第一部 信仰論 星加弘文

Chapter 4 信仰対象イエスの獲得 (5)過去性の克服

Consideration 2 信仰二分(2)信仰真偽問題と信仰成否問題

当章冒頭(Approach)に述べた信仰区分に目を向けてみたい。前節の通り、キリスト教信仰にはイエスの知識が必要だが、しかしその「必要」には二義が考えられなければならないということであった。

「我々に信仰が成立するために」ともかく必要とされるイエスの知識と、「我々の信仰におけるイエス認識が正しくあるために」必要と考えられるイエスの知識である。

この理解に基づけば、「史実と信仰」問題は、「信仰が成立するために必要なイエス」が関わる「史実と信仰成否」問題と、「成立する信仰が正しいものであるために必要なイエス」が関わる「史実と信仰真偽」問題に区別することが妥当となる。

これまでの「史的イエス探求」の試みはイエスの「史実」問題の解決を図る歴史学であるから、これを「史実と信仰」問題としてみようとする場合は「史実と信仰真偽」問題に区分される。

一方、これまで「史実と信仰」の関係問題として捉えられようとしてきた問題は、「史実と信仰成否」問題として理解されなければならないだろう。イエスについての知識が信仰の成立とどのように関係しているかを明らかにして、現代に信仰が可能であるために必要な史的イエスの条件を示し、そのイエスの知識の獲得が検討されるのである。

史的イエス問題の分類

Chapter 2 - Easy Study 3 に概説したように、18世紀啓蒙主義を契機に楽観的な展望の下に始まった史的イエスの探求は、20世紀に入るとブルトマン学派および現在の「史的イエス第三の探求」に代表される史実的方法と、新正統主義神学に始まる実存的方法に分離していった。

「史的研究は信仰の根拠を取り去ることはできても、信仰を根拠づけることはできない」[1] という理解が示すとおり、歴史学として探求される「史的イエス」は、それが福音書に伝えられたイエスから遠い姿として獲得される場合、信仰成立に寄与しない概念であり信仰の根拠を取り去るものである。

また逆に、福音書に伝えられた通りのイエスが獲得されたとした場合であっても、Chapter 3 - Prologue(前章冒頭)で見た福音書時代の弟子たちと同じく、そのことだけでは信仰は得られないということも確かであって、したがっていずれにせよ歴史主義神学の「史的イエス」という概念は、信仰成立に直接には寄与しないものであることが明らかとなっていったといえる。

すなわち「史的研究は信仰の根拠を取り去ることはできても、信仰を根拠づけることはできない」という言明そのものが、その研究がどうやっても「史実と信仰成否問題」には関われない性質のものであるということを表明しているのである。

一方で、新正統主義神学が「史的イエス」の対抗概念として立てた「信仰のキリスト」というM.ケーラーの概念には、イエスの史実性がないという批判がついて回ることとなった。Chapter 2 - Easy Study 3 に既述した通り、それはもはや史実のイエスではなく信仰者の心の中のキリストである。

同箇所に引用した「歴史事実が知り得ないことは信仰にとって好都合である」という彼らのスローガンは、この神学が「信仰の事実依拠性」という正統キリスト教の根本的な性質を軽視する姿勢を持つことを示している。

常識的に考えて、現代の我々がイエスの歴史事実を知りえないというのは不都合極まりないことに決まっているのであって、それを「好都合」と言ってのけるのはどうかしている。史的イエス獲得の困難が、彼らの思考を「史実と信仰」という複雑な問題から、単なる「信仰の成立」という単純な形の問題へと追いやり、史実に関する不利を有利とする開き直りに陥れたといえる。

歴史主義的な史的イエス探求は「イエスの史実を知りえない」という第1のアポリアを解消しようとして、本来は「史実と信仰成否」問題であった「史実と信仰」問題を「史実と信仰真偽」問題に変容させ、その結果、「信仰が学問に依存する」という第2のアポリアを引き起こした。

実存主義的な神学はこの事態からの脱却を図り、問題を本来の「史実と信仰」問題へ引き戻そうとしたが、「イエスを獲得したとしてもそれだけでは信仰は成立しない」という第3のアポリアに固執するあまり、この神学もまた史実と信仰問題の全体を見失い問題を単純化したのである。

その結果、歴史主義神学が「信仰が成立しない」および「信仰の学問依存」という難点を抱えたのに対し、実存主義神学は「史実と信仰の分離」という難点を抱えた。イエスの史実を獲得しても使徒的信仰は成立せず、その信仰を別立てで用意する必要があったからである。信仰論を持てないイエスの史実探求も、史実のイエスとは別に完結する信仰論も、共にキリスト教信仰の構造を獲得できておらず、キリスト教を見誤っている。

そこで「史実と信仰真偽」問題と「史実と信仰成否」問題という区分は、これら歴史主義神学と実存主義神学の区分に取って代わるものとして、この論考が提示する区分である。

「史実と信仰真偽」問題は、「史実と信仰」問題の枠組の中で歴史主義神学の本質を明確に表現したものである。この問題の主眼は歴史学的に正確であるイエスを獲得することであり、その結果として、我々の信仰に含まれるイエス認識の真偽を問題とすることになる。

