第二部 信仰と理性論 星加弘文

Chapter 2 信仰と理性の多対多関係 (28)

Easy Study 6-2 議論対象が世界か、世界について知識かの相違

実在論的思惟と構成主義的思惟の違いの二つめは、それぞれが古典論理/直観主義論理に基づくことによるもので、その思惟が世界の全体を述べようとするものかどうかに関わる。

古典論理が世界の事実を論述対象とするのに対し、直観主義論理は世界の事実についての知識を論述対象とする。史的イエス研究では「史的イエスの第二探求」の立場が直観主義論理に相当する。

構成主義的思惟では史的イエスの事実、また、神秘を含めたキリスト教の総体ではなく、それらについて我々は何をどの程度まで知りえるのかという姿勢において探求が行われる。言いかえれば、理性において理解可能である部分についてのみ明らかにするという態度である。しかしこの理性主義の徹底において、古来、宗教上の神秘として、あるいは個人の信仰として不問の向こうに置かれてきたキリスト教的真理のかなりの部分が実は解明可能なのだ、という主張をこの方法論は持つ。

これら二つの思惟における論理学的相違を理解することで、トマスやカントなど、キリスト教神学に関わる古い理論において、キリスト教の神概念や信仰概念が変容した原因が明らかとなる。また、この問題に関するドーイウェールト哲学および改革派神学による批判の不適切さについても理解できるようになる。

ドーイウェールトらが退けようとしているのは、トマス神学やカント哲学に顕著であるような、信仰の理性への「還元」、あるいは理性によるキリスト教の「包摂」を示す理論である。

これらにおけるキリスト教の変容が、理論前件(叙述)に用いられたアリストテレス哲学の諸概念や、ア・プリオリ(経験由来ではない)な主観観念によってもたらされたとみることは誤りではないが、ドーイウェールトらの理解によれば、実はそういった概念がすでに異教的な信念に害されたものであり、それがゆえに信仰と理性に関する聖書的見識が失われたとされる。

どのような理性も何らかの宗教的信念によって規制されており、それゆえ、信仰と理性についての正しい理解をえるためには、とにかく最初から正統信仰に立ってこの問題を考える以外にはないことが主張される。

確かに、世界解釈のための解釈概念として、あらかじめ聖書的であるような概念を仕込んでおけば、それによって解釈された世界がキリスト教的なものとなることは当然すぎる理である。

しかしそのような方法で提示されるものは、哲学ではなく哲学用語を用いたキリスト教そのものであるというべきで、学問としての有効性に疑問がある。カント哲学等への批判は、そこで用いられた理性の異教的性質の指摘という、理性を超越した立場からの批判によってではなく、単なる理性の使用法の問題として、理性内において指摘することが可能であるはずである。

すなわちトマスやカントの概念が、結果としてキリスト教を侵食するに至るのは、それらの思想が、古典論理と前件肯定式推論が結びついた「古典的演繹」だからである。

「古典的演繹」の思惟では、観念として構成しえたものだけが世界とみなされるため、そこで述べえないことを残すことは不完全な理論に終わることを意味する。そのため、はじめに設定された概念が、対象への適合可能性を省みられることなく世界のすべての叙述に用いられる。

こうした観念論哲学においては外界対象の論述に苦労するのが常である。デカルトは「我思う」という自己意識を出発点として最終的に世界の存在を証明するが、その方法は、デカルト版「本体論的証明」[1] によって神の存在を証明した後、神の誠実さにより、我々に与えられる外界認識と実際の外界の状態が食い違うはずがないという推論によるものである。

「純粋統覚」という主観観念を理論上の出発点に置くカントは、主観から客観を生じさせる段階で、「図式」という主観と客観の繋ぎとなる観念を提示する。観念論哲学は、これらの詭弁的あるいは難解極まりない方法によって、外界を主観観念から演繹するが、こういった観念から実在への無理な叙述が、叙述対象の「還元」や「包摂」を引き起こすことになる。

同様にしてキリスト教を理性概念からその全体を捉えようとするならば、キリスト教の理性への「還元」、あるいは理性によるキリスト教の「包摂」が必ず起こるといえる。しかし、こういった「還元」や「包摂」が「古典論理+前件肯定式推論」による「古典的演繹」の結果であるとすれば、その回避には二つの方法があることになる。

一つは、「非古典論理+前件肯定式推論」としての「構成主義的思惟」を実行することであり、もう一つは、「古典論理+後件肯定式推論」による「実在論的思惟」を実行することである。

ドーイウェールトらのキリスト教哲学は、後者の方法に拠ったといえるわけだが、ここで重要である点は、それだけが可能な方法なのではなく構成主義的なキリスト教哲学も可能だということである。すなわちカントやトマスに対しては、キリスト教そのものを前提するような巨大な仮定をもつ理論体系による批判を展開する前になしうることがある。

そして、この構成主義的方法においては、獲得される知識が、いずれにせよ解明対象の一部分にとどまることが原理的に定まっているので「還元」や「包摂」は起こらない。あくまでも確実に知りえるところをもって、自身の方法論の分とするのである。

「古典論理+後件肯定式推論」を採用したドーイウェールトの方法は、方法論的には「古典的演繹」克服の方法として有効と認められる。しかし、通常の世界を述べるために、通常の世界を超える神秘的宗教世界を前提するその方法は、「信仰論」Chapter 4 - Consideration 4 - 史的イエスR1 に挙げたハンソンの原則の5番目「その仮説ができるだけ単純であること」に抵触する。このことからその有効性は低減するのである。

以上の詳細は「信仰と理性論」Chapter 3に述べられる。