第二部 信仰と理性論 | 星加弘文 |
『純粋理性批判』は800頁を超える大著であるため、これを冒頭から解説していくというのは効率の良いことではない。聖書も同様だが、『純粋理性批判』も、目次に従って一節ずつ読みながら全体を把握するということが困難な書物である。
そのような書物の場合、特定の解釈に基づいた読み方をするのが理解の早道となる。後段で、私の解釈を含む整合的な読み方を提示したいが、まずは一般的な視点をとって、カントが『純粋理性批判』で何を解決しようとし、その結果何を帰結させたかについて、哲学史からその概要を把握することにしたい。
以下のかなり借物的な記述は一般的な哲学史およびカント思想史
ルネッサンスと宗教改革を経て、学問芸術の意識は、神から人間へ、権威から自由へと移行していったが、自然哲学(科学)もまたアリストテレスの権威を離れ、自然の目的や意図といった観点からの自由を得て、自然そのものの仕組みが探求されるようになった。
十六世紀前半にコペルニクスが唱えていた地動説は、旧来のキリスト教的・アリストテレス的宇宙観からの解放を示すものだったが、地動説が唱えられた当時は、その太陽中心説がもたらす諸帰結、例えば、恒星の年周視差や金星の満ち欠けなどを検証できる時代状況ではなかった。
また、コペルニクス説に従うと、高所からの落下物は、それが空中にある間の地球の自転によって着落地点がずれることになるはずだが実際にはそうならない、といったことが説明できないままになっていた。
1572年、天文学者ティコ・ブラーエはカシオペヤ座に木星ほどの明るさ(マイナス2等級程)の「新星」が現れたのを発見し、これが彗星などとは違って恒星間での位置を変えないことから月よりも遠方の天体であると考えた。このことは、月までの距離を境にして、世界を「天上界」と「地上界」に分け、「天上界」に変化は存在しないとしていたアリストテレスの宇宙観を覆すものとして知られることになった。
また彼は、当時知られていた5個の惑星の天球上での見かけの位置を正確に観測し、その記録を残したが、彼の助手であったケプラーは、その膨大なデータから、惑星運動に関する三法則を発見することとなった。これが1609年のことである。
ケプラーと交流のあったガリレオは太陽中心説を支持し、手製の望遠鏡で(口径26㎜×20倍とのことなので現在の高倍率な単眼鏡に相当するが、ガリレオ式のため視野が狭く月の全体を収めることも困難であったとみられる)金星の満ち欠けを観測してコペルニクスの説を裏付けた。
また、木星が4個の月を持つことを発見し、その公転がケプラーの法則に従うことも確認された。また、ガリレオは落体の実験によって落下の加速度の法則を得ていたことから、水平に発射された物体はもし落下さえしなければ、いつまでも一定速度で運動し続けると考えていた。
ニュートンが後にこれを「慣性の法則」として述べることになるのだが、このガリレオの考えは、地球自転説に向けられていた先の難点――高所から落とされた物体が地球の自転によって別地点に落ちるはず――を解決するものでもあった。
このように、16世紀のコペルニクスにおいてはなお発想的なものにすぎなかった宇宙観は、17世紀初めには観測を伴った科学的な検証と数学的な理論化がなされるに至っていたことがわかる。そして17世紀末にはニュートンが登場し(『自然哲学の数学的原理』1687年)、近代科学は早くも頂点を極めることになる。
ケプラー、ガリレオからニュートンに至る17世紀は、天文学だけではなく数学、物理学、医学もまためざましい発展を遂げて、近代科学の世紀と呼ばれることとなった。ちなみに現在の日本では、高校までに受ける教育のうち数学は微積分まで、物理は古典物理にとどまるので、これらについては17世紀の学問を学んでいるということになる。
このような中で、17世紀の哲学は他の学問と見合うレベルへと引き上げられる必要があったが、代数幾何の開発者でもあったデカルトは、数学的な自然科学を範とすることで、哲学を確実な真理探究の学問とすることを目ざした。
彼はガリレオやケプラーの物理法則が自然事象を正確に演繹するのと同様に、哲学においても、第一命題からの論理的演繹によって、精神、神、物体といった、当時「実体」(真に存在するもの)とされていた概念を説明することを試みた。
デカルト哲学の対象である三つの実体概念はスコラ哲学由来のもので、また演繹法は個別学問としてはすでに中世から実行されていたが(Chapter 2 - Easy study 2-1)、体系の第一原理をキリスト教やアリストテレスの権威に求めなかった点に彼の新しさが認められる。「われ思う」という第一原理は、それまで形而上学との区別が常に曖昧であった中世哲学を近代哲学へと進ませたのである。
続くスピノザもユークリッドの幾何学体系を範とする『エチカ』を著す。デカルトは精神の確実さを出発点としたが、スピノザは神のみを実体として認めこれを第一原理とする。
演繹体系では、第一命題に含まれる以上のものを取り出すことが難しいため、精神、神、物体という当時の実体概念の中では、神を初めに設定することが有利であるという事情があっただろう。デカルトの体系では、精神の後に神が論証され、続いて外界(物体)が論証されるのだが、その際には「神は人間を欺きたまわない」という神の誠実さに依拠した推論が行われており、確実さの体裁を欠くものとなっていたのである。
自然科学の興隆がもたらした理性重視の傾向は、中世神学のアリストテレス論理学や、初期キリスト教に対する新プラトン主義にみられる理性の神与説などの伝統的な理性理解と親和性をもつものだった。
しかし哲学における合理的体系には限界も認められるようになった。理性と観念を重視する体系では、精神や神を論じるには都合がよいのだが、物質を論じることに不都合があったためである。
デカルトは、人間が精神と身体をどうして連動させることができるのかということに苦慮し、スピノザは、無限である神からどのようにして有限な事物が生じえるのかという難問を抱えた。一方の自然科学が、事物を直接扱う学問であることが、物質に関する哲学の曖昧さをいっそう浮き立たせたといえるだろう。
「大陸合理論」に分類されるライプニッツも合理的体系を重視し、現代論理学の先駆となる記号演算による「普遍学」を確立しようとするまでに至っていた。しかし彼は、そのような方法だけでは物質や世界についての正しい認識が得られないことを理解しており、真理認識を「推論の真理」と「事実の真理」に分けていた(Chapter 2 - Easy study 1)。
ライプニッツにおける「推論の真理」とは、主語の分析から知られるような分析的真理や、演繹によって明らかになる論理的真理をいい、数学と形而上学、そして彼の「普遍学」がそれに属するとされた。
一方、「事実の真理」は経験に関するものだが、彼においては「真理の対応説」とは若干異なったものが考えられており、存在とその原因の関係を扱うものだった。
あるものが存在するには、それなりの原因(充足理由)がなければならないが、我々人間はそれを経験において初めて知るのだとしても、その存在には必ず「充足理由」が伴うのであり、神の知性においては分析的かつ論理的な必然として存在しているとされる。ある人が旅に出るかどうかというような、明らかに経験からしか知りえないような事柄もまた、もし我々がその人を、神が行うように正しく分析できるなら、経験によらずに知ることができると彼は考えた。
このように、合理的認識の他に経験的認識の必要を認めるライプニッツにおいても、経験的認識は合理的認識の不完全な形態として考えられていたということができ、ここに「大陸合理論」の限界をみることができる。そしてこのとき時代はすでに18世紀を迎えつつあり、哲学はイギリスのロックによって「経験論」という全く新しい立場が開拓されようとしていた。