第二部 信仰と理性論 星加弘文

Chapter 2 信仰と理性の多対多関係 (30)

Section 4 多対多関係としての信仰と理性

「理性の内訳表」Section 3)に「信仰の内訳表」Section 2)を配して「信仰と理性の多対多対応表」を得る。

信仰と理性の多対多対応表

信仰と理性の多対多対応表2

「信仰と理性の多対多対応表(1)」は、理性の5区分A~Eに信仰の4要素<1>~<4>を割り当てたもので、「同(2)」は、信仰の4要素に対して5個の理性区分を割り振ったものである。

以下、これらの表に沿って、それぞれの信仰要素が理性において承認されるためには何が論じられなければならないかを述べてみよう。これらが当「信仰と理性論」の全課題である。

信仰要素の第一点目「教義的解釈の承認」とは、イエスの十字架刑や復活についての教義的解釈、つまり「罪の贖い」や「神によるイエスの是認」などの解釈が、これらの出来事の「意味」を説明するとされていることに対する承認である。

宗教特有の「意味」の説明は解釈学的思考に相当するものなので、教義的解釈の承認に理性区分のAを割り当てることは、信仰としての思惟を、論理学上の思考として捉え直したことになる。

しかし信仰と理性論が行うべき仕事としては、単に両者の思考法の類似性を示すということだけではまったく十分ではないし、そもそも宗教的思考が解釈、すなわち後件肯定式推論であることはすでに知られたことであるにすぎない。

信仰と理性論においては「十字架の意味」や「復活の意味」が、理性においてどのように納得しうるものであるかが示されなければならない。それは使徒においてどうであったか、現代の我々にとってはどうであるのかということである。

これらに対する単なる理性による理解というのはなお信仰未満の事柄だが、信仰と理性論はその部分を明らかにするのである。

仮にそれが明らかになるならば、十字架教義や復活教義は理解できるものとなり、他の人に説明できるものともなる。信仰という、一般にはほど遠いと感じられるあり方を、人々に理解可能なものとして提示することができるようになるのである。

それゆえ「信仰論」Chapter 3 - Consideration に述べた通り、一般に宗教教義は特定の事象に対する「余計な解釈」であるが、イエスの十字架に対する信仰とは、「余計」であるこの教義的解釈の受容に「必然性」を見いだすことであるといえる。

信仰と理性論は、現在に教義として伝えられている十字架の「意味」などの諸命題を「余計」なものとしてではなく「必然」として、どのように初代キリスト者たちが了解しえたのか、そして現在の我々はどのようにその「必然」を見いだしえるかについて考察する。当論考では、信仰論Chapter 3でそれを明らかにした。

さて、「教義的解釈の承認」に理性区分Aを割り当てることはほぼ自明なことだが、信仰要素の第二点目「史実の承認」を理性の内訳表に割り当てることは、それ自体、考察を要する仕事である。

まず明らかであることは、福音書に記されている史実記事の承認は、基本的には「史実問題」であって「史実と信仰問題」ではないということである。このことは1980年代以降の「史的イエスの第三の探求」が神学とは関係をもたない一般大学で行われてきていることにも示されている。[1]

そこで現代の神学が直面する最初の課題は、通常の歴史学的方法によって獲得された「史的イエス」をどのように評価し向き合うかを明確にすることである。そのためには歴史学の方法が構成主義的なものであることを理解し、証明されることと、事実であることの区別が行われなければならない。

この対処については前節終わりに述べたところである。このところに「史実の承認」が理性区分EとBにおいて論じられる問題であることが表れている。何を真理とするかにおいて、学問的方法は証明の可否(E)を重んじ、信仰はあくまでも事実との一致(B)に立つものだからである。

しかし「史的イエス」問題を史実問題とのみみて、それへの評価と判断を行うことだけで済ますことができないのは、一つには「史的イエス」概念発生の源となっている福音書に伝えられているイエスの史実が、実は不明瞭であるということ、いま一つには、たとえ一般学の方法を駆使することで、確かな「史的イエス」が獲得されたとしても、そのことはキリスト教信仰を学問に依存したものとしてしまうということのためである。

信仰者が抱くイエスの観念は不確実なままであってよいのか、あるいは史的イエスという概念に信仰を依拠させるというのならば、「他人の証言にわたしの信仰を基づけることができるのか」「歴史における偶然の真理は永遠の真理になりえない」といったレッシング、キルケゴール、あるいはブルトマンらから問われてきた信仰に保持されるべき普遍性はどうなるのか、[2] これらの疑問が解決されなければならない。

