第二部 信仰と理性論 星加弘文

Chapter 1  「信仰と理性論」の方法論 (6)

(注)

■Section 1

[1] カント研究会編『現代カント研究10 理性への問い』〝序〟 晃洋書房 2007年

[2] 近藤勝彦『歴史の神学の行方』教文館 1993年 p.181

[3] W.ヘルマン『啓示の概念』現代キリスト教思想叢書2 白水社 1974年 p.250

[4] K.バルト「聖書における問いと明察と展望」『カールバルト著作集1』新教出版社 1970年 p.97

[5] H.ツァールント『史的イエスの探求』新教出版社 1971年 p.74(要約)

[6] K.バルト「ルドルフ・ブルトマン彼を理解するための、一つの試み」『カール・バルト著作集3』新教出版社 1997年 p.260

■Section 2

[1]以下の記事では、説明がつかない現象に対して「新たな理論」の必要が言われているが、その一つとして「素粒子のさらなる分割可能性」ということがあるだろう。「ヒッグス粒子の発見で完成をみたのが『標準理論』だ。素粒子のミクロな動きや相互作用をほぼ矛盾なく説明できる強力な理論で、それで説明のつかない現象となると、新たな物理理論が必要となる。8月10日、米フェルミ国立加速器研究所のチームが発表した実験データはそんな奇妙な現象だった。」(https://mainichi.jp/articles/20231108/k00/00m/040/167000c?inb=ys 毎日新聞 2023/11/9付より)

[2]「信仰論」Chapter 3「使徒的信仰の成立」

■Section 3

[1] トマス・アクィナス『神学大全1』「Ⅰ第一問題第二項(一)異論」創文社 1995年 p.7

[2] 春名純人「キリスト者と非キリスト者の学的思惟における対立の原理」『哲学と神学』法律文化社 1994年 p.322

[3] H.Dooyeweerd, In the Twilight of Western Thought: Studies in the Pretended Autonomy of Philosophical Thought (Collected Works of Herman Dooyeweerd Series B, Vol 4) The Edwin Mellen Press (1999/09), (邦訳)ヘルマン・ドーイウェールト『西洋思想のたそがれキリスト教哲学の根本問題』法律文化社 1970年 pp.31-35「信仰と理性論」Chapter 3 参照

