第二部 信仰と理性論 星加弘文

Chapter 1 「信仰と理性論」の方法論 (2)

Section 2 信仰を理性で語るべきことの一般的な理由解釈と説明

神に関わる一切の学問としての「神学」、あるいは「生まれながら備わる理性」と「人生の途上に生じた信仰」の関係を論ずる「信仰と理性論」のような、主題に超越的事象を含む学問はどのように論じられるべきなのか。

物事を説明する方法に二通りが考えられる。

一つは、その物事よりも小さなものの組み合せを用いて、その成り立ちや仕組みを説明するもので「解明」とか「分析」、あるいは単に「説明」と呼ぶのが適切であるようなやり方である。もう一つは「解釈」と呼ばれるもので、より大きな事象の中にその物事を位置づけることでその目的や意義を示すものである。

いずれの方法であれ物事は「理解」されることになる。

例えば、内燃機関はピストンやシリンダ、点火プラグなどの小さな部品に分解することでその仕組みが「解明」される。逆に、それがシャーシに載せられシャフトでタイヤと結ばれるなどして、より大きな事物の中に組み込まれるとその役割が知られることになる。

後者の工程は、そのエンジンが船舶のではなく自動車の部品として「解釈」されたことを意味するが、もしそれが博物館という建物の中に展示されるならば、それはまた近代工業の歴史から「解釈」されようとしているということがいえるだろう。

いずれにしても、このときエンジンはより小さなものにおいてその何であるかが知られ、より大きなものによってその役割や意義が知られるのである。

これら「解明」と「解釈」には終点があるように思われる。「解明」における分割は、それ以上分割を続けなければ説明できないような事象が知られていないという段階で止まるだろう。

それ以上分割できないからというよりは、知られている事象をすべて説明し終えた時点で分割の必要性がなくなるからである。現代物理学における「基本粒子」というのはそのようなものに思われる。おそらく古代の哲学者であれば、それはなお複合物ではないのかと素朴に問うことであろう。[1]

「解釈」の終点は、解釈がより大きな事象を必要とするところに存している。すなわち、宇宙という最も大きな事象を「解釈」しようとすると、われわれはそれよりも大きなものを知らないため、神々の物語の中に宇宙を組み込んで人々に納得を迫るということが起こるだろう。

あるいはわれわれが住む地球や社会を不可解な風に描いた上で、そこにあぶり出される不条理を通じて現実世界の表現とすることを目論む類の娯楽作品では、最終的に何者かの陰謀とか歴史的仕掛けが謎解きとなることによって、すなわちそれが世界の「解釈」となることで、当初の世界はかえって矮小化されるということにもなる。

これらにおいては有用な理解をもたらすはずの解釈本来の働きは失われ、ただ拵(こしら)えられた「世界の意味」が語られるのである。

解釈背景に用いる大きな事象の全体が空想ではなく現実のものであり、またそれがよく知られている場合、解釈は強力な説明手段となる。現代解釈学の発祥の場となった聖書解釈学がまさにその例であり、例えば「贖(あがな)い」といった語は、その語を旧新約聖書全体における様々な用例をみていくことから適切に意味をとることができる。

そしてその語が置かれた文脈を加味してそこでの固有の意味が定まると、それがまた使用例の一つに加わることとなり、聖書全体におけるその語の意味の拡張に寄与するという「解釈学的循環」が機能するのである。

さて「神学」や「信仰と理性論」は、それがいわば中間的な大きさであることから、キリスト教に対する「解明」であることも「解釈」であることも可能であるといえる。

実際、キリスト教の発生を歴史地理における近隣諸宗教の影響から捉えようとする19世紀以来の「宗教史学派」の研究は、キリスト教に対する解釈学的な学問である。そこではキリスト教がより広い宗教事象の中に位置づけられ、キリスト教信仰が信仰一般から捉えられようとしており、信仰が信仰を説明するのである。

このとき信仰そのものの存在は諸宗教において前提されているため、キリスト教信仰の「何であるか」が問題にされることはない。シャーシに組まれたエンジンがエンジン内部の仕組みを明らかにしないのと同じく、信仰による信仰の解説は、信仰の内側を明らかにしない。ただそれは新たなキリスト教信仰が諸宗教の中にどのような役割や必要、意義をもって「いかに」生じてきたかを示すのみである。

解釈学的方法による叙述はすべてこの傾向を持つ。それゆえ信仰を語るために初めからそれと同じ領域に立とうとするバルト神学、理性に対する位置づけを「構造的所与」という普遍的な宇宙秩序から説くドーイウェールト哲学には不明な部分が残されている。バルトにおいてそれは「聖霊の働き」というキリスト教の奥義であり、ドーイウェールトでは「宗教的根本動因」と彼が呼ぶところの「諸霊の働き」と解しうるような一般的神秘である。

思想において不明のまま残される部分があることはもちろん構わないが、その不明部分が、単に言及されないことによって生じているのではなく、すなわちその思想の限界あるいは分野外として存する不明ではなく、ショーペンハウアー哲学の物自体たる「盲目の意志」のごとく、その不明部分が根本にあり、その思想のすべての前提となっているという点がここで指摘されるべきことである。

科学理論における仮定も同じ事情にあるが、科学においてはその未証明の仮定を用いて説明しようとするものが観察可能な事象であることによって、その仮定の正しさが観察によって蓋然的に証明されていく可能性がある。観察手段の進歩によって世界のありようが明らかになるにつれて、仮定を含めた理論全体の真偽のほども明らかになっていくのである。

これに対し、宗教理論においてはその主題が超越に関わるものであるために、未証明な前提が証明されていく可能性を期待することは難しい。通常、超越とされるものは観察できないので、未証明の理論前提はいつまでも残されることになる。

ポストモダンの哲学において未証明の仮定の排除されないことが主張されるようになって久しいが、それは科学理論を範としたことであって、これを他分野の理論において同様に主張できるとする根拠はないように思われる。

ただし宗教や信仰など、超越に関わる主題に対する解釈学的方法がまったく無効だというわけではない。すでに述べたとおり、物事をそれと等しい、あるいはより大きなものから扱う方法には、その物事の機能や意義を明らかにする働きがあり、この点は主題にかかわらず損なわれることはない。

エンジンの歴史的意義を知ることもまたエンジン理解の一つであるように、「いかにあるか」についての理解、例えば「イエスの宗教に対する第二神殿期以後のユダヤ教の影響」といった理解が、キリスト教に関する知識の一分野を形成するものであることは否定されない。ただ、キリスト教の本質と呼ばれるようなキリスト教信仰の「何であるか」について、こういった解釈学的方法は迫るすべを持たないということである。

この事情から、信仰という観察し難い主題を扱おうとする「信仰論」や「信仰と理性論」は、広い見地からの「解釈」ではなく、より狭い道具を用いた「解明」的方法が求められるのである。宗教が使用する言語範囲よりも狭く、ただ日常的な概念に限定された普通の言葉による叙述こそが信仰と理性論にふさわしい。

第一部「信仰論」では、理性的叙述に終始することで、キリスト教信仰の「何であるか」について、その最も重要な部分が「解明」されたと考えている。[2]