第二部 信仰と理性論 | 星加弘文 |
『純粋理性批判』において「超越論的=先験的」という語は、「対象」「物自体」と同様に多義性をもち、「悟性/理性」の関係と同様、「超越的(transzendent)/超越論的(transzendental)」の使い分けに関する歴史性をもつ難解な語である。
カントの用法に幅があるため、これを一意に定めることは困難だが、現象と物自体の関係を問う論題においては、この概念は決定的な役割を持つと考えられる。ここでは議論に用いることができるような具体的な意味を求める。
「超越論的」の語は、伝統的意味においては「二つの領域にまたがる立場」であり、
このことから「超越論的」の意味は、『純粋理性批判』の中心思想である、対象を現象と物自体として捉えること、すなわち内在と超越の二つの領域にまたがる立場に立つこととして理解されるようにも思われる。
しかし、カントが「超越論的」という語を説明している箇所を確認すると、
そこでカントにおいてもなお保存されていると考えられる「超越論的」の伝統的意味、すなわちそれが「何と何にまたがる」超越論性なのかをみてみたい。まず、以下の言明から確認してみよう。
一「先験的という語は、決して物に対する我々の認識の関係ではなくて、認識能力に対する我々の認識の関係を意味する」
二「この語は、いっさいの経験を超出する何か或るものを意味するのではなくて、なるほど経験に先立ち(ア・プリオリに)はするが、しかし経験を可能ならしめる以上の規定を意味するのではない」
三「先験的と呼ばれねばならない認識は、或る種の表象(直観、概念)がア・プリオリにのみ適用せられまたア・プリオリにのみ可能であるということと、かかる表象がどうしてア・プリオリにのみ適用せられまたア・プリオリにのみ可能であるかということとを、我々がそれによって認識するような認識にほかならない。」(B80)
「超越論的」は形容詞であるため(上に引用した篠田訳では「先験的」)、いずれも他の概念との相違が比較的に説明されている。
第一のものはデカルトやバークリの観念論との相違としてのカントの「超越論的観念論」が説明される文脈であり、第二のものは「超越的」との相違が説明される文脈、第三のものはア・プリオリ(先天的)な認識との相違としての「超越論的認識」が説明される文脈に置かれている。
これらの中で最も基本的な意味を示しているのは「超越論的観念論」として説明されている第一の引用で、それが、外界が実在するかどうかといった外界認識に関わる語ではなく、つまり、同じく「観念論」といわれる旧来の観念論が問題としたような事柄に関わる語ではなく、認識についての考察、すなわち認識論に関わる語であることが述べられている。つまり、第一の引用では、我々の認識の仕方を捉える何らかの認識論的視点や立場が「超越論的」とされている。
「緒言」の次の箇所も同じ意味に理解される。
「私は、対象に関する認識ではなくてむしろ我々が一般に対象を認識する仕方――それがア・プリオリに可能である限り、――に関する一切の認識を先験的(transzendental)と名づける。するとかかる概念の体系は、先験的哲学と名づけられてよい。」(B25)
意味がとりにくいが、英訳
このようなことは聖書でも経験するが、その語が基本的であり、かつ重要な語であるほど、その使われ方に幅がありながら独自の意味が与えられているということが多い。このため最終的には文脈および論述全体の中でどのように使用されているかが総合的に判断されて、その語の意味が決定されることになる。この箇所についても文脈的視点からの解釈が求められる。
前後して「この学が取り扱うところのものは、理性の多種多様な対象ではなくて、まったく理性自身だからである」(B23)、「ここで我々が論究するところのものは物即ち外的対象としての自然ではなくて、かかる自然について判断する悟性であり、それもア・プリオリな認識に関する限りの悟性である」(B26)という記述がある。引用文(B25)は、これらと同じ意味と解するのが基本的な理解となるだろう。
したがって「対象についてではなく、対象の認識についての認識を先験的と名づける」と読まれ、ここでの「超越論的(先験的)」という形容詞は、理性が自己自身の外に出て、自らに対して批判を行うというそのメタ構造を指すものということになる。そのため先の考察と合わせて「超越論的」の最も基礎的な意味は、「認識についての認識」すなわち認識論のことを指すと結論づけられる。
ではその認識論とはどのようなものであるか。先の引用文に戻ると、第二、第三のものは「先験的認識」の内容についての説明が述べられているので、そこに述べられた認識観が超越論的立場であるということになる。
すなわち、その認識は、経験を超えた超越的な認識に関わるものではなく(引用二)、経験に限定されつつ、しかも経験に先だってア・プリオリに成立しており、むしろこの認識によって我々の経験が可能となっている(引用二、三)というものである。
