第二部 信仰と理性論 星加弘文

Chapter 4 超越的認識の可能性 (7)「現象と物自体の分離」思想の考察

Section 4 『純粋理性批判』の不滅性

4-1 現代思想におけるカント哲学の不支持

『純粋理性批判』は、イギリス経験論がもたらす因果性と観念性に関する困難を克服することを意図した哲学思想であったが、カントの考えは正しかったのだろうか。我々の認識にア・プリオリな能力があり、それが経験を成立させているので経験は我々の認識に従うものになっているという、この「認識論的主観主義」は、現在、支持されているのだろうか。

残念ながらというべきか幸いにというべきか、カントのこの考えは、学問の確実さを基礎づける理論として現在まったく支持されていない。我々の主観が対象の存在、およびその論理的振る舞いを決めているという彼の思想は、真理の対応説と整合説(Chapter 2 - Easy study 1)の両方を保証する真理保護説ということができる。

しかし現代の学問は真理の整合説にのみ依拠する傾向にあり、例えば、数学の真理性については「ア・プリオリな総合判断」の成立によるのではなく、カント以前の人々がすでに理解していたとおり、単なる形式的整合性によるというのが現代的見方である。「数学の真理は、結局のところ、論理と同じく、言語規則による真理であるというべきである」[1]とされる。

数学の定理や科学の法則が我々の住む世界になぜ適合しているのかという、カントが「原則の分析論」において苦慮しつつその説明を行った、真理の対応説的側面についても同様である。

Chapter 2 - Easy study 1の終わりに触れたが、対応説的真理に関する現代の態度はプラグマティックなものであり有用性の観点から考えられている。1+1は加法の定義に基づいて2となるが、現実世界においても一つのものともう一つのものを集めると2個になる。

ここには数学上の取り決めにすぎない算術と現実との一致がみられるわけで、これを不思議に感じたことが哲学を志すきっかけとなったという人もある。[2] だがカントの時代とは異なり、この問題は現在では解かれるべき大問題とはみなされていない。1+1=2となるように加法を定義することが、例えば、火星に着陸船を送り込むために有用である限り、それが真理の体系として使われていくのである。

現実世界での数学の有用性は、数学が外界世界との対応性を持つためというのではなく、したがってカントが考えたような、我々の主観が持つ先天性が数学と世界の成り立ちの基礎に共通に働いていることによるというのでもない。数学の確かさはあくまでも経験から独立した論理的整合性にあり、それゆえ数学と現実世界の対応は保証されていないとする点で、現代の見方はD.ヒュームの考えに近いといえる。

総じて学問の確実さについては、カントが考えた絶対的な確実さではなく、ロックが常識的に考えていたような蓋然的な確実さがあるのみだがそれでよいというのが現代の見解である。アインシュタインは次のように言っている。

「我々の概念、および概念の体系が妥当であるという唯一の理由は、それが我々の経験の集成を表現するのに役立つという点にある。」[3]

カントの認識論的主観主義のうち、上は「悟性」に関わる部分だが、「直観」に関わる部分についていえば、これもまた空間と時間を我々の主観形式とするという考えは、今やまったく支持されないものになっている。これは、カントが、当時のニュートン力学に基づいて、空間と時間を唯一絶対のものとして考えていたことに関係している。

絶対空間、絶対時間という考えは、直観のア・プリオリな形式性という考えによく合い、我々がみな共通の主観能力をもってそれを現出させているということが、空間と時間の普遍性を保証する根拠ともなっていた。

しかし前世紀初めの特殊相対性理論の登場によって、空間と時間は普遍的な物差しという性格を失い、代わって光の速さが絶対的な物差しとなり、空間と時間は相互に変換可能な可変量として扱われる対象となった。量子崩壊の世界では時間の進みが遅くなり、恒星の回りでは宇宙空間が歪むといったことも実際に観測されるようになってきた。

これらの事態を完全に理解するのは難しいことであるとしても、このことからは、空間と時間というものが、カントが想定していたような主観に属する観念ではなく認識の対象とされるものであること、つまり客観側に属する何かであるということは十分に理解されるのである。