第二部 信仰と理性論 | 星加弘文 |
さて、このようにカント哲学は間違いだらけであって、その根本思想である認識論的主観主義という考えが支持できるものではないとすれば、いったい何が問題だというのだろうか。我々はこのような古い哲学をただ無視すればよいだけのことではないのか。
しかし当章冒頭に示したように、キリスト教においてはカント哲学の影響が現在も強く認められるという事実がある。これは奇妙なことである。キリスト教神学だけが時代に取り残されていて、そのため、なお18世紀の古い考えの影響下にあるということなのだろうか。
確かにそのような面も完全には否定できないが、しかしそれだけでは説明のつかない事態がある。というのは、現代におけるカント哲学の影響は、消え去りつつあるどころか、ますます大きくなっているというのが実際だからである。カントの思想が顕著であるのはキリスト教神学の中だけではない。
我々の認識は、カントが言うように「対象が認識に従う」というのではないとしても、少なくとも主観が対象に影響を及ぼし、その制約の中で我々の経験が成立していることは確かであると考えられる。そうすると、我々の認識は本来の対象というものをけっして認識しないとしたカントの主張も否定できないこととなる。逆説的でもあり当たり前でもあるが、我々の認識能力そのものが認識の制約となっているのである。
稲垣久和氏は、N.R.ハンソンの「観察における理論負荷性」(「信仰と理性論」Chapter 3 - Section 1-3)という考えが、カントの主観主義の亜流であると述べている。
確かに、ハンソンは論理実証主義が「観察命題」において「生の事実」といったものを必要としている点を批判して、どのような観察にも目的が課されるのである以上、その理論的負荷を免れることはできず客観的認識は実現されないとしたのだった。この考えは、カントが、我々の認識が有限である以上、我々は有限性を負った認識しかできないと述べたことの焼き直しといえる。
現代解釈学(Chapter 2 - Easy study 4)の代表的提唱者であるポール・リクールは、「カント主義は解釈学に最も近い哲学的地平を形成していると言える。」
この他、トマス・クーンの科学理論における「パラダイム」という枠組概念、構造主義における「構造」概念、主観客観論議の現代版である「指示理論」における言語観などは、いずれも事実よりも事実の捉え方に考察の重点を置く点で、カントの認識論的主観主義の敷衍(ふえん)とみることができる。
そして当論考の主題においては、現代聖書学における史的イエスに関する議論が、カント認識論の紛れもない応用であることが明らかである。
現代神学では、「史実を問うことはキリスト論のただ中を貫いてでなければなしえない」とか、「史的イエスにはケリュグマの隘路を通ってしか到達できない」といった言い方がなされる。
福音書を読むことで史実のイエスを知ることができるということであれば問題はない。しかしそのようには言い切れないのが聖書の実際である(「信仰論」Chapter 4 - Confirmation 1)。聖書信仰に基づくのでない限り、どんな歴史書にも存在する著者問題などの様々な信頼性の問題が聖書にも認められるためである。
ただしこのような非保守的な聖書観に立った場合でも、間違いなく福音書から知りえることがある。それは、福音書記者がイエスについて抱いていた信念である。彼らがイエスをどのように伝えようとしたのかという彼らの信念と意図については、たとえそれによって史実上のイエスが歪められているということがあったとしても、その歪みにおいてなおのこと、福音書記者たちの真実を知ることになると考えられるのである。
この理由から近代以降の神学は福音書記者たちの信仰に注目する。そして、彼らが宣べ伝えたのはイエスを神的キリストとする「キリスト論」であり「復活ケリュグマ」であるから、こういった解釈学的に確かと認められるテキストから史実上のイエスへと遡ろうとする方法が採用されることになる。これが「キリスト論のただ中を貫いて」とか「ケリュグマの隘路を通って」などと述べられていることの意味である。
ここには歴史に対するカント的な認識枠が明確に表れているといえるだろう。すなわち、イエスの史実 ― 著者 ― 聖書テキスト ― 読者という関係において、読者が認識できるのはせいぜい著者までであるという制約が自覚されているのである。
これは、カントが、我々が知りえるのは「物自体」ではなく、その表出である「現象」であるとしたことの投影である。我々はイエスの史実という著者の彼方の「物自体」を知ることはできず、我々が知りえるのは、ただ「現象」として聖書テキストに表された著者の主観にすぎないということである。
しかしこのことは、我々をF.シェーファーが述べる原理的な「絶望」の中に置くことになる(「信仰と理性論」Chapter 2 - Easy Study 2)。イエスを知ろうと思って、その唯一の記録とされる福音書を開くと、そこからは史実のイエスではなくそれを書いた人物が知られるというのであれば、それは絶望でなくて何であろうか。聖書から知られるのが、神ではなく、聖書記者の考えや意図にすぎないとすれば、我々は神の知識をどこに求めたらよいのだろうか。
