第二部 信仰と理性論 | 星加弘文 |
では、現代にまで生き続けるカントの「現象と物自体の分離」思想は、どこにその「正しさ」をもつのだろうか。この思想を乗り越えるためには、その「正しさ」について理解しなければならない。
まず、この思想に常に伴っている「認識可能/認識不能」という認識上の二分法については、それが認識の肯定/否定という論理的区分である以上、認識論設定として正しいと言わざるをえない。「何を認識できるか」という問題設定を行うとき、その帰結として「認識できないもの」についての何らかの見解が生じることは当然のことである。
カントは認識可能である領域を、空間的であることと時間的であること、そして悟性カテゴリー的であること、言いかえれば科学的認識に対応する限り(悟性カテゴリー的である限り)における物質的存在(空間と時間を前提する存在)であることとし、通常、我々が認識可能であると考えるすべてのものが含まれることになるような、ある意味では最大限に広い設定を行ったといえる。
このような認識制約のもとに成立する世界は「可能的経験」(B185)と呼ばれ、この「可能的経験」には、我々が単に物理的な限界から知ることができずにいるかもしれないようなもの、例えば「月の住人」(B521)といった、カントの時代には未知であった領域の存在者も含まれるのであった。
しかし、このように経験側の世界を最大限に広く設定したとしても、それが何らかの認識能力に依存した世界である限り、つまり認識である限りは、我々は認識可能な此(し)岸と、認識不能な彼(ひ)岸という二元世界の中に置かれることになる。
認識できない領域の存在を想定するといったことは通俗的な考え方でもあるから、「現象と物自体の分離」の不滅性とは、知られざるものの存在を信じるという、人々の間に広くみられる通俗性と、「認識可能/認識不能」という論理的な区分がもつ必然性が結び合うことから生じたものともいえるだろう。
カントはこの「認識可能/認識不能」という論理的区分に「現象/物自体」という『純粋理性批判』の具体相を対応させ、これにより、通俗的な「此岸/彼岸」という人々の認識に、学問的に満足しうる哲学的答えを与えたといえる。
すなわち、認識可能であるものとは「現象」の範囲のものであり、それは空間的、時間的、悟性的であるものとして定義された世界ということである。そして、認識不能であるものとは「物自体」の領域であり、それは非空間的、非時間的、非悟性的なものということである。
このことから「現象と物自体の分離」の考えを否定するためには、カントが定めたこの現象規定を論難すればよいという考えが出てくる。
Chapter 3に検討したドーイウェールトのキリスト教哲学では、この点をカント哲学への批判としていた。カントが「現象」を空間的かつ時間的なものとしただけではなく、悟性的なものすなわち論理的なものとしたことが、経験世界からの超越的事象排除をもたらした要因であり、この「悟性による直観の包摂」(B176)が、そして、より根本的にはこの「理性の全面支配」をもたらした「自然―自由」という実は宗教的であるところの思想動因に対する無自覚が、カント哲学の誤りとされた。(Chapter 3 - Section 2-4参照)
ドーイウェールトは、直観によって与えられた対象への悟性カテゴリーの「包摂」を、カントの異教的思惟の表われとすることで、経験世界に対する理性の全面支配の考えが誤りであることを述べようとするが、しかし同種の批判でよいのであれば、『純粋理性批判』を外から規定する「異教的根本動因」という宗教的根原性概念(Chapter 3 Section 2-1)をわざわざ持ち込まずとも、『純粋理性批判』にみられる直観と悟性の「隙間」を指摘することによってもそれは可能である。
カントは「直観によって対象が与えられ、悟性の能力が対象を思惟する」(B74)ことで認識が成立すると述べるが、このとき直観によって与えられた認識未満の表象を「直観の多様」といい、『純粋理性批判』にはこの概念が頻出する。
つまり、認識は物自体からいきなり現象として成立するのではなく、一度「直観の多様」という形態を経て、そこに悟性カテゴリーが適用されて成立するという二段階を経ることになっている。
そうすると、このところで奇跡事象などを含みうる日常的認識と、その日常的認識に悟性カテゴリーが適用された結果としての学問的認識とを区別することが可能であるように思われ、これをもってドーイウェールトと同様の「理性の全面支配」に対する批判とする、ということが考えられる。
