12]

『純粋理性批判』にはこれとは別に、仮定を持つ推論による実在論的な叙述がみられる。カントの「超越論的」立場を理解する場合、これら二種類の叙述を含意したものとして理解する必要がある。

実在論的な叙述の一つは、「第二版序文」および第一版の「あらゆる対象一般を現象的存在と可想的存在とに区別する根拠について」などにおける現象と物自体の関係が言及される箇所での、物自体の実在性についてのカントの確信的な述べ方に認められる。

「我々はこの同じ対象を、たとえ物自体として認識することはできないにせよ、しかし少くともこれを物自体として考えることができねばならないという考えは、依然として留保されている。さもないと現象として現われる当のもの〔物自体〕が存在しないのに、現象が存在するという不合理な命題が生じてくるからである。」BXXVI―XXVII)

「空間は、我々が外的直観と名づけるところの直観の形式であり、また空間に対象が存在しなければ、経験的表象はまったく与えられないだろうから、我々は空間において延長を有する存在物を現実に存在すると考え得るし、またそう考えざるを得ないのである。」B520)

「現象はそれ自体、物ではないから、現象を単なる表象として規定するためには、現象の根底に先験的対象が存しなければならない」B566)

「だからまた現象一般という概念からおのずから生ずるのは、現象にはそれ自体現象ではない或るものが対応しなければならないということである。というのは…たえざる循環が生じてはならないかぎり、現象という語がすでに或るものとの連関を暗示しているのであって…このものは…感性に依存しない或る対象であるにちがいないからである。」A251-252 平凡社 原佑訳)

このように、カントは経験を現象として述べようとする際、物自体との連関を必然とみている。

同様の記述は『プロレゴメナ』や『道徳形而上学言論』など他の著作にも認められ、[13][14] このときカントが抱いているのは、物自体が現象の原因であるという素朴な信念であり、そこには物自体という仮定によって経験的対象の現実存在を説明するという後件肯定式型の考え方が働いている。

「緒言」の宣言にもみられるとおり、『純粋理性批判』は経験論を出発点としており、カントの学説は「超越論的観念論にして経験的実在論」[15] といわれる(Section 3-3)

しかしこのようにいわれるときの経験的実在論は、あくまでも超越論的観念論の枠組の中に置かれたものであり(B44, B52)、外界が実在することについての論証も知覚の直接性に置かれているところから(A371)観念論の特徴を保つものである。Chapter 2 - Easy study 3参照)

第二版への書き換えに際しては、上に引用したような(A251-252)第一版にしばしば認められるところの常識的で平易な実在論的性格をもった叙述は、より観念論的な叙述に改められて姿を消すことになった。それは第一版が、バークリなどの旧来の観念論の焼き直しと受けとられた向きがあったためといわれている。

第二版で新たに書き加えられた「観念論論駁」および「第二版序文」末尾に記されたそれへの詳細な付加文などは、バークリ的観念論と『純粋理性批判』の立場の違いを説明しようとするもので、外界の実在性確保のためのその叙述は、観念論的方法の徹底において行われているため、第一版の平明さが失われ難解度を増している。

しかしそのようにして、第一版での、経験に基づいた物自体の存在への確信的叙述を観念論的に述べ直そうとする意図において、第二版の超越論的観念論が経験的実在論を含む哲学であることは十分に認められる。

『純粋理性批判』における、いま一つの実在論的な論述は、『純粋理性批判』の後半を占める「超越論的弁証論」である。そこでは現象と物自体の両者を理論仮定とすることで理性推論のパラドクスを解くという、やはり後件肯定式型の論証が行われている。

「超越論的弁証論」については次節で詳細をみるが、第二版序文などでのカントの【経験的対象の実在性に対する確信】は、「超越論的分析論」までの観念論的叙述によって現象概念を完成させた後、「超越論的弁証論」において【物自体の実在性の仮定】となって表れることになる。『純粋理性批判』には、これら二種の実在論的記述が存在しているのである。