「史実と信仰成否」問題は、かつての実存主義神学が不要とみなしたイエスの史実を獲得することを第一の課題としながら、第二の課題として、そこで獲得されるべきイエスと実存主義神学が到達しようとした使徒的信仰の関係を解明しようとするものである。

当論考はこの「史実と信仰成否」問題に取り組むものだが、しかしその第一の課題、イエスの史実獲得については、それを責務とする歴史主義神学が「イエスの史実が信仰を与える」ことを暗黙の了解としていることと、原理的に「信仰の学問依存」に陥らざるを得ない点で、彼らから成果を受けとることができない。

また第二の課題、イエスの史実と使徒的信仰の関係解明については、実存主義神学がイエス不在・不要の「信仰のキリスト」概念を根底に持つことと、信仰の成立を「史的事実との断絶からの飛躍」としてしか理解しえていないこと、その結果「史実と信仰の分離」に陥っている点で、やはり彼らからその成果を受けとることができないのである。

そこでこれら二つの課題は、それぞれに新たな考察を必要とするが、第二の課題については、前章(Chapter 3)で、復活命題による使徒の信仰成立過程を明らかにしたことで果たされた。キリスト教信仰は実存的決断によってではなくキリスト教命題の発見によって成立するのである。当章では第一の課題である「史的イエスの獲得」が扱われる。

ただし当論考は、この第一の課題を既存の「史実と信仰」問題の枠組の中で成果を挙げようとするものではない。上に述べたとおり、「史実と信仰」問題の根本課題は「史実と信仰成否」問題としてのそれである。したがってこの問題を正しく扱うためには、まず、これまで実質的に「史実と信仰真偽」問題として論じられてきた史的イエスという概念について、その根本的な設定変更つまり出直しを要求しなければならないのである。

その要求とは、探求されるべき史的イエス概念を、単なる史実問題の答えとしてのそれではなく、正統信仰を成立させるために必要であるものとしての史的イエスに変更するということである。「史実と信仰」問題とは「史実と信仰成否」問題であるということ、それゆえ求められるべきは「史実と信仰真偽」問題の答えとしての史的イエスではなく、「史実と信仰成否」問題の答えとしての史的イエスでなければならないということである。

では「史実と信仰成否」問題において獲得されるべき史的イエスとはどのようなものだろうか。それは「史実と信仰真偽」問題が獲得しようとしてきた史的イエスと何が違うのか。

「史的イエスの第三の探求」では、福音書の語解析や宗教史的考査、古代社会学モデルの研究などから特定のイエス像が学問的根拠と共に提示される。そこでイエスは左翼革命家、キュニク学派風の賢者、エッセネ派の聖人、農夫であったりするが、何であれその具体的な姿は、伝統的信仰において抱かれてきた神的なイエス像の真偽を問う性質を持つものとなる。

一つ確かなことは、このような「史実と信仰真偽」問題が提出する史的イエスは、それがどのようなものであれ、信仰が成立するために必要とされるイエスよりは「過分」であるだろうということである。

上の史的イエスの具体像はキリスト教信仰に対して否定の方向に働くものであるため、これが信仰にとって「過分」であることを見ることは難しく感じられるところだが、逆に、現代的な史的イエス研究の成果として「福音書のイエス」そのままのような史的イエスが提示された場合を考えてみると、その「過分」性が分かりやすいだろう。

すなわちそのようなイエスは信仰にとって良くも悪くも過分である。

良い意味では、これまでの教会の状況を考える限り、信仰は、そのような学的確証を持たないイエスにおいてすでに成立してきていると考えられるということが指摘できる。学問的な証拠が付いた「福音書のイエス」は、対外的にその信憑性が説明しやすく確かにありがたいけれども、そのような証拠がなくても信仰は成立してきたという現実がある。

また悪い意味では、もしその学的研究が覆されるということがあった場合、まさに信仰の学問依存の弊害が起き、信仰が覆されかねないことになるが、これも「証拠付き」という行き過ぎた史的イエス故のことであるということである。

このように「史実と信仰真偽」問題は、「史実と信仰成否」問題が求める以上のイエスを供給する。それはこの立場が、信仰というものの性質を省みず、つまり求めるべきは「史実と信仰成否」問題が必要とするイエスであるということを顧慮せずに、ただともかく史学的に正確なイエス像を求めることを重要と考えて、しかもそれを資料上の限られたの制約の中から供給しようとしていることによる。この考えの背景には、前章で批判した「史実が信仰を与える」という信仰理解が存在しているのである。

それゆえ逆説的だが次が結論されるだろう。それは「史実と信仰成否」問題が求めるイエスは学問的方法によらずに獲得されるべきということである。信仰を成立させるために必要な史的イエスは、むしろ学問的観点からはある種の不確かな方法とみられる獲得であってよい、いやむしろそうあらねばならないということである。

