第二部 信仰と理性論 | 星加弘文 |
実在論的思惟と構成主義的思惟の違いの三つめは「真理」の意味が異なることである。実在論的思惟における「真理」基準は事態の「真/偽」であり、構成主義的思惟の「真理」基準は知識の「有/無」あるいは、証明の「可/否」である。
直観主義論理における「真/偽」概念は、「真であることが証明できる/偽であることが証明できる」という形で述べられ、これを構成主義の「真理」基準の「証明可/証明否」に照らすと、いずれも「証明可」を言うものである。
聖書批評学が構成主義的学問であるとき、そこで達成されようとしているのは、例えば「福音書のイエスが史実上のイエスであることを証明できる/福音書のイエスが史実上のイエスではないことを証明できる」ということである。いずれにしても「証明可」が目ざされているのである。
しかし、実際に聖書批評学が提出する結論はほぼすべてが「福音書のイエスが史実上のイエスであることを証明できない」というものであるとしてよい。このことは、我々に、史的イエスに関して何か否定的なことが帰結されたかのような印象を与えるのだが、これが「福音書のイエスが史実上のイエスではないことを証明できる」ではなく、「~であることを証明できない」という言明であることに注意すべきである。
構成主義的思惟での「証明できない」は、「偽」を意味するのではなく「真偽不明」を意味する。
上に述べたように、直観主義論理における「真/偽」は、そのいずれも「証明可」において初めて言いえるものとして規定されているからである。そのため「証明不可」が言われる場合には、それは事態の「真/偽」を述べたものではないのである。
しかし、聖書批評学が提出する結論を実在論的な言明として受け取ってしまうと、我々はその帰結を「偽」が主張されたものとして理解してしまう。そこから、聖書批評学に対する性急な拒否も生じてくるのである。聖書批評学は、それを構成主義的学問として理解するときにその帰結の意味を正しく理解することができる。
構成主義は何らかの新たなものを知識に導入するための方法ではなく、すでに知られているとされている知識、例えば福音書に描かれそのように信じられているイエスが、確実な知識として認めうるかどうかを検証するための方法である。
史的イエス研究は、このような「構成主義的イエス」、信仰論Chapter 4の用語で言えば「史的イエスT」を構成する試みであるが、それにより信仰によって信じられている「福音書のイエス」が歴史事実に対応しているものなのかを検証する。
この試みは「実在論的イエス」すなわち「史的イエスR」において成立している正統信仰の正当性(事実との対応性)を問う位置にあり、いわばキリスト教信仰という整合説的意味での真理体系を対応説的に検証するのである。
したがって、信仰の「正当性」の検証に携わる史的イエス研究は、キリスト教信仰の「正統性」を揺るがす可能性を持っている。実際何が正統であるのかは、ある宗教のように「教典が空から降ってきた」というのでない限りは、キリスト教創生期に何が起きていたか、何が定められたのかという、やはりそういった事実が決定するものだからである。
史的研究は何が歴史の真実であるかを捉え、もしそれが捉えられた場合には、既存のキリスト教の正統性の変更を厭わないという姿勢をもっている。正統性よりも正当性を優位とし、正統性は正当性が定めるとみるのである。
いうまでもなくこのような試みにはたいへんな重大性が含まれており、これを何の備えもない信仰といきなり対峙させてはならないだろう。というのも正統信仰を成立させ、それを保持するということさえ相当な一大事であり、また本来は倒れる必要のない状況であるにもかかわらず、信仰が史的イエス研究の学的性格に対して無知であることによって無駄に損なわれるという事態も考えられるからである。
そこで史的イエス研究への対応としては、まず我々において成立している信仰の正統性を確保し、その上でそれらの研究成果と向き合うという順序が守られる必要がある。そうでない場合には、正統信仰の安易な変更が起こりうるからである。自由主義神学や新正統主義神学は、その時代の史的イエス研究に合わせた信仰を採用することから生じたといえる。
しかし最終的には、正統性は正当性に道を譲るのであるということも我々は覚えておくべきだろう。というのもキリスト教は最終事態による決着という「終末論」を持つ宗教だからである。しかし、キリスト教世界観的には「終末途上」、史的イエス研究史的には「探求途上」である現状況においては判断は常に慎重でなければならない。
この論考で試みてきたように、「史実と信仰」問題についての理解を深めることで、史的イエス研究に対する、正統性の変更や放棄によるのではない対処を学ぶことができるはずである。
さて、以下に史的イエス研究との向き合い方についての基本的かつ具体的な理解を述べる。
以下の方法は、「構成主義的イエス」が直観主義論理の概念であり、その直観主義論理が発展途上としての知識を扱うものであることから、史的イエス研究がその発展途上において提出してくる「史的イエス」を評価するための方法として、Easy study 5-2-1 に引用した「直観主義論理の意味論」が適用できるという考えに基づいている。