[4] 冨田恭彦『哲学の最前線』講談社 1998年 p.166

■Section 4

[1] 春名純人「キリスト者と非キリスト者の学的思惟における対立の原理」pp.283-284

[2] トマス神学には聖書とアリストテレスという二つの権威が存在するため、『神学大全』では、それぞれの権威に基づく二つの学が実行される。その論述原理が、最初の問い「哲学的諸学問のほかになお別個の教えの行われる必要があるか」の結論部に、次のように述べられている。
[哲学的諸学問においては、あることがらが、自然的理性の光によって認識されるものたるかぎりにおいて取扱われ、それとともに、またその同じことがらが、別個の学においては、神的な啓示の光によって認識されるものたるかぎりにおいて取り扱われるということに、何の妨げもない。それゆえキリスト教に属するところの『神学』は、哲学の一部門とされるところのかの『神学』とは、類を異にするものなのである。](1部第1問題第1項(二)異論解答)
まとめると、その第1は、理性を用いる二つの神学が存在するということ(それらは一般に「キリスト教神学」と「哲学的神学」と呼ばれる)。第2は、その二つの学はともに肯定されるということ(「何の妨げもない」)。第3は、その二つの学において「同じことがら」が扱われるということである。
繰り返しになるが、神を論じる二つの理性使用法があり、それらは共に有効であって、しかも両者とも同じ神を論じている、というこの主張に、トマスの信仰-理性論の基本的立場が表明されている。
二つの理性性が明瞭に分けて述べられているのは、1部第1問題第8項「キリスト教は証明を行う性質のものか」である。
トマスは、キリスト教およびその神学においては、啓示類を信頼すべきものとみなさなくてはならず、信仰箇条らは理性による証明を待つ身分ではなく、むしろそこから出発して他のことがらを開示すべき立場にあると述べる。それは「使徒が、キリストの復活から出発して復活一般を証明すべき論議を行っているのと同様である」といわれる。ところでこのことは、神学に限らずすべての学においてそのようであり、例えば、当時の数学では基本公理が確かなものとみなされた上で、各種の論証がそれに基づいて行われ、基本公理自身はその学によって論証されることはないのである。しかし、他の諸学の基本公理は自明であるかより上位の学によって根拠づけられているようにみえるが神学はそうではない、という反論に対しては、神学もまたより上位の学をもつ、すなわち信仰箇条は、神の啓示において確かなものとして我々に提示されている、と述べられる。
『神学大全』に整然と並べられた神学論証のほとんどは、この方法に基づいて行われている。「神の意志は可変的か」「神はすべてを均等に愛するか」「過去にあったものごとも神はこれをなかったようにすることができるか」といった主題は、まず、信仰箇条が述べる神の性質を確かなものとして認め、それを出発点とした上で、アリストテレスの概念である「可能態-現実態」「質量-形相」「付帯的-自体的」などの論理的様態語を用いながら論じられていく。この理性は、また、こういった信仰箇条の敷衍の他に、啓示の基本命題を否定する議論に対する反駁、弁証、護教の働きも行う。ここにみるトマスの理性は信仰を前提とした、いわゆる「神学のしもべ」「神学のはしため」と呼ばれるような思惟である。この思惟を「神学的理性」「ユダヤ的理性」と呼ぶことができるだろう。
上述のような、信仰に従順な「ユダヤ的理性」に対し、それとはあきらかに異なる種類の思惟について、同箇所で次のように述べられている。
「人間理性の上に基礎を持つ権威よりするところの立証は最も根拠薄弱なものであるかもしれない。だが神の啓示に基礎を持つところの権威よりする立証にいたっては何ものにもまさる堅固な力を有しているのである。だが、それにもかかわらず、神学は人間理性をも用いる。それは信仰を証明するためではなく、伝えられるところの一部のことがらの解明をもたらさんがためなのである。恩寵は自然的本性を廃棄するためではなくかえってこれを完成させる」(1部第1問題第8項)
トマスは、啓示が我々の理性活動を否定、不要とするのではなく、逆にその限界を補いその働きを完成させるものだと述べる。「伝えられるところの一部のことがらの解明をもたらす」とは、信仰箇条の中の一部分は、啓示の真理性を前提せずに、自然的理性すなわちギリシヤ的思惟において論証しうる、ということの宣言である。以下に、トマスによる、このアリストテレス的神学論証がどのようなものかを記してみよう。