前節までに見たカント哲学の概要を思い起こすと、カントが確立しようとしたのは、分析的判断や数学にみられるア・プリオリ(先天的)な認識が、ただ論理の整合性における真理(真理の整合説)としてだけではなく、外界対象への適合性を持つ真理(真理の対応説)としても成立するような認識観であった(Section 3-2)。
そのことが『純粋理性批判』における「ア・プリオリな総合的判断はどうして可能か」という課題に表現されたのだったが、この引用二、三でカントが説明している「超越論的」とは、まさにその課題に答えること、つまり「これこれのゆえにア・プリオリな総合的判断が我々に可能になっている」ことを示す認識観をそれぞれの文脈において説明したものに他ならない。
すなわち「超越論的」とは「ア・プリオリな総合的判断はどうして可能か」ということを明らかにする考察の視点のことであり、それは『純粋理性批判』の構想そのもの、特にここでは、経験を現象として説明する意図をもつ「超越論的感性論」から「超越論的分析論」までを述べるときのカントの視点を指すもので、それゆえこれら各論にはすべて「超越論的」という語が冠されているのである。カント自身、次のように述べている。
「私が一切の現象の先験的(超越論的)観念論というのは、一切の現象を物自体としてではなくて単なる表象と見なし、従って時間および空間を、物自体としての対象のそれ自体与えられた規定或は条件ではなくて、我々の直観の感性的形式であるとする学説のことである。」(A369)
つまり「超越論的と呼ばれるべき認識」(引用三)などにおける「超越論的」という語は、「ア・プリオリな総合的判断」を可能にするものとしてカントが述べようとしている『純粋理性批判』の学説そのもの――我々には純粋直観と純粋悟性カテゴリーというア・プリオリな主観機能があり、感性が対象を受け取り悟性がそれを思惟することで経験が成立している。それゆえ我々の経験には経験的拡張性と科学的確実性が必然的に伴うのだが、一方、その帰結として、認識しえないものの存在、すなわち物自体の存在もまた必然的に考えられなければならないとする学説――をいうのであり、カントが提示するこの独自の認識観を標語風に短く言いかえたのが「超越論的」という語であって、それはいわば『純粋理性批判』のキャッチコピーなのである。したがって「超越論的」は「純粋理性批判的」と読み替えて差し支えない。
上の理解に立って、先の「意味がとりにくい」と思われたB25などの言明を読み返してみると、カントの言わんとするところは明瞭である。要するに、これらの箇所でカントは、旧来の観念論や形而上学や伝統的論理学といったすでに知られているあり方と比較しながら、自分の新しい学説の基本構想を説明しているのである。
ただしそれだけではなく、カントは人間の感性的直観の他に、神の知性的直観についても度々言及し(「我々とは別の恣意的存在者の直観」B43、B71-72等)、人間における認識構造を相対化している。物自体は人間の感性と悟性によっては認識できず、つまり我々の経験の対象とはなりえず、ただ理性による推論によってその存在を想定しうるものに過ぎないが、しかし神において物自体は直観の対象物である。
『純粋理性批判』は人間の認識論だが、その傍らで、神の立場の認識論を考えるものでもある。それは『純粋理性批判』が、現状の我々の実際の認識を、我々に具わる認識機能による「制約」と見ることによって、我々の経験を真の存在物に対する限定された経験、すなわち現象と見る考え方からもたらされる。人間の認識が有限なのであれば、その有限性を取り払った高次の認識者の認識についての理解が生じるのは必然的である。
もっともカントはこの神の知性的直観について、それがどういうものであるかを我々が知ることは「まったく不可能(B43)」と述べており、『純粋理性批判』で神の認識論が展開されている訳ではない。しかし『純粋理性批判』は、人間の認識を真の存在物に対する認識制約と見る、その我々の全経験を相対化する認識構造によって、人間の認識論と神の認識論という二つの認識論へのまたがりを持つ理論となっているのである。
『純粋理性批判』に対する理解としてこの視点を保つとき、『純粋理性批判』が二つの認識論を含む完全な「超越論」ではないものの、「超越論的」な認識論であることが理解されるだろう。この意味でも「超越論的」とは「純粋理性批判的」をいうものと解することができるのである。
さて、「超越論的」を「純粋理性批判的」の意味に解することは、この語についてのこれ以上ない正確な理解であり、この読み替えによって『純粋理性批判』の目次を眺め直してみれば何もかもが合点がいくように私には感じられる。
例えば、第一部門「超越論的感性論」の空間論は、「形而上学的解明」と「超越論的解明」に分けて述べられるが、前者が空間についての一般的な哲学的考察であるのに対し、後者は『純粋理性批判』の構想に基づいた解明となっている。そこでは、空間を前提する幾何学は「我々の説明によってしか理解せられ得ない」(B41)認識であるといわれる。つまり「超越論的」解明とは『純粋理性批判』の道具立てを用いた説明なのである。
