第二部 信仰と理性論 星加弘文

Chapter 4 超越的認識の可能性 (10)「現象と物自体の分離」思想の考察

Section 4-4 「現象と物自体の分離」とキリスト教の相克

「現象=認識可能」「物自体=認識不能」というカントの強固な二元世界観は、キリスト教の世界観と親近性をもつものであった。『純粋理性批判』は形而上学の再興を意図したものでもあったから(Section 3-1)、カントにしてみればキリスト教との親近性は当然のことであっただろう。

聖書には「いまだかつて、誰も神をみた者はありません」ヨハネ4.12)と記されており、有限と罪という二重の制約の中にある人間は神を見いだすことができないゆえに、神は人となって現れ給うたと教えられている。そしてカントの思想に接した近代の神学者たちは、「現象と物自体」を、このような聖書の二元世界観の哲学的表現として受け止めたのであった。

しかし、カントの思想がキリスト教にとって致命的なものであることは次第に明らかとなってくる。先の引用で(Section 4-2)カントは物自体について「決して我々には知られないであろう」と言い、しかも「悟性は感性の限界、つまりそのなかでのみ我々に対象が与えられるところの限界を踏み越えることはできない」と述べているのであった。

これは、経験可能である現象世界以外の事柄については一切語ることができないという厳格な主張である。聖書は「聖霊」や「神」について多くを語るが、カントの考えを認める限り、聖書は語りえないことを語っていることになる。Chapter 4 - Section 1 に紹介した、カント的思惟に対する保守神学の「嘆き」はこれを述べたものである。

カントの「現象と物自体」には分断が伴っており、それはキリスト教の「啓示」概念を許さないものであった。キリスト教もまた二元世界観を持つが、それは断絶を含むものではなく、この点でカントの二元世界とは異なるものなのである。

シュライエルマッハーに始まる近代神学は、カント哲学の枠組をそのままにしながら、カントの形而上学である道徳神学をよりキリスト教的なものへと置き換えていく歩みであったといえる。

しかしそれにしても、近代神学に始まる現代主流派神学が、カント哲学とキリスト教が似て非なるものであることを理解しながら、これを完全に拒否することなく現在に至っているのは不思議なことといえる。

保守派はカント哲学を最初から拒否し、これを省みることをしなかったが、主流派神学はカントの「現象と物自体の分離」の思想を受け入れつつ、キリスト教信仰の可能性を探る方向に進んだ。これはどうしてなのか。

主流派神学が「現象と物自体の分離」におけるその断絶性に気がついていないということではない。逆であり、彼らはその断絶の思想を正しいと考え、聖書が述べる連続的な二元世界観を素朴に受け止めてきた近代以前のキリスト教の方を誤りと考えているのである。彼らが承認している「現象と物自体の分離」の「正しさ」については前段で確認したとおりである。

保守主義のように、とにかく聖書が正しくカントは誤りだと断言できるなら問題は簡単であった。しかし、カントの思想を幾分かでも真面目に検討してみるならば、その考えを簡単には退けられないことに気づかされるのである。

「物自体」を「決して知られない」とするカントの考えは、経験および理性という認識可能なものに関する考察から導かれた主張であり、我々の理性に訴える強さという点で聖書に勝っている。

一方、「聖霊」や「神」についての聖書の記述を承認することは、信仰において受け入れていることにすぎないといえる。我々はそれらの教えの真実であることを確かめることはできない。

対して、物自体の「知られなさ」については、先の「現象と物自体の分離」の二分法の考えを検討することで、我々は何度でもその正しさを確認するのである。

つまり我々もまた『純粋理性批判』と聖書という二つの書を前にするとき、理性的に考えればカントの思想が正しいが、信仰に立てば聖書を正しいとしなければならないという、主流派神学が置かれてきたのと同じ悩ましい状況に置かれることになる。

そしてこの状況を受け入れた中では、理性に傾けば「啓示否定」「神は死んだ」というところに行き着き、信仰に傾けば「不合理ゆえに信ず」「信仰は飛躍である」といった啓示なしの信仰に至らざるを得ない。

これら二つの谷間にかかる狭い尾根を行こうとしているのが主流派神学の立場であるといえるだろう。その目ざすところは、現象と物自体の断絶を承認した上でキリスト教を成立させることであり、いずれにせよ啓示と奇跡を必要としないキリスト教信仰のあり方を追求するということである。

この主流派神学の方針が正しいわけではない。 彼らが述べていることは、つまるところ「啓示の否定」と「信仰の飛躍」という、キリスト教と『純粋理性批判』の融合の結果としての二つの形式の維持であり、いうまでもなくそのような信仰はいずれも聖書的ではないからである。

しかしもし、カントの思想が何らかの意味で正しさをもち、そして、我々がそういった哲学的思惟をとにかく反信仰的なものとして一切捨てるという態度をとるのではないとすれば、我々もまた何らかの意味でカントの正しさを認めることは避けられないと思われる。

しかし、もちろん主流派神学のようにではなくその道を探るつまり、カント的分断を認めることにならない形でカントの思想を了解するということが求められていると理解されなければならない。

カントは現象と物自体の分断を述べ、主流派はその分断を認めた上でキリスト教のあり方を模索する。一方、保守派はこの思想を表層的なところで切り捨てようとして、現在、両者はその道を分けている。

しかし私はカントが認識可能と不可能を分ける世界の境界について述べようとしたことは、両世界の分断を招かない形で理解し直すことが可能であり、しかもそのような形で理解することが、現代思想に照らして最も適切な『純粋理性批判』の解釈であることを示したいと思う。

それだけではなく、その理解は『純粋理性批判』本来の主張を正確に捉えたものであって、しかも聖書的立場とも合致すると考えるのである。