第二部 信仰と理性論 星加弘文

Chapter 1 「信仰と理性論」の方法論 (5)

Break 落合仁司著『数理神学を学ぶ人のために』と当論考の関係について

当論考「信仰論」および「信仰と理性論」の最初の発表は、教会の教職者を対象としたある配布活動によって2009年から2010年にかけて行われた。その前年に仕上げられた『キリスト教命題学』という大部の論考をおよそ半分の長さに書き改め、タイトルを『開かれたキリスト教のための信仰と理性論』として、B5版縦書3段組の体裁で約300頁の読み物が17回に分けて配布された。当初、牧師たちから二、三の反応が寄せられたが、それらは「信仰を理性で語る」ことへの危惧や、弁証論的議論への飽きと無期待を示すものであった。

同じ時期『数理神学を学ぶ人のために』[1] という、キリスト教組織神学に数学の集合論を適用する試みの書物が発行されようとしていて、その書評の執筆依頼が著者落合氏から東京キリスト教大学稲垣久和教授にあった旨の連絡が、稲垣教授から私に届いていた。というのも、稲垣氏は私の神学校時代の卒業論文の指導教官であった関係から、私は自分の『開かれたキリスト教のための信仰と理性論』を毎月、稲垣氏にも送付していたのである。

カントを扱った私のかつての卒業論文には氏から二つの疑問が付されていたが、『開かれたキリスト教のための信仰と理性論』は、それに対する25年越しの答えでもあった。当時、稲垣氏は私に以下を問うていた。

保守キリスト教はカントからの影響を受けていないが、なぜカント哲学を扱うのか

保守キリスト教における現代的課題は、日常的な世界についての「キリスト教的世界観の確立」であると考えるが、なぜ非日常的な出来事である奇跡について論じようとするのか

これに対し私は次のような説明を添えて、『開かれたキリスト教のための信仰と理性論』がその回答でもある旨を伝えていた。すなわち、

保守神学はカントの影響を直接には受けずにきたが、カント哲学の影響によって生じた新正統主義神学などへの反動から権威主義化を余儀なくされている。このため保守派もまたカントの間接的な影響の下にあるとみられなければならない。しかしこのとき行うべきは新正統主義などの新プロテスタンティズムへの対抗措置ではなく、それを生じさせたカントの「現象と物自体の分離」という思想への対処であって、新正統主義のようにならずにカント哲学を克服する方法が探求されるべきである。

カントによって否定された啓示としての奇跡はキリスト教成立の前提事項であって、これが揺るがされている状況においては「キリスト教的世界観」どころかキリスト教そのものが危うくなる。したがって奇跡なし、命題的啓示なしとする新正統主義神学および現代主流派神学を生じさせるに至ったカントの「現象と物自体の分離」思想を検討し、これを正しく批判することは「キリスト教的世界観の確立」以上に重要な課題といえる。

稲垣氏と私の論考のいきさつは以上だが、氏は先の落合氏の著作に対する書評が「ひじょうに厳しいものになることを著者に伝えた」ことを私に伝えつつ、その草稿を送ってこられた。

氏がわざわざ発表前の原稿を送ってこられたことに私は驚いたが、あるいは稲垣氏が、落合氏の『数理神学を学ぶ人のために』と、私の『開かれたキリスト教のための信仰と理性論』を同列視しているのかもしれないとも思われた。それはまた、先に私の配布文書に対して二、三の反応を見せた牧師らの感想と通じるものなのかもしれないという望ましくない予感でもあったのである。

そこで私は『数理神学を学ぶ人のために』と『開かれたキリスト教のための信仰と理性論』を同種の試みと解されることを避けるための説明を書いて稲垣氏に送ったのであった。この説明文は、落合氏と稲垣氏と私の神学的方法論の違いを述べたもので、キリスト教哲学に関心をもつ人以外には私文でもあり無用だが、少なくともその前半部分は方法論に関する明快な解説になっているので参考のため掲載しておく。[Inagaki]

当時、私は毎月の配布活動に執筆を間に合わせることのために余力がなく、稲垣氏への上の手紙は落合氏の著作を読むいとまがない中で書かれた。このため手紙の中での同書に対する私の見方は不十分なものとなっている。

今回、同書を読み進める機会を持ったので、ここに改めて私の「信仰と理性論」と落合氏の「数理神学」の違いを明瞭にしておきたい。なお、同書への書評はインターネットサイトにあがっている。概要については氣多氏の書評が伝えている。

