第二部 信仰と理性論 星加弘文

Chapter 4 超越的認識の可能性 (26)「現象と物自体の分離」思想の考察

Section 12 超越世界と内在世界の関係触発論のまとめ

カントの「現象と物自体の分離」思想は、経験可能な世界の範囲をどのように定義したとしても免れることのできない「認識可能/認識不能」という論理的な区分と同一視されたため、内在世界と超越世界の分断を引き起こし、キリスト教の啓示概念を不可能にしてきた。

すなわちこの「カント的分断」は、「現象と物自体の分離」に対する誤った理解のもとに生じてきたのである。

『純粋理性批判』の主要論述は構成主義的方法で行われており、そのため基本的には現象のみを述べるものである。構成主義における後件の導出は、基礎づけられた前件概念だけから演繹されるため、主観の諸能力のみを議論の糧とする「超越論的分析論」までにおいて、物自体は構成された概念としては登場しない。カントはこれを「限界概念」とし語り得ないとしたのであった。

この事情のゆえに、カントに続いたドイツ観念論は、「超越論的分析論」に示唆された「消極的ヌーメノン」などの物自体を余計なものとみなし、また、「超越論的弁証論」の物自体を矛盾概念とみて、物自体を取り除く方向に進んだのである。この学派は「現象は物自体ではない」という文言を全否定文として受け取り、その上で『純粋理性批判』の整合性を保とうとした。

確かに『純粋理性批判』を観念論的な著作とのみ見る場合には、ドイツ観念論の方法は『純粋理性批判』に対する解釈可能性の一つであり、物自体を矛盾として取り除くことが観念論としての純化と統一をより達成することになる。しかし、それは「経験的実在論でもある」Section 7注[15]参照)とされるこの著作の全体を見失った解釈である。

世界の全体に言及しようとするものではない構成主義的思惟(Chapter 2 - Easy study 6 表)においては、その体系の中で証明されていない事柄は「否定」されているのではない。それは「真である可能性が残された未証明の事柄」として理解されなければならない。Chapter 2 - Easy study 5-1)

直観主義論理において「証明」と「真」が二つの異なる真理概念であるように、構成主義的な論述において「証明されない」ことと「真ではない」ことは区別されなければならない(Chapter 2 - Easy study 6-3)その論述において「構成されない」ことは、それが「存在しない」ことを示すものではないのである。

すなわち、構成主義的意味における「カント的分断」とは、『純粋理性批判』が構成する現象世界においては構成されなかった物自体を、存在しないものとみることから生じた誤りである。

さて、ショーペンハウアーは「形而上学の源泉が経験であってはならない理由をカントは述べていない」と批判しているが、[1] 確かに、カントが述べる現象世界は、超越論的対象が「与えられた」[2] 後の世界であって、そこで「与えられた」対象が、触発の結果として時間的、空間的、悟性的であることを言うものにすぎない。

しかしいったい何が与えられるのだろうか。何が現象となる資格を持つのかは、現象となった後の議論からは知ることができない。

それゆえ、経験が形而上学的由来をもちえるかどうかということ、言いかえれば我々の経験にキリスト教的な「啓示」の可能性を見いだせるかどうかということは、少なくとも、構成主義的議論から始まる『純粋理性批判』以前の事柄として考えられなければならないのである。

そこで、内在と超越に関する実質的な理解は、カントの実在論的思惟における現象と物自体の関係に求められることになる。

全世界を視野に入れる実在論的思惟(Chapter 2 - Easy study 6 表)においては、たとえ現象と物自体が、既述の通り、相互の直接的な規定関係にないとしても、現象に対して物自体が何らかの意味の否定の関係に置かれるものであることは間違いのないことである。物自体が何であれ、それは現象とは区別される「非現象」である。

しかしながら Chapter 4 - Section 4-5 に述べたように、現象の否定としての物自体のあり方は一通りではなく、「かつ物自体」の他に、二通りの「または物自体」からなる三通りが考えられなければならない。現象は空間と時間、そして因果性を含むところの4種類の悟性の関係性として規定されるが、この中のいずれか一つを欠く、あるいは逆に何らかの他の規定が加わることによっても、それは「現象ではない」ことになる。

「長男ではない」とは「男ではなくかつ長子でもない」という次女のような存在だけを言うのではなく、「男だが長子ではない」とか「女で長子である」といった次男や長女のことも言うのである。「長男ではない」ためには長男が持ついずれの性質も持っていてはならないのではなく、例えば、男という性質を持っていても長男でないことは可能である。

