第二部 信仰と理性論 星加弘文

Chapter 4 超越的認識の可能性 (23)「現象と物自体の分離」思想の考察

Section 9 新たな超越論理解による「触発論」の解決

前節までに確認してきた「超越論的」理解が「触発論」をどのように解決するかをみてみよう。これは『純粋理性批判』での現象と物自体の関係を確定するものであり、同時に、当「信仰と理性論」の内在―超越観を述べるもので、懸案の「カント的分断」の解決の提示である。

カントは、認識活動が外部の働きかけによって引き起こされることを述べることから『純粋理性批判』を始めている。

「我々の認識能力が、対象によって喚びさまされて初めてその活動を始めるのでないとしたら、認識能力はいったい何によってはたらき出すのだろうか。」B1)

するとここに、認識活動を喚びさます「対象」とは何なのか、という問いが自ずと設定されることになる。しかしカントは、特にこの問題を取り上げて、後に「触発論」と呼ばれることになる議論を展開しているわけではない。

「触発」に関する言及は「対象が或る仕方で心意識を触発する」B33)「主観は対象によって触発せられる」(B42)、「外感が先験的対象によって触発される」(B358)などと、「対象」[1] あるいは「先験的対象」[2] によるものとして常に素朴に語られるだけである。

この問題は容易と思えるかもしれない。つまり、認識を引き起こすのは、カントが言うとおり目の前の「対象」である、と考えられるからである。

しかしカントは、「対象」として我々が経験しているものは「現象」であると述べている。[3] すなわち「対象」は、そう認識されている時点で、すでに「現象」なのであって、この「現象」こそ、いま成立原因を問われている当のものなのである。

したがって「現象」である「対象」が「認識を喚びさます」と述べるカント自身の言明が、この問題を最初から循環に陥れているといえる。

次に考えられるのは「物自体」である。カントは「現象の根底に存すると思われるところの物自体」(B66)、「物自体の現われであるところの現象」[4] などと、物自体を認識の触発体と解釈しうる言明を行っている。

しかし物自体を現象の原因とみることは、超越である物自体が、内在である我々の主観機能に作用するとすることであり、「関係性」を含む悟性カテゴリーの制約を免れているはずの物自体概念の矛盾であることが古くから指摘されていた。[5]

これに関連して、「物自体なくしてはカント哲学に入りえず、しかし物自体を前提してはカント哲学にとどまることができない」との同時代人F.H.ヤコービの文言もよく知られている。

また岩崎は「物自体が)我々の外にあるということはすでに空間規定を含んでいると言わねばならない。それ故我々の外にある物自体が感性を触発するという考えは自己矛盾を含んでいる」[6] と、「超越論的感性論」の直観規定による矛盾を指摘する。

こういった循環や矛盾を避けるために「二重触発」という考えが提出されることになった。これは触発の場面を、はじめから超越と内在に分けることで、超越から内在への関与という困難をとりあえず回避するものである。

そこでは触発する側も、触発される側も二重化され、「超越的触発においては物自体が自我自体を触発し、経験的触発では現象としての対象が経験的自我を触発する」とされる。[7]

この複雑化した二重触発論に対して、前掲書訳者である赤松常弘は「もはやカント哲学を逸脱していると断定せざるをえないが」と述べる。[8]

確かに、触発論は超越から内在への関わりを解こうとするものであるから、二重触発のように超越的触発、内在的触発という二種類の触発場面を設定することは、いずれ二つの触発場面同士の関わりが問われることが必然であり問題を先送りしただけといえる。

また触発論は、「自我自体」「現象としての対象」といった、触発の問題を解決するために考えられた概念によってではなく、可能な限り『純粋理性批判』における基本概念、すなわち「対象」「現象」「物自体」という三者において解かれねばならないものであるだろう。

触発論は、カントが示す、物自体の現象への関与という考えを保持する意図を持つものであり、物自体を『純粋理性批判』の不整合とみて体系から取り除く、あるいは物自体の不可知性ををカントの失策とするなどの解釈方針に対抗するものである。『純粋理性批判』に踏みとどまり、カントの考えを深く捉えようとする意図において、触発論も二重触発説も支持されるべき面を持っている。