※稲垣久和氏による書評

https://www.jstage.jst.go.jp/article/nihonnoshingaku/49/0/49_0_208/_article/-char/ja

※氣多雅子氏による書評

https://www.jstage.jst.go.jp/article/sprj/30/0/30_131/_article/-char/ja/

『数理神学を学ぶ人のために』と私の「信仰と理性論」の違いの第一は扱う主題にある。主題そのものが異なるが、それに伴って主題の性質が持つ現代的意味合いが異なっており、このところにキリスト教哲学としての方向性の違い(キリスト教哲学において解決されなければならない問題は何かについての理解の相違)がある。

また第二点目として、私の論考がカント哲学の克服を直接の目的とし、落合氏の著作もその試みが成功していれば(落合氏の著作はカント哲学の克服を直接目ざしたものではないが)結果において同様の効果を果たすものといえるが、克服の方法が違っている点が挙げられる。私の論考は、カントが設定した超越に対する理性の認識限界を受け入れた上での克服論だが、落合氏においては、超越に対する理性の認識限界そのものが破られたことが主張される。

まず第一の点から確認しておきたい。「数理神学」で扱われているのは「神の三位一体」や「キリストの二性一人格」など、キリスト教神学に含まれる矛盾とみられる事柄である。

この「矛盾」は人々がキリスト教へ近づくことを妨げる要因となってきたので、その解決を図りたいというのが同書の主旨である。氏によれば、それらの「矛盾」は一般的な自然言語によって神を述べようとすることから起きており、集合論という現代の数学言語を用いることで理解可能なものになるということである。

これに対し、当論考が解決を図ろうとする主題は次の三つである。

(1) 救いに関わる教義の受容必然性(信仰論」Chapter 3)

(2) 史的イエスの認識可能性(信仰論」Chapter 4)

(3) 奇跡や啓示などの超越的事象の生起可能性(信仰と理性論」Chapter 4)

上を述べるにあたり当論考では、演繹や仮説演繹、前件肯定式、後件肯定式という推論に関する論理学の概念が使われる。また、排中律に関係する古典論理と直観主義論理という現代論理学の区分も使われる。

こういった既成の学問的概念が使われる点で、当「信仰論」および「信仰と理性論」は、落合氏の『数理神学を学ぶ人のために』と似た印象を与えるかもしれない。しかしそれは以下の通りきわめて表面的なものである。

「数理神学」が解決しようとする課題は、「神の三位一体」に関連して「全能の神が自らが苦しむ」ということや、「キリストの二性一人格」に関連して「無限の神が限界を有する」といった、教父時代に遡る困難とされてきたキリスト教神論の諸問題である。

ちなみに「三位一体」は6世紀の第三トレド会議、「二性一人格」は5世紀のカルケドン会議において、他の理解を退けた正統教義である。

一方、当論考が解決しようとする課題は19世紀以後に生じたキリスト教の新たな困難である。カントの『純粋理性批判』が、それまでは正確に理解されてこなかったところの、しかし誰もが漠然とそう感じてきたところの「認識できるものと認識できないものがある」という極めて常識的な感覚を、哲学として跡づけたことにより、人々の間に「科学は科学、信仰は信仰」という認知的な二元論が定着することとなった。

カントの近代的理性によってもたらされたこの新しい常識が、奇跡生起不可能、およびその発展版であるイエス認識不可能を必然とし、「信仰と理性の分離」という新たなキリスト教信仰のあり方を生じさせたのである。

この「信仰と理性の分離」は、キリスト教外の人からはむしろそれが当然とみられるような考え方だが、ここで「分離」とは「無通行」を意味するものであるから、例えば「科学は科学、信仰は信仰」という科学と信仰の関係についての理解の仕方は、キリスト教が世界の事実に関係したものとして成立しているという「キリスト教信仰の事実依拠性」を否定するものとなる。

その結果、キリスト教は理想主義や道徳に引き寄せられてその生命を失うのである。保守派が新プロテスタンティズムに見るのはこの危険である。

古代教会に論争をもたらした「三位一体」や「二性一人格」に関するさまざまな理解は、アリウス派、ネストリウス派、エウチューケス派など幾つもの教義的分裂を引き起こす要因となったのであるが、これが正統教義として定められた後は、それら矛盾と見えるところをそのまま受容する「正統主義」として教会に統一をもたらしてきた。

