第二部 信仰と理性論 星加弘文

Chapter 1 「信仰と理性論」の方法論 (5) 付録

先日は『数理神学を学ぶ人のために』についての書評原稿をお送りいただきありがとうございました。

書評を拝読し、二、三の考えるところがありましたので、PDFなどで添付送信させていただきたいと考えましたが、直接印刷したものをお届けする方が、先生の手間がいくらかでも省けることと思い直して封書にて送付させていただくことにしました。

特に、回答などを求めたものではありませんので、気楽にお読みいただければと思います。

私の『開かれたキリスト教のための信仰と理性論』は武藤哲夫牧師(御徒町キリスト教会)を通じて80人ほどの先生方に配られましたが、その当初から、今回、先生が書評されている『数理神学を学ぶ人のために』のような、キリスト教の真理性を現代的知見を用いて述べた一種の弁証論のように受けとられる向きがあり、私は機会が許される限り、そのような誤解を解きながら論を進めてきました。

この度、先生がわざわざ『数理神学を学ぶ人のために』の書評を送ってくださったことから、あるいは稲垣先生におかれても、私の論がそのように見えているのかもしれないと思われましたので、僭越ながら、私の「信仰と理性論」の主旨について、簡単な説明を書かせていただくことにしました。

先生の書評から知ることができる範囲に限定されてのことですが、『数理神学を学ぶ人のために』に対する私の評価は、稲垣先生とほぼ同じです。

集合論に通じている人がそれを書き、またそういった理解の仕方を容易と感じる人がそれを読めばよいという、いわば、福音を教会学校の幼稚科の教師が幼児向けに語り、幼児がそれを聞くというのと同じことが行われているのであると理解します。

したがってその方法は、類比的な限界を有しながらも適切に述べられている限りは間違ったものではないが、しかし「すでに神の存在を信じていて、なおかつ、著者の提示する独特の数理神学的解釈を受け入れる人だけに有意味なアプローチ」であると、私も先生と同様に考えます。

私の「信仰と理性論」は、現代論理学を援用したものであるために、これと同じような理解のされ方をすることがあるのですが、私の論は、キリスト教を現代風に述べて人々にキリスト教を受け入れやすいものとして提示する、ということを目的とするものではなく、キリスト教にもたらされている二つの困難(内在―超越の分断と、史的イエス認識の不可能)の解決を目的とするものです。

私は『数理神学を学ぶ人のために』のような現代的弁証論を否定はしませんが、しかし、それは危急の課題ではなく、福音の拡大という観点からいえば、せいぜい類比に止まることが最初から明らかであるようなそういった「数理的論証」よりは、稲垣先生が書評に書いておられるような「実践的論証」を重視すべきと私も思います。

私の「信仰と理性論」は、キリストの二性一人格、三位一体などの神学教義を、例えば論理学の知見を用いて述べるといったことには全く関心がなく、そういった事柄は論外としています。

もしお手元に私の「信仰と理性論」があれば開いていただけると一目瞭然なのですが、89頁に「信仰と理性の境界」図が掲げられており、そこに「4.天上的教理の承認」という項目が「理解不能」側に割り当てられています。

これは、三位一体などの天上的教義が理解不能であることを断言したというわけのものではないのですが、少なくとも、私の「信仰と理性論」においては論述対象外であることを示したものです。

私の論では、それらの天上的教義はイエス信仰成立後の受容事であり、問題はイエスへの信仰が成立するのかどうかということであって、私の論の関心はそこに向けられています。

したがって、私にとっては(おそらく稲垣先生におかれてもそのようであったことが窺われますが)『数理神学を学ぶ人のために』は苦痛で退屈なものと思われるのです。

私の信仰と理性論では、イエスへの信仰が成立するための必要条件として、1.復活・十字架の教義的解釈の受容必然性、2.史的イエス認識の可能性、3.奇跡生起の可能性を挙げ、この中の特に2と3の否定的承認が、近代以降、キリスト教信仰を危機に置き、プロテスタント教会を分裂させ、正統信仰を権威主義的にさせている要因とみて、この解決を目ざすことが構想となっています。

当然のこと、私はこの問題は現在に至るまで解決されていないと考えています。

このことから、キリスト教哲学に関する私の問題意識は、一般啓示ではなく特別啓示イエス・キリストに関わる事柄にほぼ限定されています。

このあたりからキリスト教哲学に対する考え方の違いが出始めるように思うのですが、稲垣先生と私の最も著しい違いは、何によってキリスト教哲学を語るべきかという説明概念の設定に関することであると思います。

