第二部 信仰と理性論 | 星加弘文 |
キリスト教に対するカント哲学の影響という問題は、教会にとって重要なことだろうか。伝統的なプロテスタント教会が、現在、その重要性を感じることは難しいというのが実際である。特に保守派の教会は、歴史的にカント哲学との関わりを持たなかったといってよい状況にあるためなおのことである。目の前にある日常の問題は誰の目にも明らかだが、歴史に由来する問題というのは、教会に限らず社会一般においても見えにくいものである。
カント哲学に関わるどのような問題が教会に認められるだろうか。「信仰論」Chapter 2 - Episodeなどで記したが、私は保守教会が、聖書や聖霊の「権威」への依存を強めている点にそれを認める。しかしそのことが具体的にどんな弊害を生じさせているかを示すのは難しい。
私が唯一挙げられるとすれば、同期に神学を学んだ学生の一人が、神学校卒業後まもなくしてカトリックへ改宗した事実があるということであるかもしれない。当人はその理由について「福音派教会の権威主義的な雰囲気になじめない」と語っていた。これをカント哲学の影響と結びつけるのは性急なことであるとしても、保守派教会が「権威」を強調する傾向にあったことについては私も同様に感じる。
「信仰論」Chapter 1 - Essay 4で「史的イエス」に関するブルースの議論、「信仰と理性論」Chapter 1 - Section 4 で「聖書信仰」についてのパッカーの議論に触れた。前者はキリスト教正統主義における事実依拠性を掲げて、カント哲学に影響を受けたキリスト教はキリスト教ではないと宣言することで、キリスト教倫理に対するカント倫理学的な異議を無効とし、後者はキリスト教の最終奥義である神秘主義を持ち出すことで、信仰を理解しようとする試みから中座するものである。
当論考はこういったブルースやパッカーのやり方を退けている。それはそこで行われている議論の不誠実さを指摘することで、保守神学が正統性という権威や、神秘主義という反論しようのない主張に依存し、問題の所在を正確に追求せずにいることを明るみに出すためである。以前に発表した論考の「序」に私は次のように書いた。
「これらはいずれも議論として不正確である。しかし、どうしてこのようなことになってしまうのでしょうか。あるいは、そういった厳密さを欠いた議論に依存しなければならないほど、我々の信仰は脅かされているのでしょうか。その通りなのだと私は思います。」(『開かれたキリスト教のための信仰と理性論』4頁)
保守派教会は主流派教会とは違ってカント哲学の影響を直接には受けていないとされる(「信仰と理性論」Chapter 1 - Break)。しかし保守派教会は、主流派教会がカント哲学などの近代理性主義との格闘において、正統主義から逸れざるをえなくなっていくのを目の当たりにしたために、カント、ブルトマンらの思想的要請に晒されることを避けて権威の殻の中に閉じこもってきたことも確かである。この傾向を私は上の議論の中に認めるのである。
聖書や聖霊の権威をまず掲げ、理性的理解を超えたものとしてそれらを受け入れることが信仰であるという信仰のあり方を、保守的な教会はともかくも奨励してきた。それはパウロ的な「信仰の愚かさ」(Ⅰコリント1.21、4.10)を拠りどころとするものとされたが、ほんとうのところは、使徒行伝17章のパウロのような異教的知性に立ち向かう勇気ではなくそれへの恐れであったと私は思う。
主流派教会が、超越的認識に関するカント哲学の見解を承認した上で、啓示なし奇跡なし史的イエスなしに可能であるような信仰のあり方を追求したのに対し、保守派教会は、カント哲学がもたらすそれらの帰結を、信じる意志において乗り越えようとしてきたともいえる。
しかし、理論的である見解を意志によって否定するというのは、明らかに理に適わないことであり、そのようなことが信仰に歪みをもたらさずにすむはずはない。
この意味で、保守派教会の信仰はカント哲学からの影響を受けている、つまりカントおよび主流派教会への反動的な影響を自らに招いており、その結果、現在の保守派教会は伝統的な正統主義よりも権威主義的であるような信仰に傾いているのである。このことが保守派教会といえどもカント哲学に対する解決を得なければならないことの理由である。
以上は、保守派教会の中にカントの影響を見ようとするもので、これについては異なる見方の余地があるかもしれない。しかし目を転じてプロテスタント教会全体を見るならば、その影響が極めて深刻な形でもたらされていることは否定のしようがない。