したがって現代のキリスト教会がこれらの教義を問題にすることはなく、それらの派はなお歴史的再生を繰り返しているものの、教会はこれを「異端」として扱い、もはや教義上の論争相手とはみていないのである。

これに対してカントの『純粋理性批判』、特にその中の「現象と物自体の分離」思想に端を発する様々な「亜カント主義」[2] は、現在、まさに教会分裂に力を揮っている最中であり、内在と超越間の「絶望の境界」[3] の受容はもはや現代人のイデオロギーといえる。「信仰論」Chapter 2 Easy Study 1~3にこの事情を述べたが、それらはいずれも解決を見ていない問題である。

すなわち神の無限と受肉、全能と苦難、キリストの神人二性性などの事柄は、すでに現代的課題ではないのが実際であり、むしろ古代神学が抱えていたこれらの問題はキリスト教誕生の時から存在した、この宗教の神観の本質にあるものといってよい。言いかえれば、これらの教義は理解することが求められたものではないのである。

かつて私の卒論には稲垣氏から「なぜその議論が必要なのか」という疑義が呈されたが、その疑義を私は落合氏の著作に振り向けたい。また私の『開かれたキリスト教のための信仰と理性論』に対しては「あまり重要でないことに時間を使ったな」という感想を伝え聞いたが、私は自身の試みについてはそのように思わないけれども、落合氏の試みについては心ないこの感想を禁じ得ないところがある。

聖書に書かれている奇跡が本当の出来事であったのかを疑って、それが信仰への道を妨げるということは現在でもよくあることである。それは聖書が嘘を書いた書物になるからである。

しかしキリスト教の神概念に疑問を抱いて信仰から遠ざかるという人は実際にはいないだろう。神である以上それが我々の理解を超えたあり方をしていることはむしろ当然とするのが通常の理解だからである。神を信じる困難は別のところにある。すなわち、キリスト教が提示する形で神が存在するとして、私がそれを信じる必然性がどこにあるのかということである。

これらのことのため、私は落合氏の著作が意図する事柄について、これまでその必要性を感じることはなかったのである。

さて、しかしながら今回『数理神学を学ぶ人のために』を読む機会を持ち、いま一度、自身の論との比較を考えていく中で、私は上の感想を含めて、これまでの考えを一部改めねばならないと思うところがあった。このことは先に触れた、私と落合氏の著作の第二の違いに関連している。

著名な複数の哲学者から『純粋理性批判』最大の功績と呼ばれている[4]「現象と物自体の分離」という考えは、キリスト教に二つの影響をもたらしている。前世紀の新正統主義神学の代表者二人による言及があるので引用しておきたい。もっともこれらは彼らがカントの影響として二つの効果があることを理解した上で述べているものではなく、それぞれが「現象と物自体の分離」をそのように理解したということの表れにすぎないものだが。

「人間があの国に侵入したり、あの国がこの世界に進出したりすることは決してない。」K.バルト)[5]

「純粋理性批判を書いた人は、形而上学が再び始められないことを知っている」E.ブルンナー)[6]

ここで初期のバルトが述べているのは「現象と物自体の分離」を存在論的に理解したもので、現象としての「この世界」と物自体としての「あの国」の無通行をいうものであり、相互の関わりを否定するものである。

一方、ブルンナーの言は「現象と物自体の分離」を認識論的側面において捉えたもので、『純粋理性批判』が理性の認識能力としての限界を定めたことを指す。「現象」を作り上げる機能である我々の理性(カント本来の区分では理性ではなく悟性だが)には超越を語る権利がないことをいうものである。

そこで私の論は、バルトの意味での「現象と物自体の分離」を克服しようとするものであり、その言明の後半部「あの国がこの世界に進出したりすることは決してない」ということが『純粋理性批判』の帰結ではないことを示そうとするものである。つまりブルンナーと同様に、カントが教える理性の認識限界を認めた上で、しかしそのことは超越と内在の通行を不可能にするわけではないことを『純粋理性批判』の内容に関して論証するものである。

これに対して落合氏の著述は、ブルンナーの意味での「現象と物自体の分離」が克服されることを主張するもの彼がカントに関連させてこれを意識していることは著述からは認められないがといえる。