ここで『純粋理性批判』が物自体についての実在論的な見方を含んでいることと、カントが「超越論的実在論」を自身の立場ではないと述べていることの整合性について確認しておきたい。

確かに、カントは自身の哲学を「超越論的意味における実在論ではない」と述べている(B519, A369-372)この「超越論的実在論」とは、その字面から予想されるところとは異なり、形而上学的な存在論を指すものではない。

当該箇所でのカントの説明によると、それは「単なる表象を物自体とする」認識観のことであり、経験的対象を現象と物自体に区別しない実在論、すなわち当時の通常の経験論ないしは素朴実在論を指している。これら従来の経験論では、対象は我々が経験する通りに我々の外に存在しているとされる。しかしこのような素朴実在論はバークリらの経験的観念論に呑みこまれ、外界の不確かさを帰結せざるをえないことになる。

経験的対象が、『純粋理性批判』における物自体のように我々の認識から独立したものとして考えられるとき、それは経験的対象が我々の認識なしにも外界に存在することを意味し、我々の認識はそれら経験的対象に従うものとなる。しかしその場合、我々のその認識が外界対象を誤りなく受け取っているという保証はどこにも存在しなくなる。

これは、このような経験論では経験的対象に対する超越論的区別、すなわちそれを現象と物自体に分けて捉えることが行われていないために起こることであり、このことが認識の学的不確かさの主張(ヒューム)と、認識における現実性の喪失(バークリ)の主張を優位に立たせるに至ったというのが、カントが「超越論的実在論」との区別においていわんとするところである。

カントは経験的対象を現象と物自体として二重に見るので、通常の経験的実在論における対象概念は、本来区別されるべき経験的対象と物自体を実在性において同一視したものと解せられる。しかし、このとき物自体と同一視された経験的対象は実在性においてだけではなく、カントの立場においては現象にのみ属するべきである因果性を有するものとしても措定されている。

カントの超越論的観念論では、この因果性は物自体が持つ性質ではなく主観機能に由来するものであり、したがって現象においてのみ認められるものである。もし、経験的対象における因果性が主観由来のア・プリオリなものではないのであれば、そのような因果性はヒュームの不可知論により、経験の積み重ねから帰納的に推論されるところの不確かな法則とされてしまう。これが「認識が対象に従う」認識観の行き着く先である。

また、カントの超越論的観念論における実在性とは、経験的対象の根底に存するであろう物自体に関しての実在性であり、我々から独立して存在するのは、そのような知られざるものにおいてであるという意味での絶対的な実在性であって、我々の経験における対象が我々の外にその通りのあり方で存在しているという意味での実在性ではない。もし、対象の実在性が経験的なものとして考えられるならば、そのような実在性はバークリの観念論により、単なる観念としても説明がつくものとなってしまうからである。これもまた「認識が対象に従う」認識観の行き着く先なのである。

およそ経験論は、経験的実在論であれ経験的観念論であれ、初めに対象と主観を議論対象に設定するものである。その上で、経験的実在論は外界対象を主観観念の原因として仮定する後件肯定論証の立場をとって、外界と主観の関係説明とする。一方、経験的観念論は、外界対象を主観観念から演繹する前件肯定論証の立場をとるが、究極的にはバークリのように外界対象を主観観念に解消するものとなる。ただしいずれにしても、これらの経験的認識論では、カントの超越論設定と同様に、初めに設定されるのは対象と主観であり、それらの関係が問題とされるのである。

すなわち従来の経験論は、カントの立場からすればいずれも超越論的なものといえる。しかしカントの超越論的観念論が外界対象を現象と物自体として帰結させることによって、経験的実在論が持っていた確実性と拡張性、実在性をすべて含むのに対し、超越論的実在論は、外界対象を現象と物自体に区別せずそのまま据え置くことから経験的観念論に呑みこまれ、外界の実在性を失うことになるのである。