プロテスタント教会は、現在、保守派と主流派の二つに分裂している。この分裂こそカントに起因するものである。
J.I.パッカーはこの分裂が、例えば、プロテスタント内の改革派とアルミニウス派におけるような教理解釈の相違によるものではなく、権威の承認に関わるものであることから、カトリックとプロテスタントの分裂に匹敵する対立であると述べている。
現代の主流派神学が、十七世紀古プロテスタンティズムの中から、カント哲学との関わりの中でどのように形成されていったのかということは、プロテスタント神学における非常に重要な検証課題と思われるが、ここでは「近代神学の父」としてその始まりに位置するF.シュライエルマッハー、および彼に続く主だった神学者たち(リッチュル、トレルチ、バルト、ブンルンナー、ブルトマン等)とカント哲学との関わりを示す言及を拾い上げてみたいと思う。
各神学とカント哲学の関わりの詳細を追うことはできないが、現代の主流派神学へと連なる19世紀自由主義神学と20世紀新正統主義神学が、カント哲学の影響のもとに成立してきたことについては十分に確認できることと思う。
まず、自由主義神学に分類される宗教史学派のE.トレルチが、カント哲学とキリスト教の関係について極めて楽観的に述べている講義録がある。
「キリスト教的宗教性は、観念論的な形而上学とは相性が良い。…我々は、次のようにすら言わなければならない。信仰は自由の哲学の体系と並んでのみ主張されることができる、と。…我々の最高の思想的形成物は、観念論的な方向性のうちにあるからである。目的論的・観念論的な〔思想の〕流れは、ヨーロッパの最も偉大な思想家たち、とりわけカントならびに彼の学派から枝分かれした後継者たちが、自らのうちに取り入れたものである。」
小田垣雅也は、シュライエルマッハーとカントの関係を次のように述べる。
「イギリスの代表的ロマン主義的神学者であるシュライエルマッハーとコウルリッジは、ともに自分がカントから強い影響を受けていることを認めているが、それはカントのこの部分(ロマン主義的要素)からであったであろう。」
新正統主義の代表的神学者であるE.ブルンナーは、自由主義神学へのカントの影響について次のように述べている。
「カントの理論理性と実践理性に関する…カント的な一面的使用――ほとんど分割と言いたいのだが――は、リッチュルが神学界に流行させたものである。」
またブルンナーは、「弁証法神学」あるいは「危機神学」と呼ばれる自身の神学について、次のように言っている。
「純粋理性批判を書いた人は、すべての形而上学が決定的に片づいたこと、したがって弁証法の策略を用いても形而上学が再び始められないことを知っている。」
「この危機のうちに――慎重にこの危機からと、あえていいたい――信仰が生まれて来る。…真理はいまや、啓示の言葉となって、全くちがったやり方で時間の中に入るのである。」
以下の言明からは、内在世界と超越世界の分離というカントの二元世界観が、新正統主義神学の前提となっていることを知らされる。
「神的な与件や可視物や対象物を知っているというのでは決してない。人間があの国に侵入したり、あの国がこの世界に進出したりすることは決してない。」(カール・バルト)
「今日、人々に神話的世界像が真なりと是認することを求め得るであろうか。それは無意味であり、不可能である。…科学と技術が著しく発展した結果、誰も新約聖書的世界像を真剣に固持しうるものはなく、また固持していないのである。」(R.ブルトマン)
保守神学は、自由主義神学および新正統主義神学がカント哲学と結びついていることについては異論の余地なしという認識に立っている。春名純人は次のように解説している。
「シュライエルマッハーは青年時代に敬虔主義とロマン主義の影響を受け、形而上学的神学や、特に教養ある人々に広がっていた宗教蔑視の傾向に対抗して生き生きとした宗教信仰を回復しようと努力した、といわれている。この目的を遂行するために、彼は、自然と自由のカント的二元論に立ち帰り、さらにその上、宗教をカントの道徳神学から切り離し、最後に、宗教信仰を宗教的自己意識としての生き生きとした宗教体験に基づけようと努力した。」
パッカーの見解は以下の通りである。
「この運動の最も偉大な哲学者カントは、超感覚の秩序に関する事実認識の可能性そのものを否定した。そのことは歴史的な啓示の教理の運命を定めたように見えた。…聖書の主張は、理性の確証なしには受け取ってはいけないということになる。現代のプロテスタント主義は、この合理主義者の公理の悪夢を十分に払いのけてはいない。」