現象を構成する役目である理性がそれゆえ認識限界を持ち、物自体については語りえないというのは18世紀末のカント時代に知られていた理性、すなわち「近代的理性」でのことであって、19世紀末のカントールの集合論によって無限を扱えるようになった「現代的理性」においては、理性は超越を語る権利を若干にせよ獲得したということである。

ここで落合氏が主題とする「三位一体」などの教義を、私の論考がどのように扱っているかについて、その反省とともに触れておこう。

私の論考では、そういったいわば「天上的な教義」の承認については信仰成立後の課題とみなしている。

キリスト教哲学の議論を分類した「信仰の内訳表」信仰と理性論」Chapter 2 - Section 2)、信仰と理性の多対多対応表」信仰と理性論」Chapter 2 - Section 4)にその位置づけを表しているが、そこでは形而上学的であるような教義的主題が議論対象から外されていることが示されている。

それは私の最初の著述である『キリスト教命題学』以来の方針であり、キリスト教哲学が明らかにすべきは神の位格や終末の様相といった、キリスト教信仰の奥深くに位置する天上的事柄ではなく、イエスが我らの救い主であるというキリスト教信仰の入口に関わる諸問題であるという考えに基づいている。

このことはキリスト教における初めの困難が解かれるとき、自余の教義を受け入れることの困難はないに等しいと考えられた結果でもある。というのも「信仰論」Chapter 2-Argument 2に紹介した「ローテの原理」が、この場面でも機能すると考えるからである。

ローテの原理とは「聖書信仰」の妥当性についての原理であり、我々自身は聖書が神の言葉であることの客観的な証拠を持たないが、イエスがそう信じていたのであれば、そのイエスを神と信じる信仰が我々に成立したあかつきには、彼が信じていたところのものを同様に信じる必然性が我々にもあるとするものである。

そこで「聖書信仰」と同様に、「三位一体」や「二性一人格」あるいは終末や天使等諸々についても、聖書にそれが表されている限り、聖書を神の言葉として教えたイエス自身の信仰ゆえ、我々もまたこれを受け入れるということである。ガリラヤ湖でペテロが不漁の一夜を過ごした後、イエスの勧めに従って網を降ろそうとする時に「お言葉のとおりに」と言った彼の態度と同様のあり方で、我々もまた神に関する諸命題を「主の信仰のとおりに」として受け入れるのである。

しかしながらこのことは、私自身がカントの「現象と物自体の分離」思想における認識論的側面、すなわち「我々の理性には形而上学を語る資格がない」という考え[7] を無条件に受け入れてきた結果でもあることが指摘されなければならないだろう。

その結果として、私は天上的教義の受け入れに、実は信仰とも不信仰ともつかない先のペテロの態度に準じたあり方を用いる他ないと考えてきたのであったのかもしれない。この点が今回の落合氏の著作の考察から得た反省である。

確かに、カント以前的あるいはカント的近代理性において神の性質を論じようとするとき、そこにはデカルトや中世神学が陥っていた誤謬、すなわち超越を含む全世界を論じてかまわないとする理性に対する素朴な前提への無自覚が生じていたといわなければならない。

理性に対するこの無自覚性を、理性が自らを批判する超越論的批判において明らかにしたことが、カントが中世神学を瓦解させたことの「功績」といわれる所以である。

先のブルンナーの言明にある通り、中世神学の核である形而上学はカント哲学によって封じられたのであり、カントのこの功績は現代的視点においても有効と認められるだろう。理性批判のこの意識こそ当章冒頭に触れた2007年の「カント研究会」の言明につながるものである。

しかし、もしデカルトあるいはカントに始まるとされる「近代的理性」が、その後、進化したとしたら事態は変わると考えられなければならなくなることは道理である。

有理数だけを認めていたピタゴラスは、正方形の対角線の長さを分数で表せないことを知ってこの問題を忌避したと言われているが、その後、弟子が無理数を発見したことでこの問題は難なく扱えるようになった。

これと同様のことが「近代的理性から現代的理性への進歩」によってもたらされる可能性はあるとしなければならないだろう。

実際カントは、空間について論じる「超越論的感性論」で、「空間は無限でありえるが、無限という概念は困難」とし、このことを、空間を概念ではなく純粋直観がもたらす主観表象とすることの根拠の一つとしていたのだった。

しかし「無限が困難」であったカント時代の「近代的理性」から進化を遂げた「現代的理性」が、無限概念の克服により神について何らかのことを述べることができるということであれば、その方法によっても「現象と物自体の分離」の克服は可能ということになるのである。

