第二部 信仰と理性論 星加弘文

Chapter 4 超越的認識の可能性 (11)「現象と物自体の分離」思想の考察

Section 4-5 「現象と物自体の分離」の解決方針

「現象と物自体の分離」思想が持つ「正しさ」についてもう一度確認しておこう。

先段で「現象と物自体の分離」が、「認識可能/認識不能」という区分に、「現象/物自体」といういま一つの区分を対応させたものであることをみた。「認識可能/認識不能」が論理的な区分であるのに対し、「現象/物自体」は経験および主観に関するカントの考察から導かれた区分である。つまり両者の由来は異なっている。

このとき、「認識可能/認識不能」はそれが論理的な区分であることから誤りの可能性はなく、また、「認識可能=現象」については Section 4-3 で確認したところにより、これを論難することが「現象と物自体の分離」の否定には至らないことをみた。

すなわち、認識可能とされる現象概念をどのようなものとして設定したとしても、認識不能な領域との断絶は避けられず、それゆえ『純粋理性批判』の現象説あるいは、認識論的主観主義そのものを批判しても「現象と物自体の分離」に対する批判にはならないということである。

したがって「現象と物自体の分離」に批判の余地があるとすれば、それは「物自体=認識不能」とする物自体の理解についてであると考えられる。

物自体という概念は、経験において認識される対象を現象とみなすという設定と、それに伴う素朴な実在論的推論現象があるからには、その根底に何かが存在していなければならないという信念[16]から導かれており、これをもっともな考えと認めるとしても、これをもって物自体と認識不能領域を等しいとすることはできないだろう。

例えば、カントの言う「可能的経験」Section 4-3)を含めて、認識可能なものすべてを現象と呼ぶのである以上、その否定としての物自体が認識不能であることは正しいと考えられなければならないとしても、その「物自体」の領域と「認識不能」の領域が「=」で結ばれる関係にあるかは不確かである。物自体は認識不能だが、それは認識不能であるもの全体の一部を占めるにすぎないとも考えられるからである。

「超越論的分析論」に頻出する「直観の多様」という概念の存在からもそれは窺えることである。「直観の多様」は、認識成立以前の表象であるにも関わらず物自体ではないので、これを厳密に捉えるならば「物自体」と「認識不能」は同義ではないということがいえる。この場合、「現象」ではないもの、すなわち認識に至らないもの、したがって「認識不能」なものとしては「物自体」と「直観の多様」という二つがあることになるからである。

このように、「物自体」と「認識不能」の領域は、ぴったりと重なっているのではなくそこにずれがある、つまり「認識可能/認識不能」と「現象/物自体」という二つの区分が同じではない可能性が考えられるのである。

認識不能である世界とは、認識可能な世界の否定として定義される。これは論理的なことであるから一般に正しいとしなければならない。そしてこの肯定と否定の間には真の分断が存在している。この点もよいだろう。

そして、カントおよびカント解釈者は、物自体についてもこれと同様に現象の否定として考えたために、現象と物自体の間に真の分断が持ちこまれて両者は断絶したといえる。しかし現象と物自体に関しては、上のような単なる論理的な二分法、正しく言えば「古典論理の排中律による二分」とは別の見方が行われなければならなかったのではないだろうか。

『純粋理性批判』で、カントが存在のあり方を規定したのは現象だけであるので(次段「目次解説」参照)そのとき、その残りである物自体を現象の否定として述べることは、現象と物自体に対して「古典論理」の意味での排中律を適用していることになる。この古典論理の排中律は世界を隙間なく二分するものである(Chapter 2 - Easy study 5-1)。

しかし Chapter 2で扱った「直観主義論理」の考え方を思い起こすと、その全体を知りえない事象では例えば、πの小数列や迷宮入りした事件などではそしてまさに不可知とされる物自体を擁する「現象と物自体」という二元世界観においては、知られていない未知の領域を、知られている側の否定として考えてはならないのであった。

カントは空間的、時間的、悟性カテゴリー的であるものが「現象」であるということを『純粋理性批判』の「超越論的感性論」と「超越論的分析論」で述べるが、それは、経験的対象と主観機能から「現象」を構成してみせる試みである。

その方法は、確実に知りえているものを基礎として論を積み上げる伝統的な前件肯定式型の観念論的演繹であり、現代的には構成主義、すなわち直観主義論理の方法である。

それゆえ仮に、現象側についてのカントの論証を正しいとみなしても、そこで論証されなかった世界、すなわち物自体を現象の単なる否定として考えることは適切ではないことになる。世界全体という未知を含む対象では「真/偽」ではなく、「真/真である可能性を残した不明」という全体観が運用されなければならないと考えられるからである。

すると「現象と物自体」は、「認識可能/認識不能」のように論理的に世界全体を漏れなく二分するものなのではなく、そういった古典論理的な「肯定/否定」とは異なる関係にあると理解されなければならないだろう。そして奇しくも先に挙げた「直観の多様」は、それが与えられた時点では認識に至っておらず、悟性の関与を受けた後に「現象」として成立するのであり、まさに「真である可能性を残した不明」に該当する概念なのである。

私は『純粋理性批判』における現象と物自体の関係は、直観主義論理における排中律の解釈の下に置かれるときに正しい理解が得られると考える。カントの論述は、既知世界にいる者が、そこから未知の領域を考えようとする時に、どのような考え方が可能であるかを「背進」[17]という概念によって正確に述べていると思われるからである。

カントは「超越論的弁証論」の中で、この「背進」、現代的に言いかえれば「構成」という考えによって現代の直観主義論理に通じる排中律理解を初めて述べた。しかしカント自身も含め、カント解釈者たちは伝統的な古典論理の排中律理解の中で現象と物自体の関係を捉えており、そのことが現象と物自体を、世界を二分する分断原理とさせてしまったのである。