それに伴って論述形式の違い、すなわち後件肯定論証を主とする(稲垣)か、前件肯定論証を主とする(星加)かという点に違いがあるように思います。

つまり、キリスト教哲学に要請する方法論が、先生と私とでは異なっています。

(以前、稲垣先生からお送りいただいた手紙の中で先生は「私の方法とは少々異なっているようなので」と書いておられました。)

今回の書評にも表されていますが、稲垣先生は、キリスト教哲学の方法論としては、できるだけ包括的であるような世界観が準備されるべきで、例えばそれは書評にあるとおり「複雑系の論理」であり、しかし、それだけではまったく足りず「マザーテレサの生き方にみる論証」といったことをも含みうるような「リアリティー把握」を擁するものとしてのそれであり、先生ご自身は、おそらく以前教えていただいた「創発論的4世界観」という包括的な世界観を理論の根底に想定されているのだと思います。

これに対し、私のキリスト教哲学の方法論の第一の原則は「何が何を述べてもよい」というもので(拙論『『開かれた~』73頁)、述べる側の概念が述べられる側の対象よりも広く包括的なものであってもよいし、逆に、狭く還元的なものであってもよく、その両方を可能と考えています。

先生は、語る側の説明概念は語られる対象よりも広い概念であることが必要と考えておられるように思うのですが、私の理解では、それは先生が述べようとしているキリスト教哲学が「解釈学」であり(私の論の中ではおもに「実在論」と呼んでいます。)、すなわち後件肯定論証による理論であるからなのだと思います。

ドーイウェールト哲学がそうですが、「15の構造的所与」という「論理から信仰まで」を含む存在論の導入によってカント問題などを解いてみせるその方法は(私はドーイウェールトの論は解になっていないと考えますが、その点は置くとして)、前件(説明概念)が後件(議論対象)よりも(イメージ的な言い方ですが)「広い」ことが必要であるといえます。

そうすることにより、後件を前件に還元することなく前件から後件を導出する一つの理論を形成することが可能となり、そのことが古典的な「基礎づけ論証」方式に代わる、新しい方法論として考えられているということなのだと思います。

私たちが住む現実世界とは、「複雑系の論理」や「実践的論証」によってこそ正しく捉えることができるものであって、「リアリティー」とはそのようなものとして理解されなければならず、したがって現実世界を捉えるための方法は、その複雑な「リアリティー」に対応した広さと深さをもった世界観である必要がある、ということであろうと思います。

確かに「基礎づけ論証」については、私はそれを「古典的演繹」と呼んで、私の論においてもこれを採用していません(89頁図)。

この意味での旧来的な前件肯定論証は私も賛同できないと考えています。

しかし、その理由はおそらく先生とは異なっていると思います。

「基礎づけ論証」は前件肯定論証ですが、しかし私は前件肯定論証そのものは否定せず、ただ古典論理と結びついた前件肯定論証(これを「古典的演繹」と呼んでいます)を否定しています。

というのは、前件肯定論証は、基礎づけられた原理から演繹によって全世界を論じうると考える場合に中世神学となり、また、前件肯定論証で論じうるものだけが有意味な世界であると断言するとき二十世紀の論理実証主義となるのですが、これらにおいて不適切であるのは、前件肯定論証そのものではなく、排中律に関する考察を持たないことによる、全世界を演繹的思惟によって述べうる、あるいは述べえたものを全世界とみなす、というその考え方です。

したがって、問題があるのは、有限と無限の区別が顧慮されていない古典論理と結びついた前件肯定論証であり、前件肯定論証そのものは論証方法として有効であると考えるのです。

このことから私はキリスト教哲学において、二つの思惟方法が可能であると考えます(60頁中段)。

一つは、後件肯定論証+古典論理としての「実在論(=解釈学)」であり、もう一つは前件肯定論証+直観主義論理としての「構成主義」です。

直観主義論理は排中律を公理とせず、したがって、そこで述べられることは証明可能か否かということであって、事実かどうかということではなく、それゆえ全世界を述べない有限の論理であるため、キリスト教哲学の形而上学化やカント的「包摂」を原理的に免れると考えられます。

(先生の言われる「単純化」や「還元」は免れませんが、これらは本来的に学問の領域がそれによって定まる学問の本質的機能であり、「単純化」や「還元」によって得られた概念を世界の全体とは見なさない自覚があれば問題のないことと考えます。)

そして、この前件肯定論証としての「構成主義」においては、叙述する側の概念や方法は、叙述される議論対象よりも「狭くて」よい(むしろ狭い方が優れた理論とされる)わけですから、このことと、後件肯定論証の有効性を認めることとを合わせ、「何が何を語ってもよい」つまり「信仰が理性を語ってもよい」し、また「理性が信仰を語ってもよい」ということが導かれています。

