第二部 信仰と理性論 | 星加弘文 |
カントの『純粋理性批判』にはある不滅の思想が含まれていて、その部分は、たとえ彼の空間論と時間論が特殊相対性理論により瓦解しているとしても、
カントの後継者を自認したショーペンハウアーが「カント最大の功績」と述べた「現象と物自体の分離」という考えがそれである。
「認識できるものの他に、認識できないが存在しているものがある」というこの思想は、大陸の宗教的信念と容易に融合して、19世紀以降のプロテスタントキリスト教に深刻な影響を与えたが、
『純粋理性批判』の認識観が強固であるのは、近代以降の科学および宗教がもたらす通俗的な常識感を、理論的に保証する側面をもっていたためであるといえる。
近代科学における光学機器の発達と実験法の確立は、一方で、それまで知られていなかった遠方の天体や極小の細菌といった未知なるものの存在を人々の目に明らかにしつつ、他方で、この世界が、同じ条件のもとでは幾度でも同じ事象が観察されるという性質を堅固にもっていること、つまり「法則の下にある」ことを強く理解させた。
この、未だ知られざるものの存在を認めること、そしてすでに知られている範囲においては例外事象がないと知ること、これが科学的な態度として近代以降の常識となったのである。同時にそのことは、奇跡信仰などの昔ながらの宗教的信念を時代遅れのものとし、宗教的事象はなお否定されないものの、それは「知られざる領域」に存在すると考えることが、科学時代にかなう宗教意識となっていったのである。
『純粋理性批判』は、この近代的な常識感に過不足なくマッチするよくできた哲学理論といえる。「超越論的感性論」と「超越論的論理学」において、経験においては理性的理解を超える事象の存在しえないことを説明し、科学と学問の確かさを基礎づける。
次に「超越論的弁証論」での形而上学批判を経て、自由の存在と自我の超越性を足がかりとして、宗教の領域を道徳的なものとして新たに保証する。しかも、この宗教世界は経験世界と分断されているから、新たに発見されるかもしれないどんな科学的事象からも影響を受ける恐れがなく安全である。つまりこれにより、中世キリスト教が地動説に脅かされたような事態はもう起こらないのである。
さらにこの道徳的な宗教観は、例えば、病気を治してもらったので信じるというような自然感情に動かされた信仰心ではなく、「定言命法」に基づく非応報的であるような実に高級な道徳性をも獲得していたのである。
このように科学的でもあり宗教的でもあること、しかも科学には確実さを、宗教には高邁さを与える強化力が、カント哲学に広範な影響力を備えさせたといえるだろう。「現象と物自体の分離」という思想は、科学と宗教を「住み分け」させ、二つの領域に、互いが干渉し合うことのない安定を与えたのである。
しかしながら、カント哲学をこのように近代文化との親和性において評価するだけでは、単に哲学が時代への影響力をもつという、多かれ少なかれ哲学史に残るような思想においては当たり前であることを述べたにすぎない。そうであれば、カントもまた近代とは様変わりした現代科学の知見の前には潰え去ることになるだろう。
しかしたとえカントのもろもろの認識論的企図が崩れたとしても、「現象と物自体の分離」という考え方だけは、なお生き続ける。それはなぜだろうか。
「現象と物自体の分離」に関わる「現象は物自体ではない」(B335)などのカントの言明は、「認識できるものとできないものがある」という全く論理的な排中律言明、それゆえそこには「真の分断」が含まれる二分法言明と端的に結びつく。
カントは通常の経験を「現象」と呼び、それが「感性的直観」と「悟性カテゴリー」という主観の制約を受けたものとして成立するものであることを述べている。しかし、実は「現象と物自体の分離」という思想においては、経験および認識の成立が、空間・時間という純粋直観を経たものであることや、ア・ポステリオリな個々の感覚知覚を経たものであること、量、性質、関係などの悟性カテゴリーによる概念化を経たものであることなどはどうでもよいことなのである。
「現象と物自体の分離」という考えの不滅性は、「認識は制約である」という考え(B343)に集約されるところの『純粋理性批判』における認識論的主観主義そのものにある。
光学顕微鏡が可視光に依存する限り、可視光波長よりも微細なものを見分ける能力をもたないのと同じく、我々の認識は自身の主観能力に依存しており、それに適うものだけを認識する。それゆえ、我々が経験と呼んでいるものは、対象物そのままを知る経験ではなく、我々の主観を経て加工されたものであるから、それは観念論的意味合いをこめて「現象」と呼ばれるべきである。
したがって、我々は、自身の主観がどのような能力をもつのであれ、いずれにしても「現象」のみを認識すると理解されなければならないのであり、ここに、「認識できる現象と認識できない物そのもの(物自体)」という考えは明らかな真実となる。
