第二部 信仰と理性論 星加弘文

Chapter 1 「信仰と理性論」の方法論 (4)

Section 4 主題についての必然性理論後件への要請

前段まで、信仰と理性論の叙述法の必然性について考えたが、主題についても、そのあり方の必然性が考えられなければならない。

信仰と理性論の主題は「信仰と理性の関係」だが、そこで扱われるべき信仰がキリスト教正統信仰でなければならないことに異議を唱える者はいないはずである。トマス神学もカント哲学も、結果として正統信仰を変容させることで、理性との整合性を達成しようとしたところに批判がある。

トマス神学におけるキリスト教はアリストテレス化・異教化されており、カント哲学におけるキリスト教は事実依拠性を失って道徳化・理念化している。このように、主題の一つである信仰がその正統性を失っていては、信仰と理性の関係論としてすでに失格である。

しかしまったく同じことは、もう一方の主題である理性に対しても要求されるべきなのである。すなわち、信仰に正統性が求められたのと同じく、理性に対しても「正統性」が要求されなければならない。

ここで理性の「正統性」とは何か。それは前節にみたとおり、信仰―理性問題の発端となった「ギリシャ的であるような知性」に他ならない。もしも、信仰と理性を都合よくすりあわせるために、理性をその本来の姿から変容させ、キリスト教に従順な「聖書的理性」や、キリスト者内に認められる「信仰に従う理性」に設定して、これらの蜜月関係を述べたとしても、それは信仰と理性問題を解いたことにはならないだろう。

信仰と理性論の対象として論じられる信仰が、理性にとって最も理解しにくいような信仰、すなわち「イエスの復活」を文字通り支持することでアテネの人々に拒否を起こさせたところの正統的・聖書的・福音的信仰でなければならないのと同じく、理性もまた、キリスト教にとって最も対立的であるような思惟、つまりギリシャ的な理性でなければならないのである。

この点に限っては、トマス神学は考えうる適切な立場の一つを提示しているといえるかもしれない。アリストテレス哲学の概念が用いられることで、そこでは理性におけるギリシャ性が充分すぎるほど保たれているからである。

しかしトマス神学が否定されるべきであるのは、どういう理由に基づいてのことなのか。カルヴァン主義に立つ改革派神学では、トマス神学が「罪の影響」を示していない点を批判する。

トマスは理性を何ものの影響下にもない自律的なもの、したがって宗教的に中立的なものとみて、異教者の理性もまたキリスト教啓示の一部を認識できるとする「哲学―神学」の二階建て構造の神学を構成する。これにより、彼の神学は「理性が罪の下にある」という宗教改革的視点を決定的に欠くものとみなされ、これが論難されるのである。[1]

その結果、改革派神学は「信仰に従う理性」を叙述対象とすることになるが、それは、トマス神学において、「信仰から独立したギリシャ的理性」が信仰と理性の総合を妨げたのである限り、残された選択は「信仰に従うユダヤ的理性」しかないと考えられたことによる。

しかし、これはトマスにおけるアリストテレス的論証の何が不適切であったかについての理解が不十分であるだけでなく、「信仰から独立した理性」と正統信仰との理論的総合を捨てたということでもある。

啓示の真理性に依拠していないとみられる『神学大全』1部第2問題~12問題の論証は「ギリシャ的な知性」すなわち「信仰から独立した理性」による議論だが、まさにそのことのゆえに、そこでの議論はキリスト教の神概念を対象としたものになっているとは必ずしもいえない。ここでのトマス神学の問題点は、議論対象としてアリストテレス的な神キリスト教的に譲歩していえば「一般啓示の神」しか論じていないところにある。

この状況はなぜ問題なのか。私はトマス神学の難点は、ギリシャ的理性によって論証された「一般啓示」の神と、「特別啓示」すなわち聖書あるいはイエス・キリストとをつなぐ議論がないことにあると考える。つまり1部第2問題~12問題で「万物の第一原因」「神が物体ではないこと」「神の単純性」などとして論証されている神をキリスト教の神であるとしてよい理由を示す議論が示されていないことである。

後に見るとおり(信仰と理性論」Chapter 2 - Easy study 2)トマスは「自然的知性によって明らかとなる学」と「神の知性によって明らかとなる学」があると考えるが、これら出発点を異にする二つの建築が到達する先に、それぞれ「神」という同じとも見える概念が示された時に、それを同一のものとして認めるためには、やはり何らかの議論が必要であるだろう。