これらは、経験論と同様に主観と対象についての超越論設定を採用する『純粋理性批判』の認識観からすれば、経験的対象を物自体と同一視する誤りに陥っている。この理由により、物自体と無区別な対象概念を実在性において措定する経験論者を、カントは自身の立場に基づかせて「超越論的意味における実在論者」B519)と呼び、そこには経験的観念論を唱えるヒューム、バークリをも含めているのである。

「かかる先験的実在論者は、あとになって必ず経験的観念論者を装うのがその特色である」A369)

そして「超越論的観念論者は経験的実在論者でありえる」A370)というカントの主張は、第一版から第二版への書き換えにおいて実在論的な叙述を超越論的観念論として述べ直したそのことだけを指すものではなく、バークリとヒュームの経験的観念論によって危うくされたところの経験的実在論が本来有していたはずの経験の実在性と因果的確実性を、『純粋理性批判』が示す超越論的観念論においては確保できることをいうものである。

それゆえ超越論的観念論は物自体による超越性の他に経験的実在論を含み、一方、超越論的実在論は経験的観念論に等しい。超越論的実在論とは、その名称が与える印象に反して超越的でも実在的でもない立場である。ただそれは、その初めに主観と対象を措定することにおいて「超越論的」と呼びうるだけである。反して、超越論的観念論は、本来、経験的実在論が実現しようとしたところのものを実現する立場である。

カントは、この例のように『純粋理性批判』の認識観に沿わないものに対しても「超越論的」という呼称をつけて叙述することがある。このことが「超越論的」の多義性あるいは矛盾として捉えられてしまうのだが実際にはそういうことではない。

上の例では、通常の経験論は、経験的対象を現象と物自体として二重に見る『純粋理性批判』の視点、すなわち超越論的視点から見ると、物自体の位置に対象を置いた上でそれを認識の初めに措定する実在論と言え、その意味で超越論的実在論と呼ばれているのである。

また「原則の分析論」の終わり(303-305)と「超越論的弁証論」の冒頭(B352)では、『純粋理性批判』の認識観感性によって与えられた対象を悟性が思惟する際に時間との結合(図式)による制約が働くという認識観からはずれた、図式から自由にされた悟性の使用が「超越論的使用」と呼ばれている。これも『純粋理性批判』の認識観に沿わない事態についての呼び名であり、こちらの場合は超越論的枠組から見て、というよりは、超越論的枠組を超えて、という意味合いで「超越論的」が使われている。

「超越論的」を「純粋理性批判の認識観の枠組」の意味に解さずに、通常の形容詞がそうであるように、その形容詞が冠されることがふさわしいいくつかの類似した名詞とだけ結び付くような修飾語であると解していると、上の二つの用例「超越論的実在論」と「超越論的使用」は「超越論的」概念の矛盾、少なくとも整合性を採るのが難しい多義性を生じさせる語という理解になる。

しかし「超越論的」は基本的に「純粋理性批判的」の謂いであり、常に「純粋理性批判の認識観の枠組」を指すものであることが分かればそのような混乱は避けられるのである。

実際、このような用語の使い方は普通のことでもある。例えば、キリスト教は父、子、聖霊の三位一体の神観を持ち、これはキリスト教的三一神論と呼ばれる。一方で、歴史上にも現在にもユニテリアンと呼ばれる人々が存在しており、彼らは父なる神だけを神として認め、イエスと聖霊の位格を低く見る。そのような人々の神観はキリスト教的単一神論と呼ばれる。正しくは単一神論はキリスト教的ではない神観であり、それを「キリスト教的」と呼ぶのは矛盾なのだが、ただ父、子、聖霊という枠組が保たれた中でそれが行われているところから「キリスト教的」という形容が付けられているのである。

