第二部 信仰と理性論 | 星加弘文 |
「原則の分析論」は「図式論」と「原則の体系」に分けられる。
「図式論」では、悟性が対象に適用されるときの認識上の仕組みが述べられる。悟性由来のカテゴリーは感性由来の直観表象に適用されことになるが、そのとき、カテゴリーと直観をつなぐ第三の観念表象として「図式」という表象が存在するとされる。
「図式」は、その片端は感性的で、もう片端は概念的という不思議な観念で「時間と結びついたカテゴリー」(B184-185)とされ、これによって「直観のカテゴリーによる包摂」が実現する(B177)。
「原則の体系」の「原則」とは、悟性のカテゴリーが客観対象に適用される際のあり方を規則文にしたもののことをいう(B200)。カントにあっては、自然法則は人間側から自然に付与されたものであるから、そういった自然の諸法則のおおもととなる主観由来の規則が「原則」である。
「図式論」が直観と悟性が結び合う仕組みを説明することに重点を置くものであるのに対し、「原則の体系」は、その結果としてカテゴリーがどのような規則文として述べられるのかを示すものである。
一例をあげると、「関係」カテゴリーの中の「原因性」は「生起するものはすべてその原因をもつ」というア・プリオリな総合命題(B13, 241)を生じさせるカテゴリーだが、この「原因性」カテゴリーと実際の因果的事象を媒介する「図式」表象は「規則に従った(直観の)多様の継起」(B183)であり、その「原則」は「一切の変化は原因と結果とを結合する法則に従って生起する」(B232)ということになる。
「原則の分析論」の叙述はだいたいが難解であり、カントの議論を了解することが困難なこともしばしばだが、ここで原因性(カテゴリー)、多様の継起(図式)、法則に従った生起(原則)といった、似たような表現にしか見えないこれらの記述でカントが意図しているのは、因果性という自然法則とみられるものを「明晰な概念として経験から引き出すことができるのは、まったく我々がかかる純粋表象を予め経験のなかへ入れておいたためであり、従ってまたこれらの表象によって初めて経験を成立せしめたからである」(B241)ことを示すため、その仕組みの詳細を明らかにするということである。
同箇所では「この批判の意図するところは、もっぱらア・プリオリな総合的認識の源泉を究明するにある」(B249)と述べられており、その意図については明白であることから論旨理解としての難しさはない。
しかし、因果性についてのカントの実際の議論の詳細――「経験の類推」の「第二の類推」――に入ると、この主題が『純粋理性批判』の成立動機であったにも関わらず(そのため確かに、この部分は他の並行箇所に比べて異例の長さをもつのだが)論旨が判然とせず、これが主観由来のものであるということについても、この働きによって客観的認識が成立するということについても、残念ながら了解できる論述を見いだすことが困難に思われる。
常識的には客観同士の間に存するとしか思えない因果性という規則を、認識者の側に帰そうとするカントの試みは無謀であり、それゆえその証明は晦渋さを増したといえる。
しかしこれによって、自然的、客観的、科学的とみえる事象の認識においても、我々がまったくの受け身なのではなく、あらかじめ何らかの認識の枠組を使って捉えようとしている点に注意を向けさせたことは、認識論的主観主義の成果として評価できることだろう。