この「信仰における、史実性と普遍性という相反する要素の同居」の問題、すなわち「史実と信仰」問題としての「史的イエス」は次のように扱われる。

まず、福音書の記事に関して否定的な史実しか得られないという判断があるとき、そのことと信仰の否定が一蓮托生の関係にあるものなのかが検討されなければならない。

自由主義神学、現代神学、保守神学はその傾向にあるが、新正統主義神学は「史実は信仰を与えない」という標語を掲げ、史実否定でありながら信仰肯定の立場を採ろうとした。それは成功しなかったが、この試みの意義を汲み取る必要がある。「信仰論」Chapter 2 - Easy Study 3)

次に学問的方法から獲得される「史的イエス」と、信仰者が実際に抱いているイエスの観念の関係が明らかにされる必要がある。「史的イエス」が聖書資料を前件とする前件肯定式推論から導かれる「構成主義的イエス」であるのに対し、「信仰者のイエス」は聖書に描かれているイエスを後件に導く後件肯定式推論による実在論的な概念である。

これらのイエスを「史的イエスT/R」として区別し、信仰は史的イエスRにおいて成立しており、また成立しうること、そしてこの史的イエスRは「信仰の事実依拠性」を保ちながらも学問的成果からは自由であることが示されれば、上の「史実と信仰」問題は解決する。この詳細を「信仰論」Chapter 4 に述べた。

これらの結果、信仰要素の第二点目「史実の承認」は、内在概念による構成主義的方法E(史的イエスT)と、実在論的方法B(史的イエスR)の理性区分として論じられることになる。

信仰要素の第三点目「超越的事象の存在可能性の承認」については次のように考える。

イエスの復活を証明するという対処が望めない一方で、復活や奇跡などの超越的事象の生起不可能を主張する近代的見解に対しては反論が必要である。

すでにみてきたように、ある事柄が証明できない(P)ことと、その事柄の否定が証明される(¬P)ことは全く別のことである。イエスの復活証明が無理難題であることは明らかであって、それが行えないことの責をキリスト教が負う必要はないが、イエスの復活をそもそもあり得ることではないとする証明を論駁することはキリスト教の責務である。

学問的な証明は構成主義的方法であるから、そこで超越的事象の生起不可能あるいは認識不可能が証明されたのであれば、その証明は、その先、永久にキリスト教を縛ることになる。したがって、キリスト教の立場としては、カント哲学が、超越的事象の認識について否定の証明をしたと理解されていることに対して、その証明が誤っていること、または、カントの証明は超越的事象の認識の否定を述べたものではない、ということを明らかにしなければならないのである。

『純粋理性批判』の着想である「現象と物自体の分離」という考えは、超越的事象の生起不可能を帰結させ、これが「亜カント主義」として現代に至るまで甚大な影響力を保っているのが実際である。[3](Chapter 4 - Section 4-2)このことはキリスト教を含む、現代人の宗教一般に対する見方を決定づけている。

J.I.パッカーは、現代のプロテスタント神学が『純粋理性批判』の影を負っていることについて「啓蒙主義)運動の最も偉大な哲学者カントは、超感覚の秩序に関する事実認識の可能性そのものを否定した。そのことは歴史的な啓示の教理の運命を定めたように見えた。聖書の主張は、理性の確証なしには受け取ってはいけないということになる。現代のプロテスタント主義は、この合理主義者の公理の悪夢を十分に払いのけてはいない。」と述べている。[4]

ここで言及されている「悪夢を払いのけていない」プロテスタント主義とはけっして自由主義、新正統主義、現代主流派のことだけを指しているのではない。これらカントを引き受けた神学が正統性を失っていったことに対する反動として、過剰な聖書信仰と、理性的思考に対するある種の拒否によって保守性を強め、そしてカントの主張に対してはただ黙殺を決め込んできた正統主義神学もこれに該当するのである。

では、多くのカント解説者が『純粋理性批判』最大の功績とみる[5]「現象と物自体の分離」について、どのような対処が可能であるだろうか。

問題は、カントが「現象/物自体」として導いた「内在/超越」の区分が、「認識可能/認識不能」という論理的な区分と同一視されているところにある。

「現象/物自体」の区分がそのまま「認識可能/認識不能」を表すものなのであれば、「認識可能/認識不能」とは、何が認識されうるかについての定義そのものであるから、当然ながら「現象」と「物自体」は分断しているのであり、世界は認識において二元的であることを避けられず、神が我々の世界に関わりを持つことを知りえるとするキリスト教の信仰は間違っていることになる。