この批判の可能性の詳細については省略するが、
しかしながら、こういった現象の定義に対する批判は、『純粋理性批判』への批判にはなりえても、「現象と物自体の分離」思想に対する批判としては役に立たないのである。
というのは、一つには、カント特有の現象観として設定された認識可能な世界、すなわち感性的かつ悟性的なものとして設定された認識可能な世界をどう変更したとしても、それによって、そのもう片側には認識不能な世界が必然的に設定されてしまうからである。これが「現象と物自体の分離」思想が持つ認識二分法の不滅性である。
現象の定義に対する批判が「現象と物自体の分離」に対する批判になりえない今一つの理由は以下である。
仮に、ドーイウェールトなどの設定に従って、我々の経験の範囲内に我々の理解を超えた事象が見いだされたとして、しかしそれが聖書が伝える奇跡や啓示と同種のものであるのかはよく考えられなければならないだろう。というのも、それはカントが現象に数え入れた「月の住人」のような、単にまだ我々の観測や理解が及んでいないというだけの未知事象であるかもしれないからである。
キリスト教における奇跡や啓示の本質は、それが我々の理解を超えたものであるというところにあるのではなく、それが神由来である、つまり超越から内在への関わりであるという点にある。
「現象と物自体の分離」がもたらす真の問題点もまた、認識可能とされる範囲に未知であるような、あるいは非論理的であるような事象が許容されないことなのではなく、認識不能な領域と認識可能な領域の「無通行」ということなのである。
それゆえ『純粋理性批判』に認められるとされる「現象と物自体の分離」を解決するためには、『純粋理性批判』の現象観を修正するのではなく、超越と内在のこの「無通行」という理解を修正する余地が見いだされなければならないのである。
この点をしっかりと捉えていなければ、単に我々の世界が実際にはカントの言うような、論理が世界を包摂した世界なのではないとするドーイウェールトの『理論的思惟の新批判』や、あるいは、カントの現象観の前提となっているニュートンの絶対時間・絶対空間の概念が、現在ではアインシュタインの特殊相対性理論の時空論によって完全に否定されているというB.ラッセルの指摘が、「現象と物自体の分離」への反論となると考えてしまう誤りに陥る。
確かにカントの空間論と時間論が否定されることで『純粋理性批判』は過去の書となるが、「認識論的主観主義」は生き残ったままである。前段(Section 4-2)の引用文で岩崎が述べている通り、空間と時間が主観的なものであれ客観的なものであれ、いずれにせよそれが我々の認識能力を通して知られるのである限り、我々はもはやカントが規定する主観ではないとしても、やはり何らかのその主観の能力に適うもののみを認識するのであり、認識しえない領域は分断された領域として残るのである。
『純粋理性批判』の刊行から二百数十年を経た現在、この書を否定することはおそらく容易であるだろう。私もまた『純粋理性批判』の認識観を正しいとは考えていない。現代の学問観や科学観はカントではなく常識的なロックの認識観に近い。
しかし『純粋理性批判』に含まれるとされる「現象と物自体の分離」思想は、『純粋理性批判』に対する現代的見識に立った否定、あるいはカント哲学が伝統的なロック認識論からの逸脱であり現代の学問観からもずれているといった、カント哲学の不整合の指摘などによっては葬り去ることのできないものなのである。
『純粋理性批判』の現象概念に対する批判が「現象と物自体の分離」思想への反論になっていないことは、ドーイウェールトが提示するキリスト教世界観に如実に表れている。彼は、学問的認識が成立する以前の通常の経験としての「素朴経験」を、経験の「地平」とし、それを15に区分けしてその最上位に「信仰領域」を含ませた。これらのことは『純粋理性批判』の「悟性による包摂」によって成立する「現象」という経験概念を修正するものである。
ところがその一方で、前章最終節に確認したように、彼の哲学においては「神のみことば啓示」、「真の神認識」といったものが完全に理性の外にあることが断言されている。これは、カントの物自体の位置に、それらキリスト教の中心事象を置いたということに他ならない。
このことは、ドーイウェールトが手をつけたのが経験範囲の変更のみであって、超越領域については手つかずのままとしたことの結果であり、彼の説くキリスト教世界観が、結局は「現象と物自体」の無通行というカント哲学の枠組の中に収まっていることを示しているのである。