物自体である神を理解可能なものとして述べることができる道が開かれるということは、我々が手にしている明らかに理解可能なこの「聖書」が、神の「啓示」であると認めることができる道を開くことだからである。(カント哲学では神を理解不能とするので、理解できる言葉で書かれた聖書が神を知らせているということはありえない。)

それが成功しているかどうかは別問題としても、落合氏の著作に対しては、この可能性を追求したものという位置づけを与えることが公平な扱いであるだろう。それゆえ、私は落合氏の『数理神学を学ぶ人のために』が、進歩した理性による神学的超越領域への接触という新たな事態の到来を告げている可能性について、それを否定する理由を持っていない。

B.ラッセルの『西洋哲学史』には次の記述がある。

「ピタゴラスとともに始まった数学と神学の結びつきは…カントにいたるまでの近代における宗教哲学を特徴づけた。…プラトンや聖アウグスティヌス、トマス・アクィナス、デカルト、スピノーザ、ライプニッツにおいては、宗教と推量との、また道徳的抱負と無時間的なるものの論理的讃美との緊密な混合が存在した」[8]

キリスト教神学には古来から数学的思考との結びつきがあるということである。この結びつきはキリスト教を啓示宗教から合理主義的宗教に変える懸念を孕むものだが、そもそもキリスト教は「特別啓示」の他に「一般啓示」という概念を聖書に持つ宗教である。

キリスト教における一般啓示とプラトンやスピノザの合理主義的宗教の境を決めることには難しさがあるが、そのことは当章Section 4でのトマス神学の批判で触れている「特別啓示」との関係性によって決めうることのように思われる。例えば、以下の考察は有効であるだろう。

カントは『純粋理性批判』の「あらゆる対象一般を現象的存在と可想的存在とに区別する根拠について」という節で、感性的には認識できないが概念的には成立するような表象について触れ、これを、悟性概念に時間や質料が加味された感性-悟性間の媒介機能である「図式」による制約を無視することから生じる「避けがたい謬見」として退けるということを行っている。

現代風に言い直せば、数学的概念は時間や質量などの物理量を伴って初めて現実的存在の可能性を持つのであり、論理的に自由である数学上の概念をそのまま実在とみることは誤謬であるということである。

おそらく哲学的な合理主義的宗教とキリスト教の「一般啓示」の関係もこれと似たものといえるだろう。

キリスト教の一般啓示とは、特別啓示である聖書やイエスを離れてもなお認めうる神の現れを指すもので、それゆえ「一般」と称され、そこでは正式なキリスト教信仰は不要である。しかしだからといって一般啓示は、我々の自由な発想のもとにあれこれ考えうる神概念にすべてその資格があるとするものではない。

それはキリスト教が特別啓示と一般啓示の間に置く「図式」、すなわち神は八百万や多神ではなく唯一であること、神は万物ではなく万物の創造者であること、また、人間の罪と愛の動向に強い関心を抱く存在であることなどのキリスト教的な神観による制約が働いた上での、しかし特別啓示には限定されない神観をいうものである。その制約が外されてただ合理的に神的存在を考えようとするとき、それはキリスト教の一般啓示とは似て非なる哲学的宗教になるということである。

それゆえ落合氏の「数理神学」がキリスト教の「図式」の下、キリスト教の一般啓示に収まっているものである限りは、論理学や集合論といった学問の使用のゆえに、それを合理主義的な非キリスト教的神学とみて批判することは的外れとなるだろう。それは前段に触れた、トマス神学をアリストテレス概念の使用のゆえに批判することと同じ誤りである。

以上の考察から、当初、落合氏の『数理神学を学ぶ人のために』に対して私が抱いた次の2つの疑問のうち、最初のものについては肯定的な判断となった。

(1) 神学の叙述に数学の集合論を使用することは適切なことか。

(2) 集合論の神論的解釈あるいは神論への集合論の適用は、神についての「喩え」以上のものでありえるか。すなわち「数理神学」は神学といえるか。

しかし2つめの疑問について私はなお否定的な判断にとどまらざるをえない。彼の「数理神学」が述べていることは、「無限集合」の性質の一部を用いた神についての「喩え」以上のものではないのではないだろうか。