また、理解が難しいカントの言明「超越論的観念論者は経験的実在論者でありえる」(A370)や、空間と時間に関して「経験的実在性と同時に超越論的観念性をも主張する」(B44, B52)と述べていることについても、「超越論的」という語が、最終的に「純粋理性批判的」に帰着する語であることを頭に入れて読めば理解が易しくなるのである。
ただし「超越論的」を「純粋理性批判的」と読み替えるのは、身も蓋もない同語反復理解ともいえ、また次節にみる通り、同じく「超越論的」の語を冠する「超越論的実在論」を、カントは自身の立場ではない、すなわち『純粋理性批判』の立場ではないとして否定しているので、「超越論的」という語でカントが意図した内容については、単に「純粋理性批判的」というのではない、さらに具体的な概念理解が求められるのである。
そこでこの「超越論的」立場を、それが何と何にまたがる超越論性であるのかという冒頭での古典的視点に戻して検討してみると、私はそのことが、カントの批判的思惟の出発点、つまり『純粋理性批判』の書き出しである「緒言」の冒頭に明瞭に語られていると考える。そこでは、ごく常識的な経験論を採用することから叙述が始められている。
「我々の認識がすべて経験をもって始まるということについては、いささかの疑いも存しない。」(B1)
続けてカントは、認識の源泉に関して次のように叙述を進めて、純然たる経験主義からの離反を宣言する。
「しかし、我々の認識がすべて経験をもって始まるにしても、そうだからといって我々の認識が必ずしもすべて経験から生じるのではない。」(B1)
「我々は或る種のア・プリオリな認識を有する、そして常識でも決してこれを欠くものではない」(B3)
ここに述べられている経験(B1)とア・プリオリな主観(B3)、この二つながら内在的であるものに対してまたがる視点を採用することが、カントの超越論的立場における超越論性、すなわち「超越論的」におけるまたがりである。これは以下の考察からも支持されるところだろう。
先の第三の引用文(B80)に続けて、「超越論的論理学 緒言」では次のように述べられている。
「先験的と呼ばれ得るのは、かかる表象が経験的起原をまったくもっていないという認識と、それにも拘わらずこれらの表象が経験の対象にア・プリオリに関係することの可能とだけである。」(B81)
ここではアリストテレス由来の形式論理学とカントの「超越論的論理学」の相違が述べられようとしているのだが、まず「ア・プリオリな認識でありさえすればすべて先験的認識だというのではない」(B80)と述べられ、ア・プリオリな認識に含まれている分析的・形式的認識が排除された上で、上述の「先験的と呼ばれ得るのは」経験に由来するのではないア・プリオリな認識であってしかも対象に適用できる認識である、と続いている。したがって「超越論的論理学」とは対象と関わりを持つような論理の学、すなわち「対象がそれに従うのであるような論理学」のこととなる。
この語義に基づいて「緒言」の言明(B25)を捉え直してみると、両者には「対象にア・プリオリに関わる認識」という共通する言い回しを認めることができる。
したがって「対象に関わる」および「ア・プリオリである」という二つの句が、「緒言」(B25)における「超越論的」の実質的意味――ここで実質的というのは、先の同箇所についての考察では、ただ「認識についての認識」すなわち「認識論」という意味を引き出しただけだったため、あるいは「超越論的」を同語反復的に「純粋理性批判的」と読み替えただけだったためだが――を表しているとみることができる。そしてこれらは「経験」と「主観」を指示するものであり、先に示した「緒言」冒頭のカントの超越論的思惟の開始の論述に符合するものである。
したがって「超越論的」の元来の語義――二つ以上の概念にまたがる上位概念の意――において、またがられているその二つとは「(経験的)対象」と「(ア・プリオリな)主観」ということになる。
すなわちカントの超越論哲学とは「対象」と「主観」の二つに関して超越論的立場をとることを旨とする哲学であり、この見方は、カント哲学がいわゆる、対象との対応説的真理を重視するイギリス経験論と、主観における整合説的真理を重視する大陸合理論を総合する立場をとったとされる一般的な哲学史の見方とも符合する。
ここで特に確認しておきたいことは、「超越論的」とは物自体と現象、つまり「超越」と「内在」に関わる超越論性ではなく、「対象」と「主観」という二つながら内在的である事柄に同時に関わろうとする立場であるということである。そして、「対象」と「主観」に関する超越論を採る結果として、経験的対象は現象と物自体として二重に見られることになるということである。
現象と物自体を帰結させるものとしての「超越論的」とは、「緒言」冒頭での経験と主観の設定に始まり、「超越論的感性論」と「超越論的分析論」での演繹論証によって経験的対象が主観的現象として構成される際の視点を表すものであり、これを「超越論的観念論における第一の超越論性」とすることができる。