しかしながら、カント自身は「物自体」が「触発」により「現象」となり、それがとりもなおさず我々が経験しているところの経験的対象に他ならないとする考えであった。[6]

ただしここで物自体が有するとされる「触発」能力、すなわち作用の概念は、彼が『純粋理性批判』で提示する純粋悟性の「カテゴリー」に従えば現象の概念であるという指摘が古くから行われてきた。[7] もし物自体が作用するのであればそれはもはや物自体ではなく現象に属する何ものかなのである。

カントはいわば大哲学者らしく、超越側の物自体が内在側の現象へ作用しうるとするこの混乱を『純粋理性批判』から取り除くことなく放置した。この「触発論」[8] と呼ばれることとなる議論の検討、および「現象」「物自体」それぞれの概念の成り立ちが、はたして認識可能/認識不能という論理的な二領域と合致したものであるのか、という点に検討の余地がある。

また「現象は物自体ではない」[9] と繰り返し述べられているカントの言明が「部分否定」としての否定である可能性についても指摘できる。「塩水は水ではない」と述べた場合と同様に、その否定はむしろ両者の関係性を示すものなのである。

「第二部 信仰と理性論」Chapter 4 - Section 4-5に述べる「または物自体」と「かつ物自体」の区別も、現象と物自体の完全な分離という理解が誤っている可能性を示している。加えて、当章 Hard study で追求してきた直観主義論理での否定概念が持つ意味の二重性も、現象の否定側のあり方を示唆するものと思われるのである。

超越領域には「または物自体」が含まれなければならないという理解は、古典論理の定理が導くものだが、直観主義論理の意味論が導く否定の二重性もまた「現象と物自体の分離」という二分法とは相容れない。これらのことから、認識境界について現代に定着した「現象と物自体の分離」という近代認識論的イデオロギーは、もはや明確な誤謬であるといってよいだろう。

「触発論」の詳細は「第二部 信仰と理性論」Chapter 4 に述べられる。そこでは、カントの『純粋理性批判』が対象となるため、その主要な構成である「超越論的分析論」と「超越論的弁証論」における、それぞれの理性区分E(現象のみを扱う超越論的分析論)と、A(現象と物自体を扱う超越論的弁証論)が議論の場となる。

信仰要素の第四点目「天上的教理の承認」は領域Cに属する。キリスト教におけるいくつかの教義はトマスが述べる二種類の学問の内「神の知性に依拠する学問」であり、超越的概念から出発する演繹推論によって「三位一体」などの神の性質が説かれる。

ここでも問題はこういった天上的教理をどのように理性的に承認しうるのかということであるが、このような天上的である教義の受容はイエスへの信仰が確立した後の課題とみることができる。

信仰と理性論は、初代の弟子たち、および現代の我々における初めの信仰成立までを追えればよい。というのもイエスへの信仰が成立しさえすれば、爾余の信仰内容については、「イエスあるいは使徒がそれを教えたので受け入れる」という態度として理解が可能となるからである。

そもそも「三位一体」「キリストの二性一人格」といった神学教義については理性的な理解を得る方法のないことは明らかと思われ、したがってそれらに対しては、理解ではなくイエスゆえの受容というのが正しい対処であると考えられるのである。Chapter 1 - Break では、天上的教理の一部について、理性的な理解の可能性が追求されていることに触れたが、当論考の役割はそこにはないと考える。

以上をまとめると、<2>史実の承認 と、<3>奇跡生起の承認 については、それが可能であること、つまり現代において史的イエスを認識し得ることと、奇跡は起こりえることを確認することが「信仰と理性論」の役割である。<1>教義的解釈の承認 については、単にそういった解釈が可能であるということではなく、その解釈の必然を示すことが「信仰と理性論」の役割となる。

キリスト教信仰は、イエスの史実認識と奇跡生起の可能、およびキリスト教命題の受容必然性において成立する。信仰は可能的である客観事象に対する必然的な主観的承認によって生まれるのである。したがって客観事象についてはその可能であることが確保されればよく、それについての証拠はいらない。ただその否定や不可能は排除されなければならない。そして信仰主体においては、主観的とはいえそう信じることの必然性が見い出されていなければならないのである。