この「直観主義論理の意味論」が示す結論は、すでに我々が常識的理解のもとに、そういった史的研究に対して下している判断の域を出るものではなく、特に面白みのあるものではない。しかし、そのような判断の根本を理解しておくことは、史的研究に対する対応の仕方に確信を与えるだろう。
例えば、ある事柄が「証明された」という場合、それが「確実な知識」として認められるべきであることは常識も理解するところである。しかし「証明されなかった」ものが知識として否定されるべきかどうかということになると判断が難しくなってくる。
あるイエス研究において「福音書からは史的イエスを知ることができない」との結論が出された場合、これをどう評価すべきだろうか。こういったことを以下に述べていきたい。
「古典論理」の判断は、真または偽の二通りである。例えば命題A「雪は白い」については、
1 A (雪は白い)
2 否A(雪は白くない)
のいずれかとなる。このAを「史的イエスは福音書のイエスである」という命題に置き換えると、
1 史的イエスは福音書のイエスである
2 史的イエスは福音書のイエスではない
の二通りの表現となる。
「直観主義論理」での判断は、命題の真偽に加えて、その証明可能性が論じられるため次の四通りとなる。
1 Aが証明された
2 否Aが証明された
3 Aが証明されない
4 否Aが証明されない
先の命題を適用すると、
1「史的イエスは福音書のイエスである」が証明された
2「史的イエスは福音書のイエスではない」が証明された
3「史的イエスは福音書のイエスである」が証明されない
4「史的イエスは福音書のイエスではない」が証明されない
となり、これが構成主義的研究としての史的イエス研究がもつ結論のすべてとなる。
これら4つの証明状況は、これ以後明らかにされるかもしれない新たな証明を含む、未来のより豊かな知識状態からみると、途上の知識状態であり変化するものと考えられる。直観主義論理におけるこれら1~4の各々の証明状況は、その後の知識状態の発展によって、それぞれがある定まった証明状況に至る。
それゆえ、史的イエス研究を構成主義的方法として捉えるとき、現時点で提出される史的イエスの証明状況も、この論理に従った展開を将来的にみせるものと考えることができる。
以下に、野矢茂樹『論理学』での直観主義論理意味論クリプキモデルに従って、発展途上にある4つの証明状況が、その終局状態においてどのようになるかをみてみたい。
証明状況の1と2はいずれも命題が「証明された」と述べている。2の場合は命題の否定が証明されたということで、これは「反証」と呼ばれる証明である。
直観主義論理においては、知識途上において、ある事柄が「証明された」場合、その証明は後のより発展した知識状態にも引き継がれる。たとえば「三角形の内角の和は二直角である」という証明がそうであるように、いったん「証明された」ことは、それ以後、いかに知識が発達したとしても覆されることはない。
したがって、もし現代の史的イエス研究が、ほんとうに「史的イエスは福音書のイエスである」ことを証明した、あるいは逆に「史的イエスは福音書のイエスではない」ことを証明したと宣言するような場合、この証明は、後のどんな時代においても有効であると考えられなければならない。
それは「信仰と理性論」Chapter 1-Section 3 にも引用したパウロの言
しかし聖書の史的研究では、論理学や数学とは異なり完全な証明というものは考えられないため、実際にそれらが示す帰結は、肯定的なものであれ否定的なものであれ、蓋然的なものとして提出される。
そこで、史的研究がもたらす帰結については、その蓋然性に対する評価を行うということが正しい対処の仕方となるのである。もし、それが蓋然性の高い証明であれば尊重されなければならないだろう。実際「聖書の事実」として広く認定されている事柄の中に、この種のものを認めることができると思われる。
証明状況の3は肯定命題が「証明されない」として命題Aの証明不能性が主張されている。この「証明なし」という主張はどういう意味をもつだろうか。
直観主義論理が「証明されない」命題について述べるのは、否定導入型の背理法「Aが証明されえないとき、Aでないことが証明された」においてである。
直観主義論理では命題を知識の発展途上段階の言明とみるので、上の命題は複数の意味をもつことになる。
ある時代の知識状態をαとし、時代が進んでやがて終末を迎え知識の最終状態が訪れた時を知識状態βとすると、上の命題が文字通りの意味となるのは、知識の最終状態βで述べられたときである。βにおいてAが証明されなかった場合には、それは当初から否Aが証明されていたことに等しい。(Hard study 5-2-2 直観主義論理意味論Ⅱ(5)(ハ))