自然的理性でどのように神を知りうるか、ということのトマスの基本的な考えは二通りある。一つは、理性は感覚を通じて認識を持つものであるゆえ、感覚されない神を認識することはできないが、万物は神の活動の結果であるということから、それらの原因としての神をその「存在」について論証しうるというものである。いま一つは、神は可感的ではないゆえに、同様に理性は神の現れたる性質というものを認識することはないが、被造物たる万物を観察することで、神の「何でないか」を知ることができる、というのも、神は被造物と異なった存在であることは明らかだからである、というものである。(1部第12問題第12項)
神の存在については5通りの証明がなされており(1部第2問題第3項)、最初の3つの議論は物事に始まりが存在しないということは考えられない、というアリストテレスの『形而上学』の議論に基づいている。その議論を支えているのは、運動が静止から生じる特殊な状態として考えられていることによるのであるが、ニュートンの第2運動法則を常識とするようになった時代以降、この議論は理解しにくいものとなった。また、事の始まりである「第一原因」というものが存在するという考えは、始動因としての原因と目的因としての原因が神という実体の中で結び合っている、という考えを根拠としている。諸天体をはじめ諸物が活動していることは、それ以前の何らかの活動原因の存在を必要とするのであるが、その初まりの状態を、ニュートンが教えるように、運動しているものはその初めから運動していたというようにではなく、初めは静止していた、すなわち「自らは動かずに他を動かすもの」が存在しており、それによってすべてのものが動かされた、と考えることが可能であったのは、「思惟が目的因となって運動が始まる」という考え方に基づいているのである。アリストテレスが用いる例によれば、ちょうど、建築家が思惟において建築物を考えたとき、「建築物」という目的因は同時に彼をして始動因とさせ、実際の建築にとりかからせるのである。神においてもこれら二種類の原因要素が一つに結び合うことで、神の思惟という「静」から諸物の運動という「動」が生じたと理解される。(アリストテレス『形而上学』第12巻第10章)
神の「何でないか」については『神学大全』の最初の11問題までに述べられている。
第3問題「神の単純性について」では次のように論じられる。神が物体でないことは、神が第一存在者であることから帰結する。第一存在者たる神は現実態、しかも完全現実態でなければならない。現実態とは活動によって何かが成し遂げられている状態をいうが、神は現実態としてすべてを成し遂げしかも自らは成し遂げられることのないものでなければその完全性に反するからである。ところで完全現実態には可能態は含まれず、可能態、すなわちそれが何かに変化しえるということは物質の本質と考えられるから神は物体ではない。神が物体でないことは「分有」という概念からも帰結する。神はその定義から最も高貴な存在者である。ところで物体は生物か無生物かのいずれかであるが、生物の方がより高貴なものたることは明白である。その高貴さをもたらしているものは生物における非物体的なるものすなわち神の性質に与るところの魂である。したがって最高度に高貴な存在者における物体性は不可能である。(この「分有」という概念は、先の神の存在証明の残り2つにも使われている。そこでは「類比」の原理が推論の前提であるが。)「神は形相と質料の複合であるか」という問いには、質料は可能態においてあるところのものゆえに、完全現実態たる神に質料はなく神は形相であると述べられている。
このようにして、神の単純性(純粋性)が論証されていくのであるが、ここでの論証では、アリストテレスの諸概念が主役であり啓示内容は登場しない。聖書の引用は「神は霊である(ヨハネ福音書4.24)」(第3問題第1項)、「神なるわたしは変わることがない(マラキ3.6)」(第9問題第1項)など、神についての哲学的叙述として読むことが可能であるような箇所に限られており、それらはアリストテレスからも帰結されるような内容なのである。つまりトマス・アクィナスは『神学大全』の第2問から第11問までにおいて、神をアリストテレスだけで論じている。この時の彼の理性は、先の、啓示を前提した「ユダヤ的理性」とは明らかに異なり、理性は理性自身だけを制約として持つのである。その制約とは、トマスにおける理性概念の二つの内容、「学知」と「感覚」、いいかえれば推論と観察、すなわち論理規則と事態である。ここにみられる理性は「神学的理性」「ユダヤ的理性」に対して「哲学的理性」「ギリシヤ的理性」といえる。