正確には信仰と理性論とは、「信仰と理性」の関係を信仰的概念を含む諸概念によってか、または理性的概念のみによって語るというものでありますから、「信仰が理性を語る」のではなく「信仰が信仰と理性を語る」、そして、「理性が信仰を語る」のではなく「理性が信仰と理性を語る」ということなのですが、私は、この両方が原理的に同等であるということをキリスト教哲学の第一の原則としています。

この点で、基礎づけ論証を否定するあまり、前件肯定論証までを拒否しているように見える稲垣先生の考えに私は賛成できないでおります。

基礎づけ論証が否定されるのは、二十世紀になり後件肯定論証というものが特に科学理論を範として認知されるようになったからであると思いますが、後件肯定論証が有効であるということは、前件肯定論証を退ける理由となるものではなく、前件肯定論証の他に、もう一つ新たな論証法が見つかったということであるにすぎません。

実際には、前件肯定、後件肯定のいずれも限られた有効性の中にあると考えます。

(前件肯定論証は原理的に叙述可能範囲が限られ、後件肯定論証は原理的に不確実な論証である等) このように私の信仰と理性論は「何が何を述べてもよい」という大原則の中から始まるのですが、次に、どのような具体的方法が採用されるべきかという段に進み、その第一段階として、方法論の必然性を問題とします(要求します)。

私はそこで「トマスの本願」(75頁)という原則を提出して、それにより「内在的思惟」を基本とする方針を立てます。

「トマスの本願」とは、信仰と理性論の問いが、理性の側から出された問いであって(76頁上中段、春名氏)、信仰を解さない理性が問うているのであるから、信仰を解さない理性にとって理解可能な概念で語ること、すなわち理性的概念のみによって語ることこそが信仰と理性論に課せられているという考え方です。

このことが、信仰と理性の関係を論ずるにあたり、なぜその議論対象(信仰と理性)よりも狭い「理性」だけで語ろうとするのか、すなわち理性主義に立つのかということの理由であり、その「必然性」の論拠です。

続いて、この「内在的思惟」の具体的展開として、「実在論的思惟」と「構成主義的思惟」の二つの論証形式が採用され、これがキリスト教哲学の実際の「可能」を示したものとなります。

しかしながらこれ以上の私の論についての説明は、今回の必要の範囲を越えますので、これまでとさせていただきます。

ただ、次の点を理解いただければと思います。

私が、自身の信仰と理性論において見いだしたことの一つは、近代的理性において解き難かった問題(内在―超越の分断問題)は、近代的理性の枠内においてはどうしても解けないものであったからこそパラドクシカルな難問だったのであって、それを解くためには理性的思惟に関する現代的知見を必要とするということでした。

(実際、私は当初「実在論的思惟」と「構成主義的思惟」の組み合せではなく、より古典的な真理観である「対応説」と「整合説」によって問題を扱おうとしたのでしたが、それでは扱いきれないことに気がついて論を改めたという経緯があります。)

そしてこのことが、私の信仰と理性論に対する先の誤った理解、「あなたの論は現代論理学を理解する人が読めばよいのだ」に対する私の答えでもあります。

つまり、私の論における現代論理学の導入は、キリスト教を現代風に解き明かすためのものというのではなく、私が扱おうとする問題を解決するために必要な最小限の手段を用意したということなのです。

したがって、私が論じた近代的諸問題の重要性を認める人であれば、そこに用意された現代論理学についてのいくつかの初歩的な知識(拙論第5回と6回)は、理解すべき必然があるといえるでしょう。

もし、宗教に関心のある人だけが聖書を読めばよいのだという理屈が正しくないのであれば、私の論に対しても、論理学に興味のある人だけがそれを理解すればよいという見方は正しくないといえると思います。

宗教への関心のあるなしに関わらず、私たちは聖書を多くの人に読んでもらいたいと願うことを正当なことと考えているのですが、同様に、私は私の論を論理学に関心のあるなしに関わらず、多くのキリスト教の先生方に読んでもらたいと願うことには正当性があると考えています。

以上が、私の「信仰と理性論」の方法論の基本的性質です。

しかし、私の論の真の目的は如上の方法論を定めた上で、内在―超越のカント的分断と史的イエス認識のケリュグマ的不可能性という二つの問題を解くことです。

したがって、その部分の中心議論は、狭義のキリスト教哲学の議論ではなく、(論文としてのレベルは別として)前者は完全に哲学(第12回)であり、後者は完全に神学(第13, 14回)となっています。