以上に加えて、現象と物自体の関係については、たとえ古典論理の理解に立ったとしても、その境界がなおあいまいなものと考えられなければならなかったことが指摘されなければならない。

物自体を現象の否定として考えるとき、古典論理は少なくとも三通りの物自体を帰結させる。それはカントの現象概念が、物自体に対する直観と悟性の制約から成立する複合概念であるためである。

直観を空間的かつ時間的であること、すなわちカントの用法で「感性的」であることとし、悟性を(こちらはショーペンハウアーの用法で)「因果的」であることと解すると、我々が経験している現象とは、感覚によって捉えうるもので、かつ科学的な理解が可能であるものとして規定される。

そこでこの「感覚的かつ因果的」である現象概念の否定を考えるとそれが物自体とされてきたものにほかならないが、しかし古典論理のド・モルガンの法則から「感覚的ではない、または、因果的ではない」が帰結する。ここからは三通りの物自体概念が生じる。

すなわち現象の否定としての物自体は、

(a) 感覚的ではないが因果的であるもの

(b) 感覚的だが因果的ではないもの

および

(c) 感覚的でも因果的でもないもの

という三種類があることになる。ここで、一番目と二番目のものを「または物自体」、三番目のものを「かつ物自体」と呼ぶことにしよう。

つまり、先に「認識に至らないもの」として、『純粋理性批判』においては「物自体」と「直観の多様」があることを指摘したが、「物自体」についてはさらに、「または物自体」と「かつ物自体」に分かれるのである。

すると「内在と超越の無通行」というカント後に広まった世界観は、物自体を「かつ物自体」とみた結果であることが明らかであるだろう。確かに、感覚的でなくかつ因果的なふるまいをしないものは我々の経験になることはない。それはどこまでも超越の彼方のものであるに違いない。

一方、「または物自体」においても超越としての性質が保たれていることが理解されなければならない。

「わたしたちの主観を除去してしまうか、感覚能力一般の主観的な特質そのものだけでも除去してしまうならば、事物のすべての特性は消失してしまうだろうし、…」[18]

上で「感覚能力だけでも除去されるなら事物の特性は消失する」と述べられているところで、カントは物自体を「または物自体」としても述べているといえる。これは上リストの(a)に相当する因果性を残した物自体である。そしてこの物自体においてはカント本来の主張の通り、内在と超越の無通行は存在しない。

というのも、ここでの「感覚能力だけでも除去された」場合の「物自体」とは因果性を残した物自体であるから、「観察はできないが理解はできるもの」のことを指し、すなわち科学理論の前提に置く事柄や、その理論によって予言される事柄というものに相当するだろう。これは未知である事柄に対する我々の側からのアクセスであり、物自体についてのカントの著名な言明「知ることはできないが考えることはできる」[19] に符合するのである。

一方「または物自体」の(b)については、「経験できるが科学的に理解できないもの」つまり奇跡のような未解明の事象のことを指し示すものといえる。

もし『純粋理性批判』が提示する物自体が(c)であり、未来永劫一切の関与が不可能な存在であるならば、そのようなものは我々にとって顧慮することの意味を持てない存在であって、実際、カント後のドイツ観念論がそうしたのであるように、我々の思考から取り去ってよいものであるだろう。ヘーゲルが自分の腰掛けの下に投げ捨てたと言われるその物自体は「かつ物自体」だったのである。

「現象と物自体の分離」において真に有毒であるのはこの「かつ物自体」であり、超越概念としてこれのみが考えられている限り完全な認識二元論、すなわち超越と内在の無通行を避けることはできない。両者の関わりを主張することはその世界観において明らかな矛盾だからである。

しかし「または物自体」は我々にとって未知である存在を指し示し、超越と内在の境界が不定であることを示唆するものとして現代の科学的経験および宗教の立場と一致するのである。そしてこの「または物自体」は『純粋理性批判』の物自体に分類される概念であり、ここに我々はカント哲学を出ることなく物自体の認識可能性を、すなわち超越論的認識としての超越的認識の可能性を主張することができるのである。

さて、現代論理学に基づいた上の考察は、当章最終節(Section 12)に確認するとおり、『純粋理性批判』の中にその場を持つことが十分に可能なものだが、次節に『純粋理性批判』の目次解説を試みた上で、次々節(Section 6)から、これとは別に、現象および物自体それぞれの導出関係を明らかにして「現象と物自体の分離」の解決を検討することとしたい。それによって「現象と物自体の分離」という多分に世俗的である認識二元論思想と、『純粋理性批判』というカントの超越論思想の真の関係性も見えてくるはずである。

これを含め、Chapter 1 - Break に概略を記した「現象と物自体の分離」についての4つの解決の論述箇所を、ここで改めて示しておこう。以下、4つの議論を示す(1)~(4)の番号は、Chapter 1 - Break での1.~4.に対応する。相互参照可能)

A『純粋理性批判』内に留まっての議論

1.現象と物自体は世界を二分しないという議論

(1)「現象」と「物自体」それぞれの出自を検討する議論(Chapter 4 - Section 11)

2.現象と物自体が世界を二分したとしても、物自体が現象に関与しえる、あるいはその境界があいまいであるという議論

(2)「現象は物自体ではない」というカント言明の部分否定解釈(Chapter 4 - Section 11, 12)

(3)「かつ物自体」と「または物自体」の議論(当節、Chapter 4 - Section 6)

B『純粋理性批判』外に出ての議論

(4) 認識二分法が無自覚的に前提する古典論理の排中律理解を、直観主義論理の排中律概念によって批判する議論(Chapter 2 - Hard study 5-4-4, Chapter 2 - Section 4, Chapter 4 - Section 12)