第二部 信仰と理性論 星加弘文

Chapter 2 信仰と理性の多対多関係 (21)

Hard study 5-4-4 直観主義論理意味論世界「認識史01」

ただし、ここで証明側にPを選ぶか¬Pを選ぶかが任意な問題であるのに対して、Pあるいは¬Pに肯定命題を設定するか、否定命題を設定するかはどちらでもよい問題ではない。それはすでに見たとおり、Pと¬Pではその行く末が違っているからである。

「直観主義論理の¬Pの証明表2」に基づけば、Pに肯定的な内容の命題を設定したとき、その否定が証明されないのである限り、肯定的であるその命題Pが証明されたとみなされる。このことはPに否定的内容の命題を設定しても同じことであり、やはり¬Pが証明されない限りは、内容的に否定であるPが証明されたこととなる。

仮に、直観主義論理が¬Pの方に~β期での証明可を設定していれば、上の事態は記号が逆転した形で再現される。しかしその場合も、¬Pに設定される命題が、肯定的内容であれ否定的内容であれ、それが最終的に証明済となる点は変わらない。

つまり、Pと¬Pに対して、異なる未来を設定する直観主義論理においては、最初の命題設定の仕方は重要ということである。端的に言えば、後続期~βに「証明可」の値が与えられた方の命題設定、したがって現行の直観主義論理においてはPの命題設定は意識的に行われなければならないということである。直観主義論理には、これを論理式の外から最終判定する事実というものはなく、証明表にあるPと¬Pの証明判定が最終事態となるからである。

これに加えて、直観主義論理ではPと¬Pに設定される「異なる未来」、すなわち証明表によって最終的に与えられる判定が、命題内容が肯定的であること、あるいは否定的であることと同種の「真/偽」の真理概念による判定ではなく、「証明可/証明不可」という別種の真理概念による判定であることが、この論理を古典論理の真理観から遠いものとしている。

これにより、直観主義論理では命題の肯定/否定が、古典論理でのように事実による真/偽の最終判定を受けて相殺されるということは起こらず、証明表によるそれぞれの証明可否の判定とともに、命題内容の肯定/否定の内容もそのまま「生き残る」ことになる。つまり直観主義論理は、命題の肯定否定、すなわち真偽については「与り知らない」論理学である。

これら二つ、ないしは三つの事情、すなわち、Pにのみ証明済が与えられるということと、それは外の世界によるのではなく証明表あるいは証明表相当のものによるのであること、加えて、その判定は命題内容の真偽に関わらないということによって、直観主義論理での命題設定の肯定、否定は取り替えの効かないものになっているのである。

このように、直観主義論理の意味論は肯定も否定も証明できない命題についての判定者として機能する面を持つ。この意味で直観主義論理の意味論、すなわち当論考で見てきた「証明表」は、直観主義論理が所有する判定者すなわち「世界」であるということができる。それは直観主義論理の中に組み込まれた「世界」である。

しかしこの判定者の役目を持つ直観主義論理意味論認識史01は、古典論理が対象とする「事実」や「世界」がそうであるところの、命題に対する最終判定者なのだろうか。古典論理の命題の真偽は世界の事実が判定する。同様に、直観主義論理では認識史01がその判定者なのだろうか。しかしそうだとすれば、それは奇妙な判定者ではないだろうか。

しかしそれは古典論理の「事実」と命題の関係を絶対的な基準のように考えて、その視点から直観主義論理の「認識史01」を見ているからであるだろう。もし我々が、古典論理の「事実」と命題の関係に認められる対応説的な真理関係を真理判定の唯一の基準と考えないならば、古典論理の「事実」と、直観主義論理の「認識史01」が命題に果たす役割は「どっちもどっち」であることが理解されるだろう。そしてその時「認識史01」は、それだけが特に奇妙な判定者であるということではなくなるはずである。

以下の通り、いずれの判定者も命題に対する完全無欠な判定者ではない。

直観主義論理の認識史01が~β期に果たす「証明可/証明不可」の付与は、古典論理の命題に与えられる「真/偽」、正確には「真理値の逆転」と同じく、「否定」という概念についての一つの主張であるとみられなければならない。

古典論理の意味論において、¬記号の意味が「真理の対応説」による「真理値逆転」として定められているのと同様に、直観主義論理の意味論においては、やはり¬記号の意味が「証明概念」によって定められている。その「証明概念」とは、「証明可/証明不可」および「当初期/後続期」から構成されており、すなわち直観主義論理の¬記号の意味は、これら2種4個の概念を使って定められているのである。

各論理学は、「否定」という概念を、意味論で定めた働きとして使うことを提示するものである。言いかえれば、そのように使うことが適切なことであるということを、各論理学は主張しているということである。直観主義論理意味論認識史01もまた、¬記号の使い方についての一つの主張あるいは提案である。