というのも、βは知識の最終地点なのでそこまでに証明されなかった事柄は真理ではないのである。もしもパウロがコリント書で述べている時が訪れて、そのときになお「史的イエスは福音書のイエスである」が証明されないのであれば、真実な史的イエスは福音書のイエスではなかったのである。
しかし先の命題を知識状態αでの言明とみる場合、そして終末を迎えていない現在、もちろんそう解するのが適当であるが、「Aが証明されえないとき」は「Aが証明されていないとき」と読み替えられることになる。
そしてこの「Aが証明されない」ということからは、それに続く後のどの時代についても、Aが証明されるか否かは不明ということが帰結する。先にπの小数列の例で述べたとおり、知識の有限性において我々が取りえる態度は「真または真偽不明」のいずれかであり、「証明されない」というのは「真偽不明」のことである。
したがって、例えば「史的イエスを福音書から構成できない」という帰結が報告される場合、それは、現在の資料とその特定の方法においてはそうである、という意味であることが明らかである。
それは知識の終局時点における史的イエスの構成可能性を否定するものではなく、あくまでも現時点で可能ではないことを述べたものである。ここでブルトマンの有名な主張が思い起こされる。
「というのは、私はもちろん、私達はイエスの生涯と人となりについてほとんど何も知ることができないと考えているからである。なぜならキリスト教側の資料はそのような興味を持たなかった上に、非常に断片的であって伝説に覆われているからであり、更にイエスに関する他の資料は存在しないからである。」
この主張は「史的イエスを福音書のイエスのようには構成できない」ということを述べたもので、証明状況3行目の具体例といえる。
これに対して、我々はブルトマンの主張を認めた上であっても、それが「福音書のイエス」が存在しなかったことの最終的な証明ではないと答えることができる。ブルトマンの主張は「彼のその時点における知識と彼の方法においては」ということが、その前提としてつけられた上で受け取られなければならない。
このように「証明できない」という一見すると信仰に不利と見える史的研究の帰結が、実は信仰にダメージを与えるものではないことが理解されることと思う。「証明されない」という言明には「証明された」という言明が持つ深刻さはないのである。
証明状況4行目の「『史的イエスは福音書のイエスではない』が証明されない」は否定命題が証明されない場合を述べている。命題の否定が証明されないとは、反証が証明されない、つまりここでは命題Aの反証不能性が主張されているということであるが、これはどう理解されるだろうか。
これも「証明できない」という言明であるので、基本的には実りのない主張である。論理の詳細は省略するが、「『史的イエスは福音書のイエスではない』が証明されない」とは、「『史的イエスは福音書のイエスである』が証明されたとしても矛盾はない」ということである。
それは「『史的イエスは福音書のイエスである』が証明される」ということではないが、しかしまた、「『史的イエスは福音書のイエスである』ことがありえる」ということでもある。
実際にはこれもまたほぼ無意味といってよい主張だが、逆に、保守派の立場としては、この言明には注意すべきかもしれない。というのは、我々自身がこれを史的イエス研究に対する批判として述べる可能性があるからである。
もし我々が「批評的研究は史的イエスが福音書のイエスどおりではないことについて何ら積極的な証明は行えない」と主張するなら、それはまさに、この証明状況の4行目を主張していることになる。しかしそれは「史的イエスは福音書のイエスである」について真であるかもしれないし偽であるかもしれないと述べたものであるにすぎず、批判として成立しているとはいえないのである。
以上が、実在論的思惟と構成主義的思惟の対比だが、次の点を確認しておきたい。それは、我々が二つの独立した思考法を持っているということである。
自分が知っていることを基礎として、そこから確実な思惟を積み重ねる、それによって範囲は限られるが、そこで述べ得たことについては確実な知識とする、そのような構成主義的思惟と、思考の初期に仮定を導入し、理解できない事柄に対しては、その原因を様々に設定してみることで、不確実さは残るものの、事象解明の可能性を探るという実在論的思惟である。
構成主義的思惟においては、未知であること、知らないことについては何も言うことができず、一方、実在論的思惟においては仮定の不確実さがどこまでも残り、たとえその仮定によって事態をうまく説明しおおせたとしても、後件肯定式の論理であるゆえに、それを確実なものとみなすことはできない。これら二つの思惟方法は、それぞれが限界を持つのである。
そこで、実在論的思惟と構成主義的思惟のいずれかを採用するというのではなく、その両方が、我々の思考において可能であり、実際に我々は、そのようにものごとを考えてきたのであるということを理解したい。
こういった二つの思考法の違いに関わる最初の言及を行ったのはカントであるが、それが明瞭に理解され始めたのは、実に前世紀の第二半期以後のことにすぎない。