第二部 信仰と理性論 | 星加弘文 |
Hard study 5-3-4で「直観主義論理で命題の肯定と否定を取り替えると帰結が変わる」ことを見たが、これについてもう一度考えてみたい。基本的なところから始めてみる。
古典論理の論理式は、その式が論理的に矛盾ではないことの確認がまず求められる。この段階でトートロジーであることが判明した式は外界との対応如何に関係なく真と判断される。
トートロジーでない場合は、式の外からの真偽判定を待つものとなる。外界との対応説的判定が行われて初めて論理式の真偽が定まるのである。
例えば、古典論理としてのP∨¬Pの真偽を調べる場合、古典論理の意味論である∨の真理表と¬の真理表を使って、P∨¬Pの真理表を得て判断する。(これらの真理表はEasy study 2に掲載)
このときP∨¬Pがトートロジーであることが判明するが、その場合、真偽判断はここで終了となる。一方、トートロジーではない論理式の場合には、その命題は真偽判断を我々に仰ぐこととなる。
ここで、最終的に外部世界から行われる「真/偽」の判定は、命題設定での「肯定/否定」と同じ種類の判定である。この仕組みのゆえに、古典論理では記号上で肯定である命題に、内容的に肯定の主張を設定するか否定の主張を設定するかはどちらでもよいことになる。
仮に肯定的内容を設定してそれが真である場合には、否定的内容を設定した方は偽と判定されるので、その判定を含めて論理式を見た場合、二つの式は世界について同じことを述べたものとなるからである。
古典論理の命題は、すでに物事が確定している世界について、あるいは我々の世界をそのように事態の真偽が定まったものとみた上で、改めてそのありようについてを主張して、自身の真偽を仰ぐものである。
したがって「世界について何ごとも語らないトートロジー」
直観主義論理では「~である」「~ではない」と述べる命題の真偽が判定されるのではなく、それらの主張が「証明できるものか/できないものか」が判定される。そして古典論理と同様、その式が矛盾ではなく妥当式でもない場合、命題の証明可否を判定するのはやはり我々である。
例えば、直観主義論理のP∨¬Pを調べる場合、その意味論である∨の証明表と¬の証明表を使ってP∨¬Pの証明表を得ることで判断を行う。(¬Pの証明表とP∨¬Pの証明表はHard study 5-2-4)
すると、こちらのP∨¬Pは論理的真理ではなく一般命題であることがわかる。妥当式でも矛盾式でもない命題は、その肯定あるいは否定が証明できるかどうかが、証言や観察や研究などにおいて追求されることになる。直観主義論理においても命題の真理性の判断は我々に求められるのである。
しかしながら直観主義論理は、肯定も否定も証明できない命題について、自ら何らかのことを行おうとする論理学であるといえる。それは直観主義論理の意味論である認識史01が、そのような命題についての証明可否を定める働きをするからである。
認識史01は「その否定が証明されないのである限り肯定が証明される」と定めている。(直観主義論理の意味論Ⅱ(5)(ロ))
このことは特定の分野においては特に意義があることのようにみえる。πの小数列に0が100個連続する列が存在するか否かは、その否定証明が不可能である以上、肯定証明の可能性しか残されていない。そして実際、先に考えた通り、膨大な計算を続ければその列はほぼ確実に獲得されることが明らかであり、「直観主義論理の¬Pの証明表」認識史01のα⊮P、~β⊩Pはこの状況を端的に表現するものとなっている。
そこで、肯定も否定も証明が困難と思われる命題については、我々はその判定を、直観主義論理意味論の認識史01に訊ねればよいということになるのかもしれないが、その状態にあると考えられる、例えば「神はある」「宇宙人はいる」などを、認識史01に委ねるとおかしな帰結となることは明らかである。
自己言及パラドクスの矛盾ほどではないが、「神はある」と初めに設定すれば「神はある」が有利となり、「神はない」と設定すればこちらが最終的に有望な見解となることは、前節「罪の立証」のところでみた通りである。「白雪姫の后の鏡」のように命題はパラドクシカルに帰結する。
しかしながら、直観主義論理において最初の命題設定が帰結に影響するというこの事態は、実は、以下の事情により避けることのできないものと考えられる。
直観主義論理がα期で肯定も否定も証明できない現状にある命題、すなわち認識史01の状態にある命題に対して何らかの施しをしようとするとき、すなわち、その後続期~βに⊩または⊮の証明値を与えようとするとき、4通りの知識状態を設定することが考えられる。
一つめはP、¬Pともに不証明を与えること、二つめはPを証明、¬Pを不証明とすること、三つめは逆にPを不証明、¬Pを証明とすること、四つめはP、¬Pともに証明を与えることである。
しかし四つめの証明値の与え方は矛盾となるのでこれはできない。また一つめの与え方は現在の不証明状態が未来にそのまま続くだけのことであるから、これは「不明」という第三の真理値を持つ「三値論理」との区別がつかないものとなるだろう。
そうすると、直観主義論理としてできることは、二つめかあるいは三つめの設定のどちらかということになる。
すなわち、その肯定も否定も証明できていない事象について、直観主義論理はそのいずれかが将来証明されるとする世界を考える以外にないということである。証明されるのをPとするか¬Pとするかは記号上の問題なのでどちらでもよいはずである。ここで現行の直観主義論理はPを選んだということである。