これまでに見てきた『神学大全』における信仰と理性の関係を整理しておこう。それらは自然的理性の上に啓示信仰が載った理性-信仰の二階建て構造であるとともに、二つの権威と二つの理性の並列関係として把握される。
まず、ユダヤ的理性への流れがある。聖書啓示とアリストテレスという二つの権威が存在し、これらは共に受け入れられ、信仰において合流して神学のしもべ的理性として、信仰箇条の敷衍解説、弁証、異端反駁などを行うものとなる。
次に、哲学的神学の流れでは、アリストテレス哲学はキリスト教啓示の一部(神の存在と本質の否定部分)を論証する。ここでは観察される諸事実とアリストテレス的諸概念が権威であり、聖書の文言は確認的な役割であるにすぎない。この論証されたことがらは学知であって、信仰の対象でも信仰箇条でもなく、むしろ信仰が当然前提しなければならないところの諸信念という位置が与えられる。ギリシヤ的理性は信仰から独立しており、その上で信仰と接合しているとされる。
このギリシヤ的に論証された聖書啓示の一部としての啓示前提部、およびその部分に対応する第3問から第11問の論証の位置づけは、トマス神学全体の見方を決定する部分である。一方、ユダヤ的理性は理性というよりは信仰の一部であり、信仰に対しては補助的役割にとどまる。したがって、信仰-理性論としてのトマス神学の問題は、ギリシヤ的理性と信仰の関係に存する。
トマス自身は、啓示に関するアリストテレス的論証は、信仰とは分離したものだと述べており、これが彼の基本的立場といえる。先にも引用した1部第1問題第8項で、神学は理性を用いるがそれは信仰の対象たる諸啓示を証明するためではない、もしそうならば信仰の意義は奪われるであろう、と述べている。2-2部第2問題第4項「自然的理性によって証明されるうることがらを信じることは必要か」では、我々の認識は知性もしくは感覚に基づくゆえに「見られた事物(感覚または知性の推論により論証されたもの)に関しては信仰ということも臆見ということもありえない。」といわれている。
しかし一方で、2-2部第2問題第4項では「理性によって認識されることがらをも、信仰という仕方で受けいれることが必要である。」と述べられている。実際、先にみたように『神学大全』1部第3問題から第11問題までの、自然理性による形而上学が述べられる部分では、しばしば聖書が引用されており、それは「神は霊である」などのような哲学的記述に限られるとはいえ、明らかに聖書という啓示物がそれを含むところの命題に関する論証なのである。
これらは矛盾するようにみえる記述であるが、その折り合いに関して、2-2部第1問題第5項「信仰に属することがらは知られたものでありうるか」に、次の記述がみられる。
「同一のことがらが信仰と学知の対象になることはない」(2-2部第1問5項主文)
「論証的に証明されうることがらが信ずべきことがらのうちに数えられているのは、…むしろそれらが信仰に属することがらにとっての前提であり、それらを論証的に理解していない人々も、すくなくとも信仰によってそれらを前提として受けいれなければならないからである。」(2-2部第1問第5項(三)解答)
また、2-2部第1問7項(『神学大全』第15分冊 創文社 1990年 p.30)に、信仰の前提に関する記述があり、次のように述べられている。
「信仰箇条が信仰の教えにおいて占める位置は、自体的に知られる諸原理が自然的理性によって到達される学において占める位置になぞらえられる。…すべての信仰箇条は或る第一の信ずべきことがら、すなわち神が存在し、摂理をもって人間の救済を配慮することを信ずべきだ、ということのうちに暗黙的にふくまれているのである。」(2-2部第1問第7項主文)
先に、1部第1問題第1項(二)異論解答において「同じことがら」に対する認識方法の違いにおいて「啓示神学」と「自然神学」という二つの学の存在が述べられていたが、しかしここでは、同一のことがらが信仰と学知の対象になることはなく、ただそれらは信仰の前提としてのみ信仰に属することとしてみられている、といわれている。 つまり、自然的理性によって論証されうるような神の存在や不変性などは、信仰に属するのではなく、むしろ信仰がそれを前提するのである。
