第一部 信仰論 | 星加弘文 |
前章から続く「史実と信仰」問題の残りを論じます。前章 Summary にあげた論点(1)~(4)のうち
(1) イエスが過去の人物であることがもたらす信仰成立の困難
(2) キリスト教信仰の学問への依存がもたらす信仰成立の困難
の解決が図られます。
イエスの時代から二千年を隔てた現在、イエスの知識を獲得できるかという問題は、その困難さを別とすればなお単純な問題といえます。「史的イエスの探求」という単一の課題としての史的イエス問題は、一般的な歴史問題と同様の「史実」問題であり、キリスト教神学とは無関係でさえありえます。
しかし「史実」問題ではなく「史実と信仰」問題としての史的イエス問題はもう少し複雑な事情にあります。それは「史実」問題の答えとして求められる史的イエスと、「史実と信仰」問題の答えとして獲得されなければならない史的イエスが属する領域が異なっていると考えられるためです。
前者は、私たちに成立するイエスへの信仰が、純粋に史学的な観点から見て正しいといえるものかどうかを問うための史的イエスであり、キリスト教信仰との関係からいえば「信仰真偽問題」の答えとしての史的イエスであるといえます。
対して後者は、現代の私たちが、イエスへの信仰を可能とするような史的イエスを知識として持ち得るのかどうかを問うものであり、ここで求められているのは「信仰成否問題」の答えとしての史的イエスです。
学問分野の視点に立てば、前者が歴史学特有の多様な史的イエスを許容するのに対して、後者では、歴史学の他に神学の課題を負うことにより、キリスト教に対する責務を持つ史的イエスだけが許容されているといえます。原理的に終わりのない史的イエス研究は人が好む「ライフワーク」に似て、たとえ未完であったとしても失敗とみられることはありません。
しかしキリスト教への責務を負った史的イエス研究には、キリスト教正統信仰を成立させるのに必要な知識としての史的イエスの獲得が求められており、それはいわば終わりが課されたミッションです。目的が達成されなければその試みは失敗として捨てられるでしょう。あるいは、現代に信仰を成立させうるような史的イエスの獲得は不可能であるということが、唯一正しい帰結として導かれる可能性もあります。しかしもちろんそれは望まれた帰結ではありません。
前章では、イエスの姿かたちを含め、どれほど詳細なイエスの知識が得られたとしても、それで信仰が成立するわけではないこと、しかし使徒たちはそれを克服して信仰に至っているのであること[論点(3)]、そして現代の私たちにおいても、単にイエスを知ることが信仰を成立させるのではないとしても、イエスの知識は信仰成立のために必須であることを確認しました[論点(4)]。この知識と信仰の関係が「史実と信仰」問題をいっそう複雑にしていたのでしたが、これについては前章で解決を得ています。
では現代において信仰が成立するために必要なイエスの知識とはどのようなものなのでしょうか。そしてそのイエスの知識を私たちは持つことができるのでしょうか。また、そのイエスの知識は、信仰が歴史学に依存する事態を生じさせることで、あるべきキリスト教信仰の性質を損うことはないのでしょうか。そして、イエスのいない現在を生きる私たちに、イエスと共にあった使徒たちと同じ信仰を持つことは可能なのでしょうか。
当章では前章に続き「史実と信仰」問題の分析を深めながら、原理的に解決がほぼ不可能と考えられる「イエスの史実獲得」と「信仰の学問への非依存」という両立し難い問題の解決に取り組みます。最後に、その成果に基づいて、使徒時代と現代におけるそれぞれのキリスト教信仰の成立構造が明らかにされます。そこに提出される「史的イエスR」は、はたして失敗の概念でしょうか。
読解難易度★★★☆☆ 文字数 41,000字