「無限集合はそれ自身限界を持つ」ことや、「無限集合はそれと等しい量を部分集合として含む」などの無限集合の性質を神概念に適用することで、古代神学以来の神論が矛盾から解放されるということだが、それはよいとしても、一方で、例えば、無限集合は空集合でない以上「元」を持つが、神を元を持つ存在と解することができるかという、いわゆる「比喩の限界」が、この試みのごく初期の段階で登場しているように思われる。

落合氏の著作では「神の元」を「人間」や「聖霊」とすることで、第二位格としてのイエスや、人間に与えられた聖霊の多現性を理解可能なものとするとされているのだが、それらを「神の元」とみることが、キリスト教の神観からかけ離れた突飛なものであることはいうまでもない。

この点を考えると無限集合を神の性質として解釈することを公理として始まる「数理神学」は、やはり神についての「現代風喩え」以上のものではないと判断せざるをえなくなる。そうなると、先に挙げた稲垣氏の論評にあるように「集合論を理解する人だけがこれを用いて神理解の助けとすればよい」という評価が避けられないものとなるだろう。

するとこの試みは「あってもよいがなくてもよいもの」ということになるのではないだろうか。それだけでなく「数理神学」の神観が上に述べたキリスト教の「図式」の制約を離れたものということであれば、先の一つめの疑問についても疑義が復活することになる。

したがって理性の進歩による超越領域への接触が、キリスト教神学による「現象と物自体の分離」克服の一つの手だてであるとしても、落合氏の試みがそれに該当するものであるかはなお検討が必要である。

私の「信仰と理性論」Chapter 2 では、直観主義論理の否定概念の理解が追求され、それによって従来の「内在/超越」という、古典論理の二分法に基づいた世界認識の不十分さを示すことになる。この点で私の論は、先に述べた「理性に形而上学を語る資格がないというカントの考えの受容」という著述当初からのカント的態度を、最終的には克服しようとするものである。

落合氏の著作も、神の三位一体や、キリストの苦悩といった具体相までを無限論を適用して語るのではなく、ただカントールの無限概念が神の無限とキリストの有限の関係を理解可能にするという、現代理性における認識拡張を示すことにとどまるのであれば、誤解の少ない主張になるものと考えるが。

さて、以上が私の評価だが、『数理神学を学ぶ人のために』には以下の問題もある。それは、落合氏は集合論の記述に関して「これまで存在したいかなる集合論の教科書よりも分かりやすく説明する」と書いているにもかかわらずけっしてそのようにはなっていないという点である。

例えば、和集合Uwの定義として「集合wに無限個ある部分集合vの和としての集合Uw」が以下のように記されている。

  ∀x[x∈Uw≡∃v[x∈v∧v∈w]]

これは同書において初めてやや長めの論理式が登場する場面だが、ただちに「この定義を了解するには数学的思考への慣れが必要である。この定義を繰り返し使用してゆく中で了解するほかはない」と書かれている。

しかし論理式を理解するために「慣れ」や「繰り返し使用」は役に立たない。論理学の通常の構文論では式の「意味」を考える必要はないが、ここでは最終的に論理式に神学的解釈が施されて「意味」が与えられようとしているのだから、出発点となる式の内容はていねいに解説されていなければならないだろう。

上記の式を読むと、

全てのxについて次がいえる。xがwの和集合Uwの元であるとは、xを元に持つようなwの部分集合vが存在するということである。その逆も成り立つ。

となるが、このように式通りに読んだだけでは、これがなぜ和集合の定義になっているのかがわからないのが通常と思われる。ここでは存在記号∃が「無限個の選言」であることがまず説明されていなければならないだろう。それによって次のように読み替えられることが教えられるべきである。

全てのxについて次がいえる。xがwの和集合Uwの元であるとき、xはwにおいて無限個ある部分集合vのいずれかの元である。またその逆も成り立つ。

また、有限集合での和集合をイメージすることは易しいが、無限集合の場合ではその様子が全く異なる点も伝えられなければならないだろう。

このようなところでの解説が、先の著者の言に反してまったく書かれていないため、次の段階である「選択公理」に進むことができるのは、ほんとうに集合論を理解済みである人に限られると思われる。著者は自分の理解をここにプロットしているにすぎない。この点はこの試みの神学的妥当性の可否とは別に、この著作が持つ欠点である。

最後に、「現象と物自体の分離」の存在論的側面に向けられた、当論考の克服の方策について触れておきたい。(詳細はChapter 4)