「啓示された真理という考えに対するカントの批判を避けるために、彼(シュライエルマッハー)はその概念を全く捨てて、キリスト教は本質的に知識ではなく、キリストを通しての神への依存の感情であると論じた。…神学的な言明をすることは単に自分自身について語る一つの方法であり、神については何も語らず、ただ人が神についてどのように感じたかを語ることだけなのである。…シュライエルマッハーの立場は、啓示という考えをほんとうに余計なものとした。というのは、実際上、彼の立場は、何かが啓示されるということを否定するまでになったからである。…すなわち、啓示はほかのどのようなものでありうるにしても、ただ、神から人間への真理の伝達ではありえないということである。これもまた教会がまだ投げ捨てることに成功していない悪夢なのである。」
「信仰論」Chapter 2 - Episode に引用したC.F.H.ヘンリーの言も傾聴に値するので再録しておく。
「私たちは、カール・バルトやエミール・ブルンナーのような新正統主義の巨人国に集められたようなものである。…しかし、この新しい人々の行き方は、その人々が特別な神的啓示と聖書の証言の独自性を認めているにしても、なお満足できない。そのため我々の心はなお重いのである。…カントとキルケゴールの影響、それにまた加えて、『神と人間の出会い』の定式化に当ってのエブナーとブーバーへの負債、神がご自身とそのみこころについての真理を何もコミュニケートしないというシュライエルマッハーの深刻に非聖書的な考えの恒久化、とりわけ聖書の啓示としての権利の不当な扱い方などは、我々を特に悩ませた新正統主義の諸特徴であった。」
同書からもう一箇所を挙げておく。
「シュライエルマッハーはすでにこのこと(啓示についての保守的見解)を嘆き、更に『理想的な教義学』は直接神について、あるいは世界について、我々の外側の何事についても語ることはない、キリスト者のたましいの中で進行することについて主張するだけにとどまるべきであると主張している。…この学説は神と人についての情報を含む神のメッセージを持つものとしての福音的な信仰の知的側面を完全に破壊する。」
『理性からの逃走』の「あとがき」には、激動の教会分裂時代の一端を窺わせる記述がある。
「一九三六年、グレアム・メイチェン博士が当時のアメリカ長老教会を追われ、プリンストン神学校教授を辞するや、彼(シェーファー)も同時にこの長老教会を捨てた。シェーファーは『今日のキリスト教』誌、一九六一年五月二二日号に『ある者たちは泣く』と題する記事を寄稿して当時を回顧している。教会の分裂という問題はすべてのキリスト者、わけても若き信仰者には、耐えられない矛盾である。しかし、はたしてキリスト者のだれがこの問題を避けて通ることができるであろうか。」
以上に引用したところから、現代の主流派神学の大まかな雰囲気を知ることができるだろう。しかしそれにしても、主流派神学はなぜ「啓示」を忌避するのだろうか。
キリスト教は、神が自然を通じて何らかのメッセージを人間に語っていると教える(一般啓示)。それだけではなく、はるかに重要なこととして、神はイエス・キリストと聖書を通じて、直接、ことばによって人間に語っていると教えている(特別啓示)。
しかし引用文に示されている彼らの問題意識、そして、保守派の神学者が彼らを憂うる理由は、この「伝統的な啓示概念の否定」ということである。
確かに私は、初めてキリスト教に接して「啓示」という概念を知ったとき、「なんと幼稚な考え方をする宗教なのか」と驚いたことを覚えている。それは私がその時すでにカントの著作を読んでいたためであったからなのかもしれない。
また、2007年頃のあるテレビ番組で、各宗教界の著名人が集められる中、仏教界から参加していた宗教者が、「今、キリスト教の先生が述べたものは、全部、我々の宗教にもあります。ただ、神が語った、という教えだけは仏教にはありません。その教えは我々にとっては驚きです」と発言していたことを印象深く記憶している。
しかしながら、主流派神学が啓示概念を否定するのは、それが単に古代的な幼稚な考えであるからとか、キリスト教特有の突出した神認識の主張であるからというのではない。彼らがそれを否定するのは、啓示という概念を不可能とみるカント哲学の考え方を正しいと判断するからなのである。
――キリスト教はもちろん肯定すべきものだが、理性が超越的な事柄を知ることはできないというカントの主張も正しい。それだからキリスト教とカント哲学は融和させられなければならない。――これが主流派神学の基本的な考え方である。