つまり、現代にその影響力を持ち、さまざまな形態をとりながら不滅性を保っている『純粋理性批判』の思想とは、学問の基礎づけとしての認識論的主観主義ではなく、認識可能なものと認識不能なものを分ける原理としての認識論的主観主義なのである。
そして問題は、このような意味での認識論的主観主義には、これまで誰も反駁しようとは考えなかったほどの正しさが認められるということである。むしろ先のシェーファーによれば、我々はこの考えがもたらす「絶望」を受容しなければ現代人の名に値しないとさえいわれている。
確かにこの点で、現代の主流派神学は「キリスト論」や「ケリュグマ」を絶望の境界、すなわち認識可能な限界点として受け入れた上で、史的イエス認識の可能性を探っていることで学問としての現代性の徴を帯びているといえる。しかしその試みは成功していない。カント認識論の二元世界が克服されていない以上それは当然のことである。
このカント的「絶望」を知る現代人の思考は二分される。我々は論理的かつ有意味であろうとするゆえに我々の主観が制約として働いた結果としての「現象」認識にとどまることをよしとするか、あえて非論理的・無意味であることによって真実な「物自体」に到達しようとするかのいずれかにならざるをえないこととなった。
二十世紀の論理実証主義は前者の典型であり、前衛芸術やある種の音楽や文化は後者の典型である。キリスト教においては、主流派神学における理性主義的な史的イエス認識の否定が前者であり、同じく主流派神学における実存や神秘など論理を超えたところでの啓示の可能性の主張が後者である。
この結果、彼らにおいては「学問は学問、信仰は信仰」という学問と信仰の分離が常態化するのである。すなわちこれらはシェーファー的な「絶望」の形態なのである。
さて、この認識可能な「現象」と認識不能な「物自体」の分断を帰結させる原理としての「認識論的主観主義」の考えについて、カントは多くの箇所で言及している。
「これまで我々が主張してきたことは次の諸点に帰着する、――我々の一切の直観は、現象を表象する仕方にほかならない、――我々が直観するところの物はそれ自体としては、我々が実際に直観しているところのものと同じものではない」(B59)
「我々に与えられているのは、対象自体ではなくてこの対象の〔現われであるところの〕現象だけである。対象自体がどのようなものであるにせよ、対象の現象をいかに明晰に認識したところで、対象自体は決して我々には知られないであろう。」(B60)
「そこでまたこの先験的分析論から、次のような重要な結果が生じることになる…現象でないものは経験の対象になり得ないから、悟性は感性の限界、つまりそのなかでのみ我々に対象が与えられるところの限界を踏み越えることはできない、ということである。」(B303)
「我々が認識し得るのは、物自体としての対象ではなくて、感性的直観の対象としての物――換言すれば、現象としての物だけである。するとこのことから、およそ理性の可能的な思弁的認識は、すべて経験の対象のみに限られるという結論が当然生じてくる。」(BXXVI)
「現象と物自体の分離」というこの考えは、『純粋理性批判』最大の思想とみなされた。カント哲学の後継者を自認したA.ショーペンハウアーは、「カント最大の功績は現象の物自体からの区別ということである」と述べている。
いくつかのカント入門書には次の記述がみられる。
「そのうちでもっとも重要な前提が、〈物自体〉と〈現象〉との峻別、という発想である。我々の認識が関わるのは、〈物自体〉ではなく、我々の感性と悟性とが成立させる〈現象〉であり、まさにそれゆえに、現象の認識は、客観的妥当性を主張しえるものとなるのである。」
「〈物自体〉と〈現象〉との峻別というアイディアこそ、『純粋理性批判』を成立させるもっとも深い考え方なのである。」
「カントがその認識論的主観主義の思想によって成しとげた最大のことは、われわれの認識は決して物自体を把握し得るものではなく、ただ現象を把握し得るにすぎないということであろう。」
上の最後の引用文に続けて、岩崎は次のように述べる。
「そしてこの考え方は実は認識論的主観主義そのものが否定されてもなおそのまま生き残るのではないであろうか。…すなわち対象についてのわれわれの認識が経験を通さずしては可能でないとするならば、われわれがカントの言う意味での物自体を認識し得ず単に現象のみを認識し得るということは明らかである。…しからば認識論的主観主義の思想を取り除いても、カントの行なった物自体と現象との区別が依然として成り立つことは言うまでもないであろう。」
ここで岩崎は「認識論的主観主義」を、学問の基礎づけとしての意味で使用しているため、「認識論的主観主義そのものが否定されても…物自体と現象との区別が依然として成り立つ」と述べているが、「認識論的主観主義」を「現象と物自体の分離」を含めた意味に解するなら、上の言明は「認識可能なものと認識不能なものを分ける原理としての認識論的主観主義は生き残る」と言いかえて差し支えない。
認識論的主観主義に含まれる「現象と物自体の分離」の思想は、たとえカントの空間論と時間論が特殊相対論により瓦解しているとしても、