それは、自然の知性もまた正しくキリスト教の神を知りえるとすることの聖書的な根拠を示す議論か、または、トマスが示す哲学的な神が聖書の神であることについての、やはり聖書的な根拠を示す議論でなければならない。これを欠いていることが、彼の神学において、アリストテレス的理性とキリスト教信仰の総合を妨げている本当の原因なのである。詳細は注参照)[2]

トマス神学にアリストテレス哲学の用語や、アリストテレス植物学の概念(可能態」現実態」等)が使われていることが問題なのではない。トマスがアリストテレスの概念を用いてキリスト教を語ろうとしたということが、必ずしも伝道的意図を持つものではなく(つまりそのような概念の異教性についての自覚がありながらも伝道のために意図的にそれを用いたということではなく)、単に彼に蓄えられていた知識がそうさせた(つまり異教的概念を無自覚的に用いた)ということであったとしても、そこには何の問題もないのである。たとえ異教の用語で語ろうとも、語る対象がキリスト教において啓示された神に定められているのであれば、それは制約を持ちつつも問題なしとしなければならない。

伝道は当の人々に知られていないことを伝えるものでもあるが、すでに人の目に明らかにされていると思われている事柄をキリスト教的なものとして再提示する働きでもある。日本のキリスト教伝来の初期には「天主」、「大日」などの在来仏教用語でキリスト教の神が伝えられた。また、現在使われている「神」や「聖霊」といった教会用語も、語そのものは神道由来であり、概念として神道的意味合いを免れるものではない。

つまり、非キリスト教的であるような前提を完全に排除することはどのみち困難であって、「信仰から独立した理性」や「罪の下にある理性」や「ギリシャ的理性」だけが非キリスト教的であるわけではない。それでもこれらの非キリスト教用語はキリスト教を伝えてきた、すなわちこれらの語はキリスト教との総合を不完全とはいえ果たしてきたのである。

また、キリスト教信仰者は「信仰に従う理性」を初めから持っていたわけではない。生まれながら未信仰でなかった者はいないのである。人生途上にキリスト者となった者が持つ理性が、かつて「何的」な理性であったとしても、その者は、その非キリスト教的理性において特別啓示の神について某かの理解を与えられたのではなかっただろうか。それによって彼は信仰者になりえたのである。

したがって、非キリスト教的であるような思惟とキリスト教的であるものの結節点の存在は認められなければならない。キリスト教的であるものを捉えようとするとき、その思考がキリスト教に規定されたものでなければならないとすること、言いかえれば、信仰は信仰によってしか語りえないとすることは事態を見誤っているのである。トマス神学に対しても、二つの建築物のうち、ギリシャ的である方をその異教性ゆえに論難するのではなく、ただそこに挙げられた二つの神概念の邂逅のなさが批判されなければならないのである。

私は20世紀の保守キリスト教会の指導者として著名なJ.I.パッカーの『福音的キリスト教と聖書』という著作を思い出すが、そこでは、第4章の「聖書」まで理性的かつ真摯に聖書信仰の根拠を尋ねていた論旨が、5章の「信仰」に至って、突如「聖霊による照明」という教義学的視点から回答が与えられることになる。

これはつまり4章までは理性による問いであり、5章からは信仰による回答ということだが、問題は、これら理性と信仰が、問いと回答という形で極めて安易に邂逅を果たしていることである。ギリシャ的理性において尋ねられていたものはギリシャ的理性において答えられることを通じて信仰との邂逅が果たされねばならないはずである。

このパッカーの展開は、少なくとも「信仰と理性論」の観点からは許されるものではない。回答に挙げられた「聖霊による照明」など、信仰によってしか承認できないキリスト教的神秘を、どうにかして概念的に捉えようとする試みこそ、信仰と理性の総合を求めるキリスト教哲学の使命だが、パッカーはここに「ユダヤ的理性」すなわち「信仰に従う理性」を持ち込んでこれを阻害している。信仰と理性論において、信仰は解かれるべきものであって解決として持ち込まれるべきものではない。

それゆえ信仰と理性問題を扱うということは、キリスト教正統信仰と、多分に世俗的であるようなギリシャ的理性の組み合せを主題として扱うということであり、その全く異質である両者がそれぞれの性格を保ったままどのようにして邂逅しえるかという問題設定を行ってこそ信仰と理性論としての有用性がある。改革派神学のようにギリシャ的理性をユダヤ的理性に置き換えてはならないし、パッカーのように理性による問いを信仰で答えてもならないのである。

以上は現代解釈学におけるH.G.ガダマーによる進歩点とされる「テキストと解釈者の隔たりを意識的に展開する努力」と同様の姿勢である。[3]