先に引用したブルンナーのことばが、この状況を最もよく示しているだろう。
――カント哲学によって、我々はもう神に関わる事柄を通常の論理で述べることはできなくなった。確かに中世神学は、日常的な論理で神を述べることについて、理性の限界の自覚を欠いていたのであり、この点で、カントが理性の境界を示して形而上学を瓦解させたことは正しかった。このことは我々に信仰の危機を招くのだが、しかしそれは真の信仰が生まれる契機なのだ。奇跡を見たから、神が現れたから信じるというのでは、それは「業の信仰」なのであって、奇跡なく、神認識も不可という状況にあってなお信じるということこそが真実な信仰なのである。――
こうしてカント哲学を承認した上で、どのように信仰を成立させられるかということが、キリスト教神学の問題意識となり、この新しい神学は、宗教改革の流れを汲む十七世紀古プロテスタンティズムに別れを告げることになったのである。
信仰を実現する仕方という点で、自由主義神学、新正統主義神学、現代神学は、それぞれ傾向を異にするが、共通するのは、いずれも、教会が伝統的に理解してきた意味での「啓示」は不可能であるという理解のもとにキリスト教を捉え直し、信仰や啓示概念を正統的理解から変更することで、カント哲学との両立を図るという構図である。
自由主義神学においては、神と人間の関わりは、我々の内的な宗教体験や感情において行われるとされた。シュライエルマッハーにとって、信仰を、崇高さを求める宗教感情として理解することは、古く固化した教義のおしつけからは得られない、活力ある信仰を生みだすものと思われたのである。またこれによりキリスト教信仰は文字による伝達という理性的営みではなくなり、超越的事象の理性認識不可というカント哲学の主張と折り合いがつくことになった。
続く新正統主義神学は、自由主義神学が信仰や啓示の意味を変えてカントとの折り合いを図ろうとすることが、伝統的キリスト教からの離反であるとの認識から、より聖書的な立場に戻ることを目的とした。信仰は道徳や感情などの内的傾向としてではなく、神との「出会い」によって可能となるとされた。
その「出会い」はブルトマンでは使徒ケリュグマへの実存的決断、M.ブーバーでは我―汝という神との人格関係、K.バルトでは聖霊による神のことばの受容とされ、神はそういった特別な場にご自身を啓示されるということになった。これらはすべて非理性的な神認識であるために、やはりカント哲学との折り合いが保たれ、特殊な形とはいえ「啓示」も認められることになったのである。
理性的な内在世界と非理性的な超越世界というカント的二元世界を前提した上で、自由主義神学は内在的感情に信仰の拠り所を求め、新正統主義神学は超越的神秘にそれを求めたといえる。このとき自由主義では超越世界へのあきらめがあり、新正統主義では超越世界の内在世界からの隔絶がある。いずれにしても、こういったカント哲学への対処の仕方のうちに、近代キリスト教神学がカント認識論の動かぬ枠組の中で存続し続けようとしてきたことが示されているのである。
さて、ここで起こる疑問は次のようなものだろう。
――近代神学におけるカントの影響、そして近代神学以降、彼らが何としてでもカント哲学の承認の上にキリスト教を保持しようとしてきたことはわかった。また、それが啓示概念の不可能性に関わることであり、内在と超越の分離というカント認識論の基本思想を承認するゆえであることもとりあえず理解した。しかし、そのカントの二元世界観というのはそれほど強固なものであるのか。内在と超越の分離という考えは、キリスト教の伝統的概念を変容させてまで肯定しなければならないほど正しい思想なのか。近代神学はなぜそれほどまでにカント寄りの見解を採用したのか。そのところが分からない。超越である神について我々が理性的に語ること、逆に、超越である神が我々に意味あることばで語ったとすることは、それほどおかしな考えなのか。――
この疑問は的確である。そしてこれによって、我々はいよいよ、この問題の核心に近づいてきたといえる。
現在のプロテスタント教会が置かれている事態の深刻さを理解するためには、主流派神学が当然のこととして採用しているカントの二元世界観について、「確かに否定し難い考えである」と思える程度に我々自身がそれを理解する必要がある。カントの主張はもっともであって、見ようによっては聖書もそれを支持しているのではないかという、そのようなものとしてカント哲学を理解しなければこの問題の深刻さを理解することはできないだろう。以下、この点を追求してみよう。