第二部 信仰と理性論 | 星加弘文 |
「超越論的分析論」は認識における悟性の働きを述べるもので、この下に「概念の分析論」と「原則の分析論」が置かれている。
前者は、空間、時間と並ぶ認識の主観的源泉である「純粋悟性概念(カテゴリー)」の導入と、それの直観対象への適合性を述べるもので、後者はカテゴリーが対象に結びつくときの仕組みと仕様について述べるものである。
「概念の分析論」での問題はカテゴリーの網羅性と対象への適合性である。悟性が主観に属することは明らかであるから、空間論でのように、カテゴリーのア・プリオリ性については問題とされない。
カテゴリーは諸概念の原型となるものであり、概念は命題判断の述語として使用されるものであることから――例えば「すべての物体は分割できる」という判断の述語「分割できる」は「可分的」という概念で表現できるので――カテゴリーは判断の諸命題から求めることができるとされる。
判断一般の形式は4綱目3様式として網羅的に表現されるので、
以上は「カテゴリーの形而上学的演繹」と呼ばれるが、この呼び名は『純粋理性批判』の目次には登場しない。
一方、「カテゴリーの超越論的演繹」は、カテゴリーの対象への適合性を述べようとするものである。
この議論は、主観的な認識源泉である悟性のカテゴリーが、客観的な源泉である感性的直観に適用できるのはなぜか、言いかえれば、外界対象が悟性の論理性に従って認識されるのはなぜか、という認識論的主観主義における最も困難な部分を扱う。
続く「原則の分析論」もこれに関連した議論であるため、『純粋理性批判』の内容は、これ以後さらに難解さを増すことになる。
カテゴリーが対象にうまく適用できる理由についてのカントの説明は、適用できたものが認識として成立しているのだ、ということである。
「超越論的感性論」では、認識の成立は「対象が直観を通じて与えられ、それを悟性が思惟する」(B29)と述べられていたのだが、その考えを維持し続けると、直観によって与えられている対象が悟性の思惟対象としては適合しないまま認識に与えられる余地が残ることになり、そうなると経験における学的認識の確実性が保証されないことになる。
したがって「原則の分析論」に至る段階では、認識は直観と悟性が協同し、同時的に働くことではじめて成立すると述べ直されることで、悟性の対象への適合性が確保されることとなる(B143)(Section6 参照)。
このような悟性と感性の連繋を説明するものとして、デカルトの「われ思う」に由来する「純粋統覚」という自己意識が説明され、このあたりが『純粋理性批判』における最も深奥な概念提示となっている。