学問から獲得されたイエスが「信仰の学問依存」を起こすことが原理的なことであって避けることができないのである以上、「史実と信仰成否」問題における史的イエスは、少なくともこれまでに行われてきた学問的方法(それは次節に示すが)によるのではない獲得が考えられなければならないことは、この問題の解決に定められた絶対的条件なのである。

M.J.ボーグは「イエスについての歴史的知識の意義に関する論争の大半は、史実研究が信仰にとって意義あるべきか否かという問いに焦点を絞ってきた」とし、[2]「もし『肯定』するなら、過去や現在の数百万ものキリスト教徒にとって、本物のキリスト教信仰を近づき難いものとしてしまう危険がある」と述べる。

これは、史実研究が信仰成立に影響するものと考えられるべきか否か、すなわち「史実は信仰を与える」という立場を正しいとすべきか否かということが、論争の焦点となってきたことをいうものである。そしてもし、イエスについての学的知識が信仰の成立を左右するものであるとしてこれを「肯定」するならば、史的イエス探求という学問に縁のない大方のキリスト教徒は、あるべき信仰を持つことができないことになるということである。

もっともなことだが、ここには複雑な事情がある。上の弁からは、史的イエス研究に縁のない人々の信仰を有効とするためには、学問的研究は信仰に意義を持たないとして否定すべきということになるが、そうするとこれはまた、そこでボーグが述べているように「仮現説、グノーシス主義、またその他の不健全さへ陥る」のである。

したがって、イエス研究の信仰への意義を肯定する「史実は信仰を与える」ということと、意義を否定する「史実は信仰を与えない」ということは、実は、その両者が矛盾しない形で満たされる必要があるということになる。前者だけの場合はイエス研究による知識を持たない人々の信仰が否定され、後者だけの場合は信仰が歴史を失うからである。

イエス不在を避けるために史実のイエスは獲得されなければならないが、それはこれまでの伝統的信仰のあり方が否定されない形での獲得、すなわち「学問としてイエスを知ったというのではないイエスへの信仰」が否定されない形での獲得、つまり、これまでの史実研究が行ってきた方法とは違う形での獲得でなければならないということである。

この「複雑な事情」は当章で解決をみて、最終節 Review にまとめられるが、矛盾と見える事態を性急に解こうとすると良いことが何もないのが通例なので、この段階では一つずつ順を立てながら事態を扱っていこう。

ボーグの上の「肯定」言明からは、とりあえず、史的イエスの獲得は学問的ではない方法において達成されるのでなければならないことが帰結する。これを定式文にしておくと、

(2) 史的イエスは既存の学問的方法とは異なる方法で獲得されなければならない

ということになる。

繰り返しになるが、ここで、学問的な意味における不確かさということと、心証に基づく断定による不確かさを混同して、先にみた「意志的承認」という信仰の最終段階における主観的方法を、信仰の初期段階で必要となるこの史的イエス獲得の方法とする誤りは避けなければならないことを確認しておく。

史的イエスは一般的な学問的方法ではないとしても、あくまでも意志によってではなく知識として獲得される必要がある。信仰対象としての史的イエスは、信仰成立の前提であるゆえ「意志的承認」によっては獲得できない。前節終わりの(1)を 簡潔に言い直して、ここでの確認としておこう。

(1) 史的イエスは「意志的承認」によってではなく、知識として獲得されなければならない

また、先のボーグの「否定」言明からも帰結するところだが、獲得される史的イエスはキリスト教の基本的性質である「事実依拠性」が保たれている必要がある。「イエス不在の信仰」は、信仰者の主観のうちに終始する信仰であり、それはキリスト教正統信仰ではない。すなわち、

(3) 史的イエスは「信仰のキリスト」としてではなく、事実依拠性を持つものとして獲得されなければならない

ということが三つめの条件である。

以上が「史実と信仰成否」問題が獲得しようとする史的イエスである。既存の学問的方法とは異なる方法で、しかし主観的な信念というのではなく客観的な知識として、事実依拠性が保たれたイエスが獲得されなければならない。

「史実と信仰成否」問題においてもイエスの真偽は重要である。どんなイエスであれ信仰が成立しさえすればよいというのではない。しかし信仰においては、そこに含まれるイエス認識が正しいことの証拠が必要とされるのかというと、そこまでは求められていないのが信仰というものであるだろうということである。イエスを学問的な意味での証拠なしで獲得し、それでもそのイエスの真であることを主張できるようなイエスが求められるのである。[3]

ただし、その史的イエスは「福音書のイエス」そのままを受け取ることによるのではないことを再確認しておく。いうまでもなく、史実と信仰問題とは「福音書のイエス」をそのまま受け取ることに対する疑義から始まっているからである。

とはいえ、「史実と信仰成否」問題が獲得すべき史的イエスは、伝統的信仰において抱かれているイエス像、すなわち「福音書のイエス」に触れるものでなければならないことも確かである。「史実と信仰成否」問題が上の(1)~(3)の条件を満たすものとしてのイエスを獲得したとしても、それがこれまでの歴史における一般的な信仰者が持つイエス概念を説明するものでないならば、そのような史的イエスは教会とは無縁のものだからである。