つまり、現象と物自体の否定的関係とは、必ずしも現象が持つ因果性(作用性)における否定の関係を意味するのではない。物自体が因果性という現象の性質を持っていても、その物自体は現象の否定でありえる。このことは「物体の表象は何か或るものの現れ」Section11)と述べる、カントの因果論的な触発観をそのまま受容してさえいれば最初から明らかだったことなのである。

「現象は物自体ではない」という言明と「現象は物自体の現れ」という言明の両立は何ら難しいことではない。上の「長男」の例と同様、現象が複合概念である限り、その否定は様々な様態において可能だからである。

現象を「純粋直観と悟性カテゴリー」の2個の要素から成立するものとすれば、Section 4-5に既述の通り、これらの要素の真偽の組み合せは4通りとなり、そのうち「純粋直観=真、悟性カテゴリー=真」が現象であり、これを除く3通りが現象の否定のあり方となる。その中で「純粋直観=偽、悟性カテゴリー=偽」であるのが「かつ物自体」で、残り2通りが「または物自体」である。

さらに『純粋理性批判』の説明に従って、純粋直観を空間と時間に分け、悟性カテゴリーを分量、性質、関係、様態の4種に分けた場合は、現象は6個の要素からなるものとなる。この場合の現象の否定は、2^6-1=63通りとなる。この63通りの中に、関係カテゴリーに属する作用性を真とするあり方は複数(31通り)存在し、これらはすべて「または物自体」である。

すなわち「現象」を単一概念として扱うと「現象は物自体ではない」という言明は全否定文として解釈されるほかない。しかし「現象」を複合概念として扱うならばカントに照らせばそれが正しい扱いだが「Erscheinungen sind keine Dinge an sich selbst.(現象は物それ自体ではない)[3] とのカントのドイツ語言明は、日本語で「海水は真水ではない」というのと同じく、文法上は通常の全否定文でありながら、その実質は部分否定の内容を持つ言明として解釈されなければならないのである。

確かに「現象は物自体ではない」、しかし上に示したように、複合概念である現象の否定としての物自体が現象の性質をまったく持たないというのはむしろ例外であって、現象の性質の一部を持つ物自体であることが普通なのであり、そのため「現象は物自体の現れ」であることが可能なのである。

現象と物自体としての認識二元論は、『純粋理性批判』の中でカントが繰り返し述べるこの「現象は物自体ではない」[4] という言明によって補強されてきた。確かにこの言明は、物自体が現象の否定概念であることを示しており、これを文字通り受け取ることで、現象と物自体が二つの相反する世界として分離したのである。

ただし海水と汽水など、その性質の一部が共通していながら呼び名が違う例からも推察されるように、内在存在者としての人間と、超越存在者としての神における認識的分断は、両者の性質全般にわたる断絶を必要とするものではない。

聖書において、人間と神が人格的に交わりうる存在とされていることは、両者が知性と道徳性において共通性をもつと考えられていることを示すものだが、そのことは、人間にとって神が認識不可能であることと矛盾しない。

物自体の因果性を批判するシュルツェらはこの点を見誤っており、因果性の有り無しということが現象と物自体の区別に必ず含まれることを自明と考え、カントが述べる「触発する物自体」を概念矛盾とみる。そこには、物自体に現象の性質が一切あってはならないという見方が働いているわけだが、この見方には「~ではない」という論理学の否定子についての理解不足がある。

それは、古典論理において「ド・モルガンの法則」として示されている否定のあり方と、Chapter 2でみた直観主義論理の排中律の非公理性についての理解不足であって、これらを学ばなければ否定の意味は正しく捉えられないということである。

古典論理の観点からいえば、Section 4-5 に既述の通り、現象の論理的否定は「または物自体」を含むのであって、現象と一切の関係を持たない「かつ物自体」だけがそれであるのではない。この、現象と物自体が全面的に正反対の性質を持たなければならないとする理解、言いかえれば物自体を「かつ物自体」としてのみ考えてきたことが、実在論的意味における「カント的分断」の正体なのである。

上に述べてきたことは『純粋理性批判』の外に出た批判であるとみられるかもしれない。というのも、二つの「または物自体」のうちの一つである「感覚的ではないが因果的である『または物自体』は、Section 6 で「現象と物自体の間隙」の一つとして(3)に挙げた、「あらゆる対象一般を現象的存在と可想的存在とに区別する根拠について」において、カントが「避けがたい謬見」B305)として退けた「感性的直観には可能ではないが悟性にのみ可能であるような表象」に相当するからである。