キリスト教にとってはヘーゲル哲学や論理実証主義のような、何らかの論理が支配する一元論的世界観は受け入れることができない。中世キリスト教哲学がその当初から想定してきたとおり、世界は形而下と形而上の二元世界でなければならない。
しかし端的に言えば、そのような形而上性を帯びた事象というのは、その世界観のどこかにありさえすれば、つまり二元論的世界観でありさえすればキリスト教にとっては十分なのである。
それはもちろん形而下の現象に繰り入れられた非論理的未知というものであってもよいし、またドーイウェールトのように「素朴経験」という論理的作用を受ける以前のものとして設定された「時間的経験的地平」(Chapter 3 - Section 2-1)というものであってもよいが、しかし(意外に感じられるかもしれないが)カントが述べたような形而上の物自体であっても何ら差し支えないのである。
というのは、繰り返しになるが、世界を認識できるものと認識できないものに分ける認識二分法は、どのような世界観を採用したとしても生き続け、たとえ形而下側に未知事象の存在を持たせたとしても、常に、それとは別に、それ以外の領域に認識不能な世界を生じさせることとなるからである。しかしこのこと自体は、キリスト教にとって特に不都合なものではない。むしろキリスト教は、そういった神秘の領域を保つ世界観でなければならない。
したがって「現象と物自体の分離」思想において解決されなければならないのは、いずれにせよ避けることができない認識二分法による認識不能領域というものを回避することではない。それはむしろ必要な領域なのである。ただ、そのようにして分かたれることが必然である二つの世界が関わり合えないものとして考えられていくという、そのところが問題視されなければならない点なのである。
「現象と物自体の分離」とは、内在事象に非論理的な事象を許さないこと、すなわち現象における「理性の全面支配」のことをいうのではなく、超越と内在の無通行をいうものであって、この無通行こそが「現象と物自体の分離」の意味である。
それゆえドーイウェールトや「直観の多様」や特殊相対論による現象概念の批判は、「現象と物自体の分離」思想に対しては無力であり、いずれにせよこれらの批判においては物自体のようなものが残るのである限り、そういった経験範囲に関する批判は「現象と物自体の分離」思想の解決としては不必要な試みといわなければならない。
『純粋理性批判』にはもともと物自体という、現象と二元をなす領域が存在している。この物自体と現象の関わりを回復することが――ここで「回復」というのは、後に見る通り、カント自身は物自体を現象の原因と考え、両者の関わりを肯定していたからであるが――「現象と物自体の分離」の唯一の解決なのである。
前段で岩崎が述べていたように、カントの「認識論的主観主義」に立とうが立つまいが、我々が知りえる内在世界と知りえない超越世界は分断している。「現象と物自体の分離」という考えは、なるほど『純粋理性批判』がもたらしたものではあるが、カントの前批判期の論文「感性界と可想界の形式と原理」においてすでに認められる考え方であって『純粋理性批判』に拠らずとも主張できるものである。
つまりこの考えは、『純粋理性批判』によって初めて人々にもたらされた思想であるというよりは、カントの批判思想を知らない人々の常識においてもすでに漠然と理解されてきた世界観であって、それゆえ現代イデオロギーとして広く定着したのだといえる。
このことのゆえに『純粋理性批判』を、単に現代的視点から否定することは、「現象と物自体の分離」思想に対しては無力である。「現象と物自体の分離」は『純粋理性批判』よりも裾野の広い、よりベーシックな思想だからである。
これを打ち破るためには、超越世界がその超越性を保ちながらも内在世界に関わりうることが言われなければならない。それはちょうど、我々にとって「昨日」がけっしてアクセスできないものでありながら、「今日」の我々へと作用を及ぼしていることを捉えようとすることに比べられる。
以上をまとめておこう。
現象の範囲の変更による「現象と物自体の分離」批判は、この思想に対する解決としては的外れである。その理由は、
1.現象範囲をどのように変更したとしても、認識不能領域は必然的に帰結し、認識二分法は解消できないゆえ、
2.むしろ認識不能な領域は、キリスト教にとって残されるべきものであるゆえ、
3.問題は、いずれにせよ残ることが避けられない不可知領域と経験世界の無通行ということにあり、解決されなければならないのはこの点だからである。