第二部 信仰と理性論 | 星加弘文 |
Section 3 信仰を理性で語るべきことの必然性――理論前件への要請
トマス・アクィナスは『神学大全』の冒頭で「神学は必要か」という問いに答えた後、「神学は学問であるか」という問いを「異論」として掲げる。
「学はすべて自明的な基本命題から出発する。しかるに、神学の出発するのは信仰箇条からであり、信仰箇条はしかしながら自明的なものではない。すなわちそれは必ずしも万人の容認するところとはなっていないのである。したがって神学は学ではない。」
これに対するトマスの答えは「自然的知性に依拠する学問、および神の知性に依拠する学問の二種類がある」というものだが、ここではこの答えではなく、上の「異論」に注目したい。
「神学の基本命題は自明ではないので学問ではない」とする「異論」の主張は、理性にとって神学が理解し難いものであるという一般的な理性の立場からの疑問を率直に表現している。ここには信仰―理性関係における最も基本的な問題意識をみることができる。
つまり、信仰―理性問題とは、理性の側から出された、信仰に対する疑問であるということである。
ヨハネ福音書には、ローマ総督ピラトがイエスを尋問した際に「わたしが真理である」と語るイエスに「真理とは何か」と逆に問い返したことが記されている。
また、使徒行伝には、パウロがアテネというヘレニズム世界で宣教活動を行った際に、その町のギリシャ人たちが「復活の話ならまたあとにしよう」と言ってその場を立ち去ったことが記されている。こういった「異質な知性」との出会いが、まさにキリスト教における信仰―理性問題の発端の場だったのである。
「いわゆる『信仰と理性』の問題は、哲学史においても、キリスト教弁証学の歴史においても、弁証家たちが、ギリシャ哲学に対してキリスト教をどのように弁証するかという問題として登場した」
これはドーイウェールト、ヴァン・ティルらのオランダ神学を支持する春名純人の言であるが、ここに述べられている信仰―理性問題に対する捉え方、すなわち「キリスト教における信仰―理性問題とは、キリスト教を解さないギリシャ的知性の存在をその背景とするものである」という認識は、この問題を扱う上で基本的なものである。
つまり、キリスト教信仰と一般理性間の問題を述べるということは、こういった異質な知性からの問いに答えることへの要請に基づくものであって、キリスト教の神学や信仰を「分からない」と感じている、そのような知性を相手にしているのであるということである。
キリスト教を問うその知性がギリシャ的であれ異教的であれ、またバルトが述べる「堕落した理性」、ドーイウェールトが主張する「理性の偽装自律」など、たとえ「何的」な理性であったとしても、そういった異質な理性に理解できる答えを示すということが「信仰と理性論」の役目としてある。
すなわち「信仰と理性論」とは、ローマ人ピラトやヘレニズム世界のギリシャ人の「異論」に答えようという志に基づくものであり、これがこの論に課せられた責務だということである。
したがって「信仰と理性論」の叙述手段には、そういった非キリスト教的知性にとって理解可能であるような概念が用いられなければならないということになる。
先に見たように、神学では信仰が理性を語ることも、信仰が信仰を語ることも、理性が信仰を語ることもでき、つまり「何が何を述べる」ことも「可能」だが、こと「信仰と理性論」においては、上の理由により、一般的な理性概念によって信仰を述べる「必然」があるということである。したがって、前段で確認された信仰を理性で語ることの必要はここでも確認されるのである。
この点において、ドーイウェールト哲学のように「宗教的根本動因」
たとえそれが、キリスト教的立場からの上手い説明であったとしても、あるいはコリント書にパウロが記しているように、神の存在などの究極的存在が万人の目に観察可能となる終末時が訪れたとして(Ⅰコリント13.12)、そのときドーイウェールト哲学の宗教的諸前提が科学理論のごとく証明されるということがあったとしても、それでも彼の理論は退けられなければならないだろう。
なぜなら非キリスト教的知性にとって必要であるのは、最終的に正しさが証明される見解ではなく、現時点で理解可能であって、かつ正しい見解だからである。この点における当論考の立場は、R.ローティの「自文化中心主義」の考えに沿ったものといえる。