これを勘案すると、「または物自体」は『純粋理性批判』の中に場所を持てない概念ということになるが、しかしそれは『純粋理性批判』に対する既定の見方、すなわち感性的直観と悟性による現象形成が述べられる「超越論的分析論」までは物自体の余地がないという見方を覆すものではなく、まさにその見方に沿うものである。「避けがたい謬見」によって「または物自体」が許されないのは悟性を糧とする「超越論的分析論」までのことであり、そこでは物自体が「限界概念」であるとされているのと同じく、「または物自体」も悟性の範囲内における現象の構成過程においては述べえない概念であるということである。

カントが拒否する「避けがたい謬見」とは、概念形成能力である悟性が超越に触れることの禁止を述べたものであって、推論能力である理性にこの禁止はない。物自体についてカントは「知ることはできないが考えることはできる」すなわち「悟性概念として知ることはできないが理性推論によって考えることはできる」と述べている。カントが区別するこの悟性と理性の範囲と、物自体が理性推論によって現象の仮定の位置に置かれた概念であることを考え合わせれば、「避けがたい謬見」で拒否されているある種の超越的な表象、および、当論考の「または物自体」が『純粋理性批判』の中で問題を起こす概念ではないことは明らかである。

それゆえ、現象概念の否定から導かれるこの「または物自体」を物自体の一種とすることは、『純粋理性批判』の解釈として十分に成立する。

一見、矛盾と見える事柄というものはよく検討されなければならない。シュルツェ、ヤコービらによる物自体の因果性についての批判も同様であって、確かに、カントは「現象の原因としての物自体」という考えと共に、「感覚的ではないが因果的であるような概念を許容しない」という考えの両方を述べていること、加えて「現象は物自体ではない」などの言明により、『純粋理性批判』の中でのこれらの整合性を分かり難いものにしていることは否定できない。

しかし『純粋理性批判』への批判者、およびカント後のドイツ観念論者たちが、これを『純粋理性批判』における決定的な矛盾と考えたのは、彼らが、現象と物自体を反対概念としてのみ捉える古典論理の排中律理解の中にいたためであり、その結果「現象の原因としての物自体」というカントの基本的考えを受容できなかったためである。

もし、彼らの批判が『純粋理性批判』における矛盾と見える概念の存在という、理論上の問題にだけ正確に向けられたものであったならば、カントの「現象は物自体の現れ」という考えをひとまず受け入れた上で、「避けがたい謬見」や「現象は物自体ではない」などとの整合性を検討することも可能だったはずである。

というのも、一般に、矛盾の解消のためには、矛盾であることを指摘してそれを引き起こす概念を否定することが唯一の方法なのではなく、肯定すべきものの優先順位や矛盾言明に対する解釈の変更によってもそれは可能だからである。実際、これらの批判においては、なぜ「物自体の非因果性」ということが絶対的に優先され、「現象は物自体の現れ」という考えが第二の位置に置かれてこちらが批判されるべきなのかについての妥当性は示されていない。

逆に「現象は物自体の現れ」や「現象の原因としての物自体」の方を第一に置くべき根拠もないが、少なくとも、その両方が検討されなければならなかったということはいえるだろう。しかし彼らの批判にこういった柔軟性は認められず、それはいわゆる「鬼の首を取った」とするような『純粋理性批判』に対する一辺倒な批判だったのである。

それゆえ、これらの人々が物自体の因果性を否定したその真の要因は、『純粋理性批判』が抱える矛盾のゆえであるというよりは、やはり彼らが古典論理の「真/偽」二値による世界観を当然のこととしていたことによるものと判断される。問題はカントにではなく、評価する人々の判断に染み付いている二元論バイアスにあるのである。

Section 4-2では、「現象と物自体の分離」が一種の不滅の思想であって、『純粋理性批判』あるいは「認識論的主観主義」を否定することが、この思想の否定につながらないことをみた。

一方、前節、Section11では、『純粋理性批判』における「現象」および「物自体」それぞれの出自をたどることで、これらが相互規定の関係にないことを確認したが、それはSection 4-2の考察とは逆に、『純粋理性批判』あるいは「認識論的主観主義」を肯定しても「現象と物自体の分離」という思想が出てこないことを意味している。