Hard study 5-3-3で、我々は直観主義論理意味論(5)(ロ)を一生懸命に理解しようとした。しかし意味論(5)(ロ)については、まずその意味内容を理解すべきとするのではなく、前段Hard study 5-4-3でみたように、否定子「¬」を「直観主義論理の¬Pの証明表2」の認識史01によって定められた働きをするものとして受け取ることが、初めにとるべき姿勢だったのであるように思われる。否定概念をそのように定めることで、古典論理とも三値論理とも異なる否定の意味が提起されているのである。

直観主義論理は、肯定も否定も証明されていない命題の扱いについて、「否定が証明されない限り将来的に肯定が証明される」とすることをもって、否定という概念を規定し、それにより¬記号についての新たな理解を提案している。それは「肯定/否定」について「命題と事実との対応説的一致関係の逆転」とする「真/偽」の二分法とは異なる、新たな「肯定/否定」理解の提示、言いかえれば、排中律についての新たな理解の提示なのである。

アリストテレス以来、一般的な我々の思考は古典論理に沿ったものとしてあるので、我々は二重否定や排中律に表現されている否定についての古典論理の見方を自然なことと感じている。しかし、その見方が我々が住むこの経験世界にどこまで適用可能なものであるのかは実は明らかではない。

実際、πの無限小数列のような、古典論理の肯定/否定概念では扱えない事象が出てきて、それならばということで、否定の意味を真理の対応説ではない捉え方によって新たに定義し直したのが直観主義論理である。しかしもちろん直観主義論理のこの定義もまた、我々の経験世界のどの範囲に通用するものなのかはやはり明らかではない。古典論理にとってπの小数列が不都合であったのと同じく、直観主義論理にとっても都合の合わない事象というのは当然あると考えられる。

しかしながら、この新たな否定の定義が我々の認識を改めさせる可能性もある。直観主義論理を適用するのに相応しい世界は、先に見てきた数学や司法の世界だけではなく、実は、我々の経験世界そのものが、むしろこれに適しているのかもしれないのである。

かつてカントは、理論理性には「物自体」を論じる資格がないことを述べて中世形而上学を瓦解させたとされる。それは、カントが理解していたアリストテレス由来の伝統的論理学および現代古典論理が、見えていない側、すなわち見えている側の否定領域としての形而上領域に適合しないことを、彼が『純粋理性批判』で宣言したことをいうものである。

しかし直観主義論理が「世界」すなわち見える側を「認識史01」の肯定命題として設定するとき、この新しい論理学はカントの主張とも合致しつつ、形而上学に対する新たな展望を持つものとなっているといえるだろう。確かに、古典論理は見えない側を論ずる手だてをもたず、その限りカントの行き方は適切だったが、直観主義論理は「世界」の見えていない側に将来における証明可能性を見るからである。

それは Hard Study 5-4-2 でみたように、直観主義論理の否定記号「¬」に、「不」と「否」の二重の意味が与えられていることによる。我々の世界においてもまた、知られていない側には常に二重のあり方が含まれている。それは我々の能力の限界ゆえに見えていないのか、それともそこに何もないから見えないのであるか。この判断がつけられないゆえに、見えていないものを見えているものの単なる「否」としては語れない。

常識において誰もが理解していると思われるこの事態を、直観主義論理は古典論理よりも適切に表現している。直観主義論理の否定概念の二重性は、存在するものと存在しないもの、知りえるものと知りえないもの、という二重の基準によって分かたれている我々の世界認識について、その境界のありようをより適切に教えるものであるだろう。

ウィトゲンシュタインは、古典論理の金字塔『論理哲学論考』の最終文に「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」と書いて論理実証主義に道を開いた。しかし直観主義論理は、形而上領域の「否」については沈黙しなければならないが、「不」については、やがてそれを語り得る時が来ると理解すべきだと教える。認識途上にある現時点において、形而上学はすべてが語り得ないのではなく、語り得るか否かがなお決定できない場であるということである。

さて、Hard study 5-2-4、5-3-3に「古典論理と直観主義論理を分ける境界について理解したい」と、否定概念考察の目的を記していたが、最後にそのまとめを記しておこう。

1.全事象の片側しか知ることができない状況にあると考えられるとき、未知であるもう片側の事態を、知りえている事態の否定として理解することは正しくない可能性がある。その場合は直観主義論理によって事態を捉えなければならない。

2.その場合、未知である側の事態は、既知である側からは「否」と「不」の二通りのあり方において理解されなければならない。Hard study 5-4-2)

3.全事象の片側しか知ることができない状況とは、未知である側の事態が構成や観察によって初めて知られていく状況をいう。ただし構成や観察が可能であることを条件としない。