さて、これまでの引用のとおり、純粋理性批判』に実在論的な論述が認められることは明らかだが、これはどのような役割を果たしているのだろうか。

Chapter 4 - Section 5までにあらましをみたが、カント前史ともいえる十八世紀のイギリス経験論は、ロックが経験に関わる主観的要素を重要視したのち、ヒュームは帰納推論を心理的習慣という袋小路に追い込み、バークリは物質の存在を否定して経験論が観念論になってしまうという奇妙な転倒を起こすに至っていた。

この状況にあって、カントの企図が、ヒュームの帰結に対する「学的認識の保証」と、バークリの帰結に対する「認識における外界実在の保証」に向けられたことは哲学史的必然であり、カントはこの事業を認識論的主観主義、すなわち経験的対象を現象と物自体の二重性において捉えることによって達成しようとしたのであった。そしてカントはこのことを、二通りの方法で行ったと理解される。

先に引用した「第二版序文」および「緒言」には、経験論的な対象概念が提出されているが、この経験的対象をカントは二通りの方法で、それが現象であり、そして物自体であることを述べようとする。

その一つは観念論的方法により、主観表象から、経験的対象を「現象として構成」してみせることによってであり、もう一つは実在論的方法により、対象を「現象と物自体」とみることが旧来の解決困難な問題を解くことを示すことによってである。

Chapter 2 - Easy study 6にまとめた通り、観念論的方法とは、仮定を用いず、演繹だけから論を構成する論証で、そのため、対象の与えられ方を述べる「超越論的感性論」では、空間・時間という純粋直観が前経験的なものとして形而上学的に演繹され、「概念の分析論」では12個の純粋悟性カテゴリーが同様の演繹によって証明(肯定)される。

続いてこれらの表象と対象の適合の仕方が「図式論」で述べられて、主観のア・プリオリな諸表象は客観的な現象へと「構成」されていく。つまり「超越論的分析論」までの論述は、確実判明な観念を出発点とするデカルト的な観念論の方法、すなわち前件肯定式型の論証といえる。

そしてここまでが「ア・プリオリな総合的判断はどうして可能であるか」B19)という課題の答えであり、そこで構成された現象がア・プリオリであることによって「学的認識の保証」が達成されたのであった。

一方、実在論的方法とは、仮定を用いた理論によって事態を説明することによって、その仮定の正しさを訴えるものである。「超越論的弁証論」での証明は、解決困難とみえるアンチノミー問題を、対象を現象と物自体として仮定することによって解決してみせるという後件肯定論証である。

N.R.ハンソンが述べるように、仮定の設定が、問題の少なくとも一つを解決するとき、その仮定は真理である可能性をもつと考えられる(信仰論」Chapter 4 - Consideration 4「史的イエスR1」

物自体の導入は現象に実在性を付与する意図であったとの解釈も可能であるので、[16] その場合、「超越論的弁証論」は、「認識における外界実在の保証」を果たそうとしたものとみることもできるだろう。

このように「第二版序文」および「緒言」などで提出された経験的対象を、「超越論的分析論」までの観念論的方法と、「超越論的弁証論」での実在論的方法という二つの方法によって、「現象」と「物自体」として証明するというのが『純粋理性批判』の構想である。

『純粋理性批判』の歴史的解釈としては、フィヒテ ― ヘーゲル ― 新カント学派など、物自体を排除して現象論としての整合性を求める立場と、ショーペンハウアー ― E.アディッケス ― N.ハルトマンなどの物自体の実在性を重視する立場があるが、この両者の傾向を共に認めることが『純粋理性批判』に対する適切な見方であると考える。

『純粋理性批判』の整合的理解は、物自体を排除することによるのでも、物自体を実在化することによるのでもなく、観念論的でありまた実在論的であるカントの二つの思惟を、カントの超越論的思惟として捉えることによって達成されなければならない。

この観念論的論述と実在論的論述の複合性が、『純粋理性批判』における二つめの超越論性として理解されなければならないものである。前段に述べた第一の超越論性が「主観」と「対象」という二つの概念にまたがる超越論性であるのに対し、この第二の超越論性は「構成主義」と「実在論」という二つの論にまたがるものである。