この事情のゆえに、成立している認識のうち何を我々の主観側に割り振るかということについてのカントの基準が実際には誤っており、時間と空間は客観側に存し、量子レベルでの原因・結果という関係性は規定されない等々が現代的知見として働いたとしても、我々は相変わらず認識論的主観主義の二分法の中に置かれ続けることに変わりはないのである。このことが「現象と物自体の分離」がもつ不滅性である。
Chapter 2 - Section 4に引用した F.シェーファーの叙述の通り、この内在と超越とに分断された二元世界観の受容を免れないのが現代人であって、現代のプロテスタントキリスト教主流派神学もこの呪縛のもとにある。彼らは、カントも『純粋理性批判』も過去のものと見なしながら、しかし「現象と物自体の分離」という思想からは逃れられずにいるのである。
しかしながら、『純粋理性批判』の記述をたどると、現象と物自体の区別が、そのまま認識可能/不可能という論理的区分に結びつくものではないことがわかる。
「経験的認識」としての現象概念が、感性的直観と悟性カテゴリーを経たものとして成立する一方で、物自体概念の一つである「消極的なヌーメノン」は、感性的直観の対象にならず、かつ悟性カテゴリーの対象にもならないものとして規定されている。
というのは、Chapter 4 - Section 4-5に記した、現象概念の構成についてのド・モルガンの法則を使った高校生レベルの初歩的な考察から、以下のことが了解されるからである。
すなわち、現象となる認識領域を、模式的に「感性的かつ悟性的なもの」と表現すれば、その否定は「感性的ではないか、または悟性的ではない」となる。しかしカントの物自体は「感性的でも悟性的でもない」と解されるのが一般的である。上の「消極的なヌーメノン」がまさにそれである。つまりこのように理解された物自体は、現象の論理的否定の概念よりも明らかに「狭い」のである。
それゆえカントの現象概念の規定を厳密に捉えれば、世界は現象と物自体によって隙間なく二分されているのではなく、その中間に、『純粋理性批判』において明確な概念を得ていない領域が存在していることになる。
そして確かに、この見通しをもって『純粋理性批判』の全体を見渡すと、そういった間隙は随所に見いだされるのである。
(1) 感性未満の領域、すなわち物自体と純粋直観の間には「触発論」があって、超越的である物自体がいかにして内在たる我々の主観を触発しうるかという困難な問題が問われているのをみる。
(2) 感性論と悟性論の間では「直観の多様」という概念が頻繁に用いられており、
(3) この「直観の多様」はいわば感性以上、悟性未満の表象観念であるが、論理的にはこの逆、すなわち感性的直観には可能ではないが悟性にのみ可能であるような表象を考えうる。カントは、このような認識の可能性について「あらゆる対象一般を現象的存在と可想的存在とに区別する根拠について」の中で触れ、これを「避けがたい一つの謬見」(B305)として図式論に基づかせつつわざわざ退けている。このことは、この領域を考えることが的はずれではなく、論理的に必然であることの証左といえる。
(4) 同箇所においては、理性的推論の範囲内にありつつ、しかし実際には未知であるような「可能的経験」についても述べられている。これは未知であることと物自体の範囲が同じではないことをうかがわせる。(B201近辺にも同様の議論がみられる。)
(5)「超越論的弁証論」では、理性の果てに「可能的経験」を超え出、理性推論によってのみ可能となる「世界の総体」や「神」などの究極概念が「理性のアンチノミー」論において論じられる。これは理論理性と物自体の間の議論とみることができる。というのも、カントは世界の始源を問う「第三アンチノミー」について、定立/反定立を共に「真」とする「カント判定」を行い、これを足がかりとして、これらの理念を実践理性の対象物たる物自体とみなすに至るからである。
以上の議論では、カント自ら否定した(3)を除いて、物自体と現象という二つの概念ではまかなえない領域が問題とされている。しかしこのことは、現象と物自体の境界があいまいである、あるいは現象と物自体の中間に第三、第四の領域が定義されることが望ましい、など、現象と物自体の関係が見直されるべきことを示唆するものなのだろうか。
特に、(1) 触発論と、(4) 理性のアンチノミー論は、いずれも物自体に接する議論であり、超越との認識境界に関わる問題を扱うものである。そこで、カント哲学に不滅性を与えている「現象と物自体の分離」とは正確にはどのような事態をいうものであるのか、その考えはカントが述べたところを正しく表現したものであるのかを、この二つの議論を見直すことから明らかにしてみたい。
その際、現象および物自体の概念を生じさせているのが、『純粋理性批判』における「超越論的」立場であることから、まず、この「超越論的」立場とは何であるのかを確認することから始めていこう。