『純粋理性批判』を否定しても「現象と物自体の分離」は生き残り、『純粋理性批判』を肯定しても「現象と物自体の分離」は本当は出てこないという、この事情を踏まえると、『純粋理性批判』の超越論思想と、「現象と物自体の分離」の二元思想は、起源を異にする別々の思想であるように見えてくる。

すなわち、通俗的に意識されてきた「この世とあの世」、近代学問での「自然学と形而上学」などの分離が与える二分法的な世界理解が人々の間に元々広く存在しており、そこへ登場した『純粋理性批判』は、人々のそのイデオロギー化した二元世界観に、ただ学問的であるような根拠を装わせた哲学として受け取られていったのであるように見えてくるのである。

おそらくこういった事情も働いて、相対論的時間論や量子論的因果論など、様々な現代的視点から『純粋理性批判』を否定し、「内在と超越」という二分法に立つ世界観に与えられていたその哲学的装いを解くことに成功したとしても、「現象と物自体の分離」という考えは今なお生き続けるのである。

それゆえ厳密にいえば、「現象と物自体の分離」の分断的二元性は、『純粋理性批判』をいくら研究しても解除できない。『純粋理性批判』にとどまる中でせいぜい可能であるのは、前節に示したように、『純粋理性批判』の「現象」および「物自体」からは「現象と物自体の分離」は出てこないことを示し、その理解に基づいて、「現象は物自体ではない」というカント言明に対する解釈を、全否定から部分否定へと変えるということだけなのである。

「現象と物自体の分離」を解決するためには、『純粋理性批判』ではなく、二分法による世界観そのものを相手とし、それを現代論理学の知見に基づいて考察することが必要である。このことは、直観主義論理はいうまでもなく、現在、高校数学で教えられている古典論理の「ド・モルガンの法則」すら知られていなかったカントの時代には困難だったのであり、そのため「現象と物自体の分離」思想は『純粋理性批判』を経由して、同様の事情にあったキリスト教神学と結びつき、現代キリスト教への『純粋理性批判』の負の遺産となったのである。

確かに、カント自身もまた『純粋理性批判』において「現象と物自体の分離」として理解されることとなる考えを繰り返し述べている。しかしその一方で、現象の背後には物自体が想定されなければならないという考えを保持し続けていたことも忘れてはならないだろう。

カントの生前、これを矛盾とみる批判に対して、カントは『純粋理性批判』の第二版でバークリ観念論との区別を改めて主張したようには、この点に関する自身の説を再説明するということはしなかった。カントが行ったのは、ただ現象と物自体の関連性の主張を放棄しなかったということだけである。

あるいは『純粋理性批判』において、ほぼ唯一、素朴な信念のように繰り返し述べられる「現象の原因としての物自体」という考えを最後まで保ったところに、この哲学者の賢明さをみることができるのかもしれない。「現象の原因としての物自体」という考えは、カントの時代には論理的に説明し難く、さらに彼の超越論思想をはみ出しているようにさえ見えるものだが、しかしカントは「超越が内在に関与する」とするこの信念を放棄せず、自身の体系の中でいわば放置することでそれを保った。超越と内在の分離と連続の両方を述べているというこのことが、現代的視点からみるとき、彼の哲学をなお有用なものにとどめている要因の一つといえるのかもしれない。

さて、物自体が現象と同様に因果性を持ち、内在に対する触発能力を持つとしても、それ自身はなお認識不可能でありえ、認識可能/認識不能としての現象/物自体の区分は保たれる。そして、このときの「現象と物自体の分離」とは、ただ、「いまだかつて、誰も神をみた者はありません」ヨハネ4.12)という、内在と超越の「キリスト教的分断」を示すものであって、超越が決して内在に関与しえないという「カント的分断」、すなわちキリスト教の啓示を不可能にする「絶望の境界」Chapter 2 - Section 4)を築く分断ではないのである。

以上、「信仰と理性論」の最終課題である「カント的分断」の解決を述べた。いま一つの主要課題であった「史実と信仰」問題におけるブルトマン的課題の解決は、「信仰論」Chapter 3、Chapter 4 が担った。
これらの議論はすべて、キリスト教信仰を前提することによってではなく、カントおよび現代論理学における一般的な理性の地平に立つことによって行われた。それはパッカーが「合理主義者の公理の悪夢」[5] と呼んだ近代キリスト教の困難を払拭するのに十分な議論であると私は考える。