第二部 信仰と理性論 星加弘文

Chapter 4 超越的認識の可能性 (24)「現象と物自体の分離」思想の考察

Section 10 構成主義的視点による触発理解

「超越論的」であるとは、「現象のみ」を採用する視点、および「現象と物自体」を採用する視点の二つを考えるということであるから、まず「現象のみ」の立場をとる構成主義的視点から触発論を考えてみる。

構成主義的視点では「超越論的感性論」から「超越論的分析論」終わりまでの流れをみる。そこは主観観念から「現象」の構成が企図される部分であり、「現象のみ」を認めるカントの観念論的思惟が支配的である。

「超越論的感性論」では、空間および時間という純粋直観による対象の与えられ方が述べられる。その主な議論は、空間と時間が概念ではなく直観、すなわちある種の感覚であること、および、空間と時間は対象に属するのではなく主観に属することの証明である(Section 5-1)

続く「超越論的分析論 概念の分析論」では、感性を経て与えられた対象とは別に、我々の主観に12個の「悟性カテゴリー」の存することが述べられる。そして「超越論的分析論 原則の分析論」において、この主観由来の「悟性カテゴリー」が、客観由来の対象にどのようにして合致し、有効な思惟となるのかが述べられて、感性と悟性の働きの総合としての「現象」が構成されることになる。

では、この「現象」が構成されていく過程のどこに触発論が含まれているのだろうか。「超越論的感性論」と「超越論的分析論」では、対象が「与えられている」という言い回しが頻出するが、[1] しかし端的にいえば、この両論は、いずれも触発場面が終わった後の議論である。

悟性のカテゴリーを述べる「超越論的分析論」については、その冒頭に「直観によって対象が与えられ、悟性の能力が対象を思惟する」B74)と述べられているので、触発に関しては論外であることが明らかであるとして、「超越論的感性論」は空間論と時間論であり、対象が我々のもとに与えられる際に必ず空間と時間という規定のもとに与えられることを述べるものである。

しかし、触発論の観点からみれば、それはすでに触発が起きた後のことであって、触発場面そのものが述べられているわけではない。

「直観は、対象が我々に与えられる限りにおいてのみ生じる」(B31)

「それだから対象は、感性を介して我々に与えられる」(B31)

「我々が対象から触発される限り、対象が表象能力に与える作用によって生じた結果は感覚である。」(B31)

A.ショーペンハウアーが「直観の対象は与えられている、というしばしば繰り返されるつまらぬ言い回し」と嘆いたように、[2]『純粋理性批判』においては、対象が「与えられる」ことは前理論的な前提であり、「超越論的感性論」もまた、触発を前提とした触発直後からの議論なのである。

すなわち、上では「対象」とのみ述べられているものが、正確には何であるかをカントは述べようとしていない。そして『純粋理性批判』の以後の議論は、触発体の解明ではなく経験の解明、すなわち現象が構成されていくその過程の解明へと向かっていく。

それでは「超越論的感性論」および「超越論的分析論」での現象と物自体の関係はどうなっているのだろうか。

「超越論的感性論」から「超越論的分析論」の流れにおいて、物自体とおぼしき概念は上での導入的部分を除けば、「超越論的分析論」の最後部分で「消極的ヌーメノン」B307)として登場する。その概念は、奇しくも「図式論」を経て「現象」概念が確立された後に、その自余として語られている。

この「消極的な意味での仮想的存在」は、先に触れた「超越論的対象」および「物自体」と同じ実体を指すものだが、その論理的性格はまったく異なっている。

「超越論的対象」は経験的対象の背後に想定される概念、つまり実在論的な論理から要請された概念であり、一方、「物自体」はその論理的概念に実在性を伴わせた実体概念ということができる(次節参照)しかしいずれも実在論的思惟において考えられた概念である点で両者は同じとみることができる。

これに対し、「超越論的分析論」までの観念論的叙述を一通り述べ終えた後に語られる「消極的ヌーメノン」は、これとはまったく異なる出自にある。

「超越論的分析論」は、客観を主観のア・プリオリな性格を伴う「現象」として構成することにより、経験的認識を確実かつ拡張的なものとして成立させることが目的である。その方法論は現代の用語でいえば構成主義であり、伝統的用語でいえば観念論である。

デカルトが外界存在を懐疑にかける一方で、「われ思う」という自己観念の存在を「判明」と判定して以来、この判明なる自己観念を出発点とする前件肯定論理による観念論が、伝統的に哲学の確実な方法とみられてきたのであった。

『純粋理性批判』もこれにならっており、空間、時間という純粋直観と純粋悟性カテゴリーは、すべて形而上学的な演繹により「演繹」される。この観念の演繹による積み上げが、その帰結としての「現象」概念を誤りのないものとすると考えられているのである。

カントは「第二版序文」および「緒言」では実在論的な思惟において論を始めるのだが、それは、論証されるべきものとしての「対象」概念の提出を行う『純粋理性批判』の導入部であって、以後の議論では、仮定を用いない前件肯定論理による叙述が進められ、これが「超越論的分析論」終了までの方法論となっている。

そして、この観念論的方法においては、カントが聖書から引用して語る「あらかじめ投げ入れたものしか取り出すことができない」[3] という言明が持つ宿命が避けられない。

バークリ的にいえば「観念として構成しえたものだけが存在する」ということで、[4] この方法は現代構成主義にも通じている(Chapter 2 - Easy study 5-1)。

したがって純粋直観と悟性カテゴリーを起点とする「超越論的分析論」においては、あらかじめ備えられたその二つの表象から構成される以外のものを述べることはできない。つまり方法論的に現象しか述べえないのである。

それゆえ「物自体」は「限界概念」B311)であり「消極的にしか使用せられ得ない」B311)概念とされる。すなわち「原則の分析論」の終わりに登場する「消極的ヌーメノン」とは、構成主義的方法における叙述不能としての物自体概念であり、それは観念論が自身の論の外に生じさせる概念なのである。

この事態を触発論の観点に戻って捉え直してみると、現象と物自体の関係は次のようである。

すなわち、構成主義的視点においては物自体は論外概念であり、現象は物自体をまったく与り知らないということである。

そしてこのとき現象と物自体には、観念論と実在論が持つのと同様の論述上の分離があり、この理論上の分離が、「現象は物自体ではない」[5] と度々述べられるカントの言明と結びつくことで、内在―超越の分断としての「カント的分断」を生じさせる一因となったと考えられる。

『純粋理性批判』におけるカントの思惟が超越論的であるとき、「現象は物自体ではない」という彼の言明もまた二重の視点から理解することが可能である。その一つがここでみた「超越論的分析論」までの構成主義的な論述において生じる分離であり、それは論述上の分離が現象と物自体の関係に転嫁されたものといえる。