第一部 信仰論 | 星加弘文 |
Consideration 1 信仰二分(1)――信仰によって真と認める事柄と、信仰成立以前に真と認められなければならない事柄
前節に、信仰における事実認定が知的なものではなく意志的なものであることを確認した。イエスを信じることは、客観的証拠の上に築かれた保証のある信頼というのではなく、最終的には我々の側の、彼に対する心証に基づく意志的な承認であり、不確定である事象に対して行われる主観的な断定であるといえる。
しかしながら、信仰における「意志的承認」というこの性質を、「イエスの史実が不確かであっても信仰が成立することの理由」としてよいのかはよく考えられなければならない。信仰が多分に主観的なものであって、確たる証拠のないあいまいな事柄を承認するものであるということから、イエスの史実の不確かさも信仰にとっては妨げにならないとしてよいのだろうか。
信仰をそのように理解することはおそらく正しくない。というのも、信仰についての古典的理解である「意志的承認」とは、おもに「神の存在」や、「神の恵みの元にある世界」ということなど、信じることによって承認することになるものに向けての承認であり、言いかえれば、信仰の後にそれを真と主張することになる事柄についての承認であって、信じる以前の、その信仰を生じさせる契機となる諸事実についての承認ではないと考えられるからである。
そしていうまでもなく、ここで問題としている「イエスの史実」というのはすべて信仰が成立する以前の事柄である。
イエスがキリストであることの最終的な真偽はわからなくても、Chapter 3 - Argument 以下に示した「キリスト教命題」が与える心証から彼をキリストと信じることは「意志的承認」によることであり、それは信仰として逸脱のないあり方である。
「意志的承認」とはまさに、この信仰成立の最終段階の場面がそうであるように、いくらその事実を見ても分からない事柄、すなわちChapter 3 - Review 1で触れた「イエスはキリストであるのか」「彼は神の御子なのか」「十字架の贖いが有効なのか」といった事柄に対して為されるものであり、結果としてそれらは信仰後の我々の主張となるのである。
しかし信仰の発生契機を構成する事柄、すなわち福音書に書かれているイエスの出来事がその通りのものであったと認めることは、そのような意志的承認によることではないと理解されなければならないだろう。
例えば、「あなたがたの父である神は野のゆりをソロモンの神殿以上に装ってくださる」ということは信仰によって承認しうることであるが、イエスがそう教えたか否かということは信仰において承認すべき事柄というのではないだろう。
そういった信仰成立以前の事象は「意志的」にではなく「知的」に承認が求められるとしなければならないはずである。というのもイエスの弟子たちにおいて、それは明らかにそうであった。「野のゆりの装いは神による」という認識は弟子たちが抱いたであろう信仰だが、イエスがそれを教えたことは彼らの体験なのである。
このことは「使徒信条」の告白文にも表れている。Chapter 1 - Essay 1 に、かつて私が「使徒信条に躓いた」ことを書いたが、それはその第三節が平叙文だったせいである。他の節がみな信仰告白の表明文であるのに対して、復活を含むイエスの生涯を記したその節に限っては、その真であることが含意された通常の平叙文であることが奇妙に思えたのであった。
しかし、使徒信条における告白文と平叙文のこの混在は概ね適切なのである。イエスの生涯についての知識は、信仰として告白されるべきもの、つまり意志的承認において承認されるべきものなのではなく、通常の知的意味において認定されるべきものと教会が見ていたことをそれは示している。
平叙文である第三節が「聖霊」や「天にのぼり」など、信仰によって承認される事柄を混在させている点は問題として残るが、イエスの史実全般は告白すべきものではなく、認定すべきものであること、つまり意志的にではなく知的に承認されるべき事柄なのである。
「信仰は知識ではない」と言われるが、それは信仰によって信じられることになる信仰以後の対象に関することであって、信仰を生じさせる要因となる信仰以前の事柄に関しては「信仰は知識である」。
教会で「不確かさを問う真剣さが大事というのではなく、それを乗り越えて信仰がある」と語られることがあるが、それは、信仰が成立する以前に実在し、そのことが信仰の契機となったイエスの出来事と、信仰成立後に信じることとなった天上的な諸事実とを混同した言い方である。
イエスの史実の不確かさは信仰によってではなく知識によって克服されなければならない。天上の事柄は信じることで賄われるものだが、過去の事実は信じることでは賄われない。すなわち、天上の事柄に対する「信仰」という態度はどこからも責めを受けるものではないが、過去の事実認定を「信仰」で済ませることは多くの方面から責めを受けなければならない態度である。それゆえ我々は「史実と信仰」問題に真剣にならざるを得ない。さらに次のことがいえる。
イエスの復活を含め、彼に関わる出来事はすべて信仰の前提となるものであるから、その中に、いくら信じるほかないように見えるできごとがあったとしても、それは信じられるべきものではなく、知られなければならないものであるということである。
「信仰と理性論」Chapter 2 - Section 2 に述べるが、イエスの復活には、イエスの史実が持つ不確かさとは異なる種類の不確かさが含まれている。それはそのような奇跡は起こりえることなのか、実際にそれは起きたことなのかという疑問を引き起こすところの不確かさである。イエスの史実への疑問が、起こった事柄の記録としての福音書に対する疑問であるのに対し、こちらは復活という事象の生起可能性そのものについての疑問である。
そしてこのような種類の不確かさは信じることと結びつきやすい。イエスの史実の不確かさを解決するための「聖書信仰」がそうであるように――これについては前章で述べたのでここでは触れないが――奇跡についてもそれが「信仰される」ということがある。すなわち、教会で「復活を信じる」という言い方がなされることがあるが、これは誤解をもたらす言い方である。
当節での理解が教えるところによれば、復活が起こったことは信仰によって「信じる」のではない。イエスの復活自体は信仰によってではなく、現代哲学で「知識」に数えられるところの
ただしこのことはイエスの復活が、現在、我々の知識となっていることを意味するものではない。未知である事柄、例えば、宇宙に関する事象について考えてみれば明らかだが、理論において述べられた事象が、それによって知識の対象とされているということと、実際の観察によってそれが知識として獲得されているかということは別の事柄である。
イエスの復活はイエスの史実の一部として、したがって、知識の対象として扱われなければならない。イエスの復活はそれを信じるかどうかが問題になる事柄ではなく、たとえ知ることが困難であったとしても、あくまでもその事実があったかなかったかが問われる事柄である。奇跡というものはそれ自体信じるものであるとか、信じることで復活は事実になるとか、そのような、事実と信仰をごちゃまぜにした理解によって復活を考えることは信仰を誤らせる。
さて、「聞いたことのない方をどうして信じることができるでしょう」とパウロが述べている通り、イエスへの信仰はイエスについての知識から生じる。史実にせよ、復活にせよ、それらの不確かさは何らかの知識において賄われなければならないのであり、このところで「信仰の意志的承認」を働かせてはいけないのである。以上に基づき、信仰分析の第一弾として以下を定式化しておきたい
(1) イエスへの信仰は知識から生じ、奇跡と復活を含めイエスに関わるできごとはすべて知識の対象である。