このことからも、私の信仰と理性論が、キリスト教の哲学的解説や現代風弁証論とは性質の異なるものであることが理解いただけるものと思います。

以下は、上に述べた私の叙述方針「必要最小限の説明概念を準備する」ということと、稲垣先生の「複雑系の論理の採用」あるいはさらに「倫理的実践や社会制度までを含めた世界観を用意する」という考え方の対立に関するものです。

私の理解では、ある問題を解くのに大がかりな前提を導入することは、たとえその問題を解いたとしても、その状態は、問題が解かれる前より必ずしも良いとはいえません。

仮説はできるだけ単純であることが望ましいというオッカムの原則は、理論の審美性を求めるためのものではなく、理論の効率性(少ない前提でより多くの成果を得る)を求める原則であると私は思うのですが(106頁下段)、大がかりな前提を導入した上で問題を扱おうとすることは、理論に要請されるこの原則に反すると思われます。

私は、この事態がドーイウェールト哲学に起きているとみます。

「宗教的根本動因」と「15の構造的所与」という、人間と世界に関するそれぞれの存在論を二つ導入してカント問題を扱うことは、たとえそれによりカント問題が解かれたとしても、むしろそのために必要とされた前提を受け入れることの困難の方がより大きな問題として残るだけであると思われます。

「構造的所与」についてドーイウェールトは「あらゆる哲学にとっての普遍概念として認められるべき」と繰り返し訴えていますが、それは私には途方もないことに思われます。

というのは、ドーイウェールトの「構造的所与」という存在論は大規模な世界理解であるためです。

世界の探求である哲学が、その始めに、ある一定の世界観を共通理解として受け入れておくべきだという主張は、通常は理解できないものです。

そして、これはまだ私の単なる印象以上のものではないので申し上げるべきではないかもしれませんが、そういった懸念が稲垣先生の「公共哲学」という構想の根底にも認められるように思われるのです。

宗教が有する世界観がそうであるように、大がかりな存在論的世界観というものは、一般に反証不能であり、その点もまた問題となるように思われます。

何でも説明できるというのは宗教だけで十分であり、そのような説明に人々はさらに耳を貸すということはないでしょう。

現実世界に対する解説ではなく理解が求められているのであって、キリスト教哲学が宗教と同じような様相をもって登場するとなると、理解を要するものがもう一つ増えただけのことになってしまいます。キリスト教哲学は、キリスト教に関わる「分からなさ」を減少させるものであるべきと思います。

確かに、科学理論においては最低限の仮定導入によって問題が解かれることが望まれるのに対し、解釈学では、むしろ必然性のない仮定設定によって新たな事実を見いだすということがその本領でもあるわけですが、それにしても、より少ない仮定でより多くの事柄を明らかにするという原則は解釈学においても守られるべきと私は考えます。

私は、稲垣先生の解釈学的構想は、後件肯定論証が基礎づけ主義の克服であったということに囚われすぎているのかもしれないとの印象を持ちます。

解釈学などの後件肯定論証は間違いなく有効な思惟方式であると私も考えます。

実際、私は自分の論の中で「実在論的思惟」を実行しています。

しかし、前件肯定論証も出直しを図ることで、直観主義論理との組み合せにおいて有効な思惟方式となりえます。

この両方を有効な思惟として受け入れる柔軟性が必要ではないかと考えます。

そして私にとって決定的に重要であると思われるのは、ドーイウェールトが解決しようとした「カント的包摂」などの問題は、「理性の偽装自律」という「聖書的根本動因から迷い出た自我に導かれた非再生理性」といった宗教的存在論を想定しなくても完全に解けるということです。カント的包摂は、まさに前件肯定論証と古典論理が結びついた結果であるからです。

キリスト教において重要かつ深刻である問題のすべてが大規模な仮定を用いた後件肯定論証でなければ解けないというのではなく、実際に私は「包摂」よりも深刻な問題であるカント認識論による「内在―超越の分断」と、ブルトマンの史的イエス認識不可能という近代的理性がもたらす二つの問題を、彼ら自身が用いている概念の範囲の中で論じ、その解決を導きました。

すなわち論理的誤りはただ論理の誤りとして正されればよいという方針で、それらは解かれました。

それ以外の方針、例えばドーイウェールトのように宗教的要因から問題を説明してみせるということは、必ずしも問題の要点を突くことにはならず、逆に大がかりな仕掛けの中で問題の要を見失うことにつながります。

私は、少なくとも私が取り上げた近代的諸問題については、純粋に論理的扱いのみによって扱うことが可能であり、宗教概念や存在論を必要とせずに解決を見いだせることを示したと考えています。

以上、稲垣先生の解釈学的構想についての、現在の私の理解について述べさせていただきました。

お読みいただいてありがとうございました。