しかし、このところに、トマス神学の信仰-理性論としての困難が表れているといえるだろう。というのも、ギリシヤ的論証である1部第3問題から11問題において、トマスが引用した「神は霊である(ヨハネ福音書4.24)」(第3問題第1項)、「神なるわたしは変わることがない(マラキ3.6)」(第9問題第1項)などの聖書の記述は、そこで論証されたものが信仰の前提などではなく、まさに信仰の一部を形成するものであることを示しているからである。したがって、そこでの論証を承認する限り、トマスは聖書の啓示命題の一部分をアリストテレスの諸概念によって論証してしまっている、とみることが妥当であるだろう。そして、そうみられることにおいて、トマス・アクィナスにおける理性と信仰の関係は、二階建て接合構造による総合とする理解が行われてきたわけであり、当節冒頭に引用した、ラッセルらによる啓示と哲学の「認識の重なり」の指摘も、この見方に沿うものだったのである。
もし、「啓示神学」と「自然神学」が「同じことがら」を述べているというトマスの信念が正しいのであれば、トマスの自然的理性はキリスト教啓示に届いているとみなされなければならないだろう。この場合、キリスト教認識論は、これまで多くのトマス解釈者がそう理解してきたところの「理性+信仰」の二階建て構造をもつものとなる。そしてこの「二階建て」がきちんとつながっているのであれば、トマス認識論の構成――地上のことは理性的論証で理解し、天上のことは啓示に対する信仰を出発点とする理解に立つ――は成功している(このような理解が、理性の堕落についての教義を反映していないとする批判については後述するとして)と私は考える。しかもそれらが重なりをもつのであれば、信仰成立問題も、解決への道筋を得たとすることができるであろう。信仰領域のわずかの部分でも理性的論拠をもって述べることができるのであれば、「不確かな証拠に基づく」といわれる信仰は、その一部において理性的な確実さをもつものとなり、その足場を得るからである。その場合、我々は聖書を前にしたとき、信仰をどこから始めればよいかがわかるのである。
しかしながら、私はこのようなトマスの神学理解は、ある根本的な不都合を抱えていると考える。というのは、先にあげた1部第1問題第1項(二)異論解答において述べられているところの、「自然的理性の光によって認識されるその『同じことがら』が、神的な啓示の光によっても認識される」ということが、確かなことではないと思われるからである。
トマス・アクィナスの神学は、その「哲学-神学」の折衷主義のゆえに、哲学とキリスト教双方から批判を受けるのが常である。哲学の側からは、トマスが依拠したアリストテレス哲学における「目的因」などの原因概念の混乱や、その無制約な適用範囲が批判される。カントによれば、原因概念すなわち「因果性」は悟性カテゴリーであるから「現象」にのみ適用可能であり「超越」たる神には適用できない、つまり「第一原因としての神」という考えは誤っているのである。また、キリスト教の側からは、神を述べるトマスの理性概念が堕落していないようにみえる、という批判が避けられない。2節で述べたように、一般的な理性の立場で神について述べようとする場合、この『キリスト教命題学』もまたそうであるように、必ず正統性への疑いがかけられるのである。
しかし、私がトマスに向ける批判は、スコラ的論証への批判でも、キリスト教正統性への疑問でもない。それは、『神学大全』において、「キリスト教啓示が論じられていない」ことへの批判である。先の「c.二つの理性性」で述べたように、トマスの論述方法は、キリスト教啓示を真とした上でユダヤ的理性を携えて出発するか、キリスト教啓示とは無関係にギリシヤ的神概念を論ずるかのいずれかである。したがって、意外に思われるかもしれないが、そのいずれにおいても、キリスト教啓示が一般理性概念においてどう理解しうるのか、といった啓示の取り扱いは一切なされていないのである。
トマスに認められる二つの理性性のうち、ユダヤ的理性において「キリスト教啓示が論じられていない」ことについては、容易に了解されるだろう。そこでは、キリスト教教義がまず真理と認められた上で、ユダヤ的理性がそれを護衛するのであり、教義の真理性そのものが論じられるということはない。
