第二部 信仰と理性論 | 星加弘文 |
以上で理性区分の考察を終え、信仰と理性の「多対多対応表」の設定に戻る。Section 3の「理性の内訳表」にある「実在論・解釈学」と「構成主義」について、これまでに述べたところをまとめておこう。
以後、実在論と解釈学をまとめて「実在論的思惟」と呼ぶことにする。「構成主義的思惟」の名称はHard Study 5-3-4節終わりに述べたところに由来する。
「実在論的思惟」と「構成主義的思惟」の違いとして第一に挙げられるのは、上表の「推論形式」の違いがもたらす仮定導入の可否である。
後件肯定式推論である実在論的思惟においては、仮定は知識の源泉となりえる。たとえば、特殊相対性理論の仮定である「光速度不変の原理」は証明されたことではないが、この理論の正しさがほぼ百パーセント確認されている現在においては、この仮定の正しさも認められている。
このことは証明されていない仮定であっても、それを「知識」に昇格させることができるということであり、この意味で実在論的思惟における「仮定の導入」は「知識の調達」であるといえる。
別の言い方をすれば、実在論的思惟においては、当面その確実さは保証されないものの、知識を自由に「調達」できるということである。様々に存在する世界の成り立ちに関する宗教教義はまさにこのようなものといってよい。
一方、前件肯定式推論である構成主義的思惟がもたらす知識は、前件概念の制約を受け、しかも前件概念は肯定されるもの、すなわち既知であるか、基礎づけ論証等によって認められる事柄でなければならないため、その基礎づけ論証自体が新しい知識を提供するのでない限りは、新しい知識をもたらすものとはならない。
この傾向から、構成主義がもたらす知識は新たな知識の導入や調達というよりは、すでにある主張や要請されている事柄を、特定の方法において検証するためのものといえる。
『純粋理性批判』の「超越論的感性論」と「超越論的分析論」は、経験的実在論からの要請に対し、「純粋直観」「純粋統覚」などの主観観念から「経験的認識」としてそれを「構成」しようとする試みである。その意味することは、経験論に含まれる外界の実在性や法則性、認識拡張性を、仮定に拠らない観念論において証明するということである。
また、実在論的思惟における知識が調達的であり、構成主義的思惟における知識が検証的であるというこの理解は、新プロテスタンティズムの「史的イエス」問題を解決するための手がかりを与える。
イエスの史実そのものが我々に信仰を与えるのではないということが確かである一方で、福音書のイエスの史実性が否定された場合には信仰が成立しないことになることもまた確かである。「史実」と「信仰」についてのこの理解は、新プロテスタンティズムに限らず、保守主義の立場としても了解できることだろう。
問題は、ここにみられるやや錯綜した「史実」と「信仰」の関係を、どう整理づけられるかということだが、この問題に関して新プロテスタンティズムは、現在に至るまで混乱の中にある。
保守主義においては、聖書信仰により史実問題を問う必要性がなくなっているため、そういった混乱はみられないが、「史実」と「信仰」の関係について適切な理解を得ているわけではまったくない。
新プロテスタンティズムにおける一定の方法論に基づいた宗教史、様式史、編集史などの聖書批評学は、検証可能な事柄から出発する構成主義的思惟に属するとみることができる。それぞれの方法から構成される「史的イエス」は、すでに福音書を通じて知られている「福音書のイエス」が正しいものであるかを「検証」するための知識を提供する。
一方、我々は信仰成立に必要であるイエスを、そういった構成主義的方法によって得ているのではなく、むしろただ福音書の成立に先行して存在したであろうイエスを、実在論的に設定することにおいて「調達」していると理解するべきである。
というのは、福音書を読んでイエスを信じる、あるいは教会での説教を通じてイエスを信じるという場合、通常、そのイエスは学問的意味での史的確実さということが問われたものではないからである。
一般に信仰は、イエスに関する情報の歴史的な正しさの確証なしに成立するものである。信じられているイエスについて、その知識が誤りであるという証明があるなら誰もそのようなものを信じようとはしないが、つまり信仰は成立しないが、そのような否定証明がない限りは、その知識が正しいという証明がなくても正しさの可能性の中で信仰は成立するのである。
この意味で、史実と信仰問題においては「信仰の真偽」と「信仰の成否」は分けて理解されなければならない。この詳細は「信仰論」Chapter 4に述べたところである。