しかしながら私の理解では「二重触発」説はその二重化の仕方を間違えているのである。それは、『純粋理性批判』における超越論性が何であるかを見誤り、「現象」と「物自体」と考えていることに起因している。先に確認した通り、カントの超越論性は「現象」と「現象と物自体」として捉えられなければならず、触発理解もこの視点から理解されなければならないのである。

すなわち、触発は「現象」場面と「物自体」場面としての二重化においてではなく、「現象」が語られる段と「現象と物自体」が語られる段という二重化において捉えられなければならないのである。この二重化において、触発は前者には存在せず後者にのみあるが、触発の問題そのものはその両者に認められる。これを次節から確認する。

ここでは、いま一度カントの記述に戻って、カント自身の触発理解を確認しておこう。既述のとおり、カントは「対象」「超越論的対象」「物自体」が、我々の認識能力を喚びさます触発体であると述べている。

「何か或るもの」によって触発される、と述べている場合もある(B61)ここで、この「何か或るもの」すなわち「対象」「超越論的対象」「物自体」などを、とりあえず「現象」と解することは、そこに「物自体」が含まれているため即矛盾であり、[9] また先にみたように、この理解は循環に陥るので、「何か或るもの」が「現象」ではないことは確かである。

しかし、これが現象ではないということになると、岩崎が指摘するように、空間、時間という純粋直観によって規定された世界の彼方に置かれたものと理解せざるを得ず、したがって「何か或るもの」とは「超越論的対象」あるいは「物自体」と解する以外にはなくなる。

そして、この理解に立った場合の問題は、カントがそれを「超越論的対象」や「物自体」としてだけではなく、むしろ経験的意味をもつ「対象」として多く述べている点をどう解するかということ、そして、シュルツェ(Section 9注[5] 参照)らによって伝統的に指摘されてきた「超越たる物自体が内在に関わる」という、物自体としての概念矛盾をどうみるかということである。

しかし前者については、「現象」概念の構成との関連から理解可能であると思われる。前節までの考察によれば、『純粋理性批判』は、「緒言」などに提示した常識的である経験的対象を「超越論的感性論」と「超越論的分析論」で現象として、そして「超越論的弁証論」で物自体として論証し、これにより、経験的認識が確実性と拡張性および実在性を持つことを確立しようとするものであった。

すなわち、対象概念が経験的概念として単に「対象」と言われている場合には現象と物自体の区別のない概念であり、しかし、いいかえるならそれは、超越論的視点に立つカントとしては、いつでも現象とも物自体とも述べることができる概念であるわけである(BXXVII)

そして触発原因として「対象」という語が使われるのは、「現象」概念が未確立である「超越論的分析論」前半までに集中する[10] のだが、このとき「物自体」が使用されないのは、「超越論的分析論」までの観念論的叙述が、「現象」をあくまでも「主観」と「対象」から構成することを本務としていることによる。「超越論的分析論」の目的は、主観から現象を構成することであって、その限り物自体は不要である。

しかし文脈的要請によって現象の「原因」が語られる場合、本来なら「物自体」が提示されるべきところだが、観念論的方法の叙述方針に照らし、また、おそらくは現象との対概念である物自体が、現象概念成立の前に使用されることを避けるために、すでに提出済みである「対象」概念にその役割が担わせられたと考えられる。

このときの「対象」概念は、「第二版序文」と「超越論的感性論」での経験論的意味合いを強く残しながら、超越論的意味すなわち二重の意味を有するものとして、この場合は「物自体」の意味で使用されていると理解される。

そして「図式論」を経て、経験的対象が「現象」として概念が確立する「超越論的分析論」の終段では、触発原因は、もはや経験的概念から明確に区別されて、「先験的(超越論的)対象」と述べられることになっていくのである。[11]

では、シュルツェらによって物自体触発説の決定的な矛盾として指摘されてきた「超越たる物自体が内在に関わる」という困難についてはどのように理解されるだろうか。これが触発論の根本的問題であるので、ここからは、先に確認してきた当論考の「超越論的」理解に立ち、触発概念を整理してみたい。