落合氏の試みが仮に成功しているとした場合、それは「現象と物自体の分離」がもたらす危機を超える能力が人間にあるとすることによる克服といえる。しかしこの場合「現象と物自体の分離」思想そのものは手つかずであって、そこに誤って与えられてきた有毒性はそのままにされる。その「有毒性」とは現象と物自体の完全な分断のことである。

私の方法はカント以前的思考に対するカントの理性批判、すなわち「理性には形而上学を語る資格がない」という考えを出発点とした上で、「現象と物自体の分離」を有毒なものとしてきた認識二元論を解除して、それがもたらす様々な亜カント主義への耐性をキリスト教に獲得しようとするものである。

当「信仰と理性論」は、一般に「現象と物自体の分離」として理解されてきたカントの超越論的批判が、世界を「現象」と「物自体」に完全に分割するものではないことを、以下の4つの考察によって示す。1.~4.の青字番号は、Chapter 4 - Section 4-5 での(1)~(4)に対応する。(相互参照可能)

1.純粋理性批判』における「現象」概念と「物自体」概念の出自を調べて、両者が互いに規定し合う関係にないこと、すなわち現象と物自体は、認識可能/認識不能という、論理的な肯定/否定関係とは異なる関係にあることを示す。(Chapter 4 - Section 11)

2.純粋理性批判』の中でカントが繰り返し述べる「現象は物自体ではない」[9] という言明が、「現象と物自体の分離」の論拠の一つとされてきたが、この言明は、必ずしも主語に対する全否定文ではなく、「海水は真水ではない」というのと同じ、主語に対する部分否定の意味に解釈できることを主張する。(Chapter 4 - Section 11, 12)

3.感性的かつ悟性的」として定義された複合概念である「現象」概念は、古典論理のド・モルガンの法則により、その否定は「感性的ではない、または、悟性的ではない」となる。したがって、物自体が現象の否定概念であるとき、物自体は三通りのあり方において存在すると理解されなければならない。「現象と物自体の分離」をもたらす「感性的ではなく、かつ、悟性的でもない」物自体は、この三通りの中の一つにすぎないこと、他の二通りのあり方での物自体は現象と分離するものではないことを示す。(Chapter 4 - Section 4-5, Chapter 4 - Section 6)「現象」の否定が3通りの「物自体」を生じさせるということは、1.で確認する、現象と物自体が1対1の関係として認識可能/認識不能の関係にあるのではないことと符号する。

4.無限概念に対応する直観主義論理の考察から、形而下世界の対概念として考えられた形而上世界が、古典論理の意味での形而下世界の「否定」、すなわち形而下からの分離としてではなく、直観主義論理の否定概念が持つ「否定」および「不明」の二重性において考えられなければならない世界であることを示す。(Chapter 2 - Hard study 5-4-4, Chapter 2 - Section 4, Chapter 4 - Section 12)

主要議論である1.について概説しておく。

『純粋理性批判』の基本用語であり、カントの新語である「超越論的(transzendental)岩波文庫訳では「先験的」という概念の分析から明らかになることは、『純粋理性批判』が述べる二つの世界とは、一般にそう受け取られてきた「現象」と「物自体」というのではなく、「現象のみ」の世界と「現象と物自体」の世界であるということである。

物自体を単独にそのまま扱おうとするのは形而上学であって、カントはこれを否定し、『純粋理性批判』における物自体は常に現象と共に扱われる。それゆえカントは自らの哲学を「超越論的観念論」と呼ぶ。物自体を勘定に入れたところの現象論、正確には「主観を除き去ることで初めて顕わとなる物自体」という、経験的対象に対する超越論的見方を採用した現象論ということである。

「超越論的」概念に対するこの理解に立つことによって、物自体が現象に作用する、いいかえれば超越が内在に関わるという、カント自身は常にそう考えてきたところの、しかしその当初から『純粋理性批判』の最大の矛盾として指摘されてきた[10] ところの「触発論」と呼ばれる部分でのカントの考えが肯定される。

さらに、岩崎武雄らによってその不整合が指摘されてきた「超越論的弁証論 第三アンチノミー」のカント判定が、実は整合的であることも明らかになり、「現象」と「物自体」ではなく、「現象のみ」と「現象と物自体」という捉え方が、『純粋理性批判』の方法論である「超越論的」に対する解釈として正しいことが確認される。これにより「現象」および「物自体」の出自が明らかとなり、『純粋理性批判』の帰結として誤って理解されてきた「現象と物自体の分離」が退けられるのである。