他方、トマスのギリシヤ的理性によるアリストテレス的論証の奇妙さは、例えば、ギリシヤの哲学者がキリスト教の教えにはじめて触れて、それを自身の既知概念をもって理解しようと努めているという姿では全然ないという点にある。トマスが『神学大全』1部第3問から第11問で行っていることは、キリスト教とは生まれも育ちも違う理性が、その生まれ育ったままの環境の中で、傍らにキリスト教を置きながらも、あくまでもそれとは無関係に自らの思惟がどれくらい神を論じうるかを試している、といった状態である。そして、ここで扱われているのは、アリストテレス哲学の神概念であり、ギリシヤ的理性に与えられたキリスト教啓示というものではない。つまり、トマスのギリシヤ的論証は、キリスト教を対象としたものではなく、神学者によるアリストテレス哲学の「おさらい」である。
イエスあるいは聖書などの具体的啓示物については、歴史に関する認識上の問題を問わなければ、原理的にトマスのいう「直知」が可能であるゆえ、そういった「直知」が可能なものについては、その「同じことがら」がキリスト教啓示において別様に認識される(知らされる)ということはありえるだろう。つまり、「直知」とは考察対象が与えられ「見られたことがら」となっているのだからである。しかし、第3問題~第11問題でのトマスの論証は「直知」ではなく「学知」、すなわち論証によって知られることがらであり、神の存在、完全性、単純性、善、無限性、普遍性、永遠性などに関する論証である。このような「学知」において知られたものというのは、神的存在者の抽象的属性であるが、その属性を適用しうる何らかの超越的実体が、これらの思惟と全く源を異にして発出されたものであるキリスト教啓示の神である、とする根拠は見あたらない。
トマスのこのような試み、すなわちキリスト教啓示から独立した神論証の展開というものが、『キリスト教命題学』のような試み、すなわちキリスト教啓示を対象とした理性的考察ということと、誤って同一視されることが、キリスト教に関する理性主義的叙述の試みがおしなべて曲解され、不適当な批判を受けてきたことの理由である。どのような思惟であれ、キリスト教啓示を対象とするのである以上、その思惟は制約をもつにせよ原理的に誤ったものではない。日本への最初のキリスト教伝来において、宣教師たちは日本の神概念を用いながら宣教したのである。異教的思惟による、しかし対象をキリスト教と定めたキリスト教考察と、トマスのアリストテレス的神論証とを混同してはならない。
トマス・アクィナスにみられる二つの理性性、すなわちギリシヤ的理性とユダヤ的理性の根本的違いは何であるか。H.ドーイウェールトらトマス批判者は、その相違の根本を、教義に従う理性とそうではない理性という構図でのみ捉えてきた。そこで、アリストテレス的神論証とキリスト教の総合が不適切であると考えられたとき、それはトマスのギリシヤ的思惟に向けられた批判であるから、適切であるのは残りのユダヤ的理性の立場、すなわちキリスト教啓示を真理として受け入れた理性であるという理解がなされたのである。そしてこの結果、トマスの総合の誤りの原因は、ユダヤ的理性ではない思惟とキリスト教の総合が試みられたところにあるとされ、その批判はギリシヤ的思惟に向けられたが、実はそれはギリシヤ的思惟の「啓示を前提しない」という面に向けられた批判であって、そのことが「理性の堕落」「理性の偽装自律」と唱えられてきたのである。
しかし、トマスのアリストテレス的論証が不適切であることは確かであるとして、その論証のどういう部分が不適切であったのかという理解において、上の捉え方は誤っている。トマスのギリシヤ的理性のまずさは、それが堕落しているからでも、啓示を前提しないからでも、自律を見せかけているからでもなく、ただそれがキリスト教啓示を対象としたものではないからなのである。トマスによるアリストテレス的神学論証がどのようなものであるかは、前々段(4節(3))でみた通りであり、それがキリスト教啓示を対象とした論証ではないことについて、異論の余地はないであろう。
したがって、トマス・アクィナスにおけるギリシヤ的理性とユダヤ的理性の対立構図を、教義に従うものであるか否かという点にのみ見いだす理解は不十分である。その対立は、何を思惟対象とするかという点においても存在しているのである。それゆえ、トマスのギリシヤ的理性を拒否することは、我々に、ユダヤ的理性の選択しか残さないのではなく、我々には、キリスト教啓示を対象とするがその真理性から思惟を始めるのではないギリシヤ的思惟という選択肢が残されている。つまり、トマスのギリシヤ的論証を否定したとしても、なおギリシヤ的であるような思惟の方法論にとどまることが可能であり、これがトマスの不適切な総合に対して取られるべき対処なのである。
キリスト教的である思惟は、単に啓示に従うユダヤ的神学的思惟としてだけではなく、一般の哲学的思惟において可能である。キリスト教啓示を対象に定めた上での自律的であるような思惟、つまり、キリスト教啓示をその真理性や権威性を前提せずに探求しようとするという態度は、なおキリスト教的な思惟である。そして、この思惟は、その方法からみて、ユダヤ的というよりは明らかにギリシヤ的なものである。
したがって、トマス・アクィナスにおける「理性の自律」とみえるものは、「理性の堕落」といった、キリスト教的観点からしか知られないような欠陥を原因とするものではないと私は考える。理性が堕落しているために、トマスはどうあがいても誤った神考察しかできないということなのではなく、トマスのギリシヤ的論証が、そもそもキリスト教の啓示物を対象としたものではないということが、彼の思惟をキリスト教に対し閉じたものとしている。この「啓示を対象としていない」ということ、これがトマスの「理性の自律」の正体である。
それゆえ、私は、トマスが、自分の哲学的論証が神の領域に入り込むことで、神の栄光を減じることになってしまうのを心配し、学知と信仰の重なりのないことの議論を配慮するよりも(2-2部第1問題第5項)、そのアリストテレス的論証がほんとうに神の領域に入り込んでいるのかどうか、すなわち、その議論で述べられた「神」と聖書の「神」が同一であるのかどうか、ということについて深く憂慮すべきだったと思う。トマスの理性的神論証が仮に正しいと仮定しえたとしても(このような論証は、後にカントによって根本的に論駁されたのであるが)、『神学大全』全体としては、その神概念の互いに還元しえない二神性ゆえに、神学として容認されえないだろう。純粋に概念だけから論証されるような神と、聖書において示された神が、同一の実体であるということについては、トマスは素朴な信念以外の何ものも持っていないからである。
例えば、トマスは聖書の次のような文言が、古代のギリシヤ人もまた聖書の神を知っていたことの根拠だと考えた。
1部第12問題第12項「自然的本性的理性によって、神を認識することができるか」では、万物の原因としての神を、第一原因すなわちアリストテレスの「動かずに動かすもの」として知りえる、また、被造物ではないものとしての神は、観察される諸般のことがらにおける性質の否定として(例えば、物体は有限であるが神は物体に属さないゆえに有限でないとして)知りえるとされるが、その際、トマスは、神を知り得ないとする主張に対する反対意見として、次の聖書の引用を行っている。
「ローマ人への書翰第一章には『神について知られうるところのことがらは彼らにおいて明らかである。』とあり、ここにいう『神について知られうるところのことがら』とは、我々の自然的本性的な理性によるところの、神についての『認識可能なことがら』を指している。」(1部第12問題第12項)
また、アリストテレスの『形而上学』の議論が神についての知識をもたらす、という考えは次のような記述の中にみられる。
「神が存在すること、および神についての他のこうしたことがらを証明することを任務とするところの形而上学は…」(2-2部第2問題第4項主文)
「というのも、感覚的認識が外的な可感的性質にかかわるのにたいして、知性的認識は事物の本質にまで透入するからである。」(2-2部第8問題第1項主文)
2-2部第1問題第7項「信仰箇条は時代の経過にしたがって増加したか」などをみると、旧約聖書から新約聖書において、しだいに啓示の内容が明瞭かつ豊かになってくるという「啓示の漸進性」というキリスト教の神学概念が、古代ギリシヤ人の用いた議論が神を認識するためにそれなりに有用だったとすることの根拠とされているようにも理解できる。
確かに、実在的なものが推論または観察され、それが聖書の描写に符号すると考えられる状況があれば、両者を同一のことがらとして判断するのは論難されるべきことではないのかもしれない。というのも、そもそも聖書の預言とはそういうものであるだろうし、聖書のある描写が、科学的・歴史的に符合する何かを表明しているように思われるような場合において、なおそれが単なる偶然として片づけられるならば聖書のような書物の立つ瀬はどこにもないからである。例えば、現代のキリスト教会あるいは科学的立場にある人々の内、少なからぬ人々は、1929年に発見された宇宙全体の膨張を逆算することから想定されるビッグバン説による宇宙の始まりという現象と、「創世記」の「光あれ」という神の宣告の記述が対応関係にあるものとみなしている。しかしこういったことは、実際に観察しうる「見られたことがら」と聖書記述の付合であり、理性的抽象と聖書記事の符合というものではないのである。
トマスにおける、抽象された神と啓示された神の合致についての信念が、正確には何によって生じたのであるかは不明であるが、この素朴な信念を彼と共有することには困難がある。この信念は、プラトンに由来する名辞的混乱の痕跡、すなわち抽象概念が何らかの意味で実在的でありえるという実念論的信念に基づいていると思われるので、それを退けた16世紀の唯名論、およびその現代版である述語論理の一般名辞観に立つ当論考としては、トマス神学に「哲学者の神」と「聖書の神」という二つの神を見いだすのみである。そこに同一論証がない限り、それらは別の神概念と判断せざるをえない。したがって『神学大全』は、その形式的構成においてギリシヤ的理性の領域が信仰の領域にまで侵入しているようにみえたとしても、そこに提示されたアリストテレス的「神」概念が、キリスト教の「神」概念と同一であることの論証を欠いているゆえに、理性的論証とキリスト教啓示の重なり、すなわち理性と信仰の重なりは実現されていない、というのが当論考の結論となる。 キリスト教教義の「一般恩恵」の観点から考えて、あるいはトマスの理解は誤りではなく、我々は聖書がなくても神についての何らかの知識をもつということが可能であるのかもしれない。そして、その知識は、キリスト教啓示と突き合わせてみれば、その啓示に接していると呼べるようなものなのであるのかもしれない。しかし、当論考が述べようとするのは、そういった「一般恩恵」として残された我々の知性において、何もないところからいかに神を知りえるか、という意味での信仰-理性問題なのではない。
特に何物をも対象としないときに、我々の理性がいかに神を捉えうるかという問題設定は確かに可能であり、それを探求すべき問題とみることは可能である。しかし、この論考が問題とするのは、初代教会によってキリスト教がギリシヤ世界に伝えられようとしたときのように、異邦人たる我々が、キリスト教というまったく未知であり理解不能であるようなものを目の前にして「これを対象としたとき」、我々の自然的理性はこの未知なるものをどのように了解しようとするのか、という意味での信仰-理性問題である。キリスト教が我々に与えられ、我々の認識対象となっている、ということが『キリスト教命題学』の信仰-理性論における問題設定の前提であり、この観点からすると、トマスのギリシヤ的論証は、ここでの問題とは全然別のことを行っているものなのである。「神において質料の存することは不可能である」(1部第三問第二項主文)などと述べることにおいて、トマスは閉じられたギリシヤ的理性概念の世界を論じているのであり、キリスト教啓示を論じているのではないことは明らかである。聖書は、神に質料があるかどうかということに関心を抱いてはいない。これが、当論考が、ここにみてきたトマス的方法を、信仰-理性問題の論述原理として採用しないことの理由である。
(以上は、拙論『キリスト教命題学』「予備的議論(2)キリスト教命題学の方法論 4. トマス・アクィナス『神学大全』にみる「信仰と理性」領域の重なりについて」2008年(prop.133L1429-1844)からの引用)

[3] W.パネンペルク『組織神学の根本問題』日本基督教団出版局 1984年 p.136

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[1] 落合仁司著 世界思想社 2009年

[2] 稲垣久和「自然法と近代認識論」『基督神学』東京基督神学校 1984年 p.70

[3] F.A.シェーファー『理性からの逃走』いのちのことば社 1984年 p.52, 104

[4]「信仰と理性論」Chapter 4 - Section 6注[3] [4] 参照、『カント事典』弘文堂 1997年 p.216左最下行, p.340

[5] K.バルト「ローマ書」『カール・バルト著作集14』新教出版社 1994年 p.382

[6] E.ブルンナー『弁証法神学序説』福村出版 1973年 p.211

[7] I.カント『純粋理性批判 上』岩波文庫 1978年 pp.42-43(BXXIX、BXXX)

[8] B.ラッセル『西洋哲学史1』「聖トマス・アクィナス」みすず書房 1978年 p.46

[9]「信仰と理性論」Chapter 2 - Section 4 注[9] 参照

[10]「信仰と理性論」Chapter 4 - Section 9 参照