第一部 信仰論 星加弘文

Chapter 4    信仰対象イエスの獲得 (12)

(注)

■Approach

[1] J.H.チャールズワース『これだけは知っておきたい史的イエス』教文館 2012年 p.66

[2] Chapter 1 補論「信仰の事実依拠性T/R」Chapter 1- Essay 4以下、Chapter 2- Episode 1 を参照

■Confirmation 1

[1] Qについての説明は以下による。J.S.クロッペンボルグ他『Q資料・トマス福音書』日本基督教団出版局 1996年、山田耕太「聖書学の黎明期のイエス研究」『イエス研究史』日本基督教団出版局 1998年

[2] 前掲書『イエス研究史』p.95

[3] ロビンソン『初期キリスト教の思想的軌跡』新教出版社 1975年 pp.63-65

[4] R.ブルトマン『共観福音書伝承史Ⅰ』ブルトマン著作集1 新教出版社 2004年 p.68

[5]『聖書 新改訳』いのちのことば社 1981年(ヨハネ4章の記事はマタイ8章とルカ7章の並行記事に引照として挙げられていない。逆も同様の扱い。)

■Confirmation 2

[1] J.ヒック『宗教の哲学』勁草書房 1997年 p.203

[2] 『聖書事典』日本基督教団出版局 1974年 p.190

[3] トマス・アクィナス『神学大全15』「Ⅱ―2部第一問題第二項」 創文社 1995年 p.10

[4] I.カント『純粋理性批判 下』「先験的方法論」第二章第三節「臆見、知識および信について」岩波文庫 1978年 p.113

[5] B.ラッセル『宗教・性・政治』社会思想研究会出版部 1960年 p.39

[6] トマス・アクィナス『神学大全15』「Ⅱ―2部 第1問題第4項主文」p.17

[7] トマス・アクィナス『神学大全11』「Ⅱ―1部 第57問題第2項」p.151 等

[8] トマスが[信仰は確実知と臆見の中間である] という見方を採用しているかについては、2-2部第1問題第4項「信仰の対象は何らかの見られたものでありうるか」から知られる。そこでは、知性があることがらに承認を与える、つまりそれを真であると認める二つの仕方について述べられている。一つは、ことがらの対象を直知(p.331(四九)第11分冊参照)するか、学知による論証によって認める場合。もう一つは意志的にそのことがらの真であることに同意が与えられる場合である。後者はさらに二つに分けられ、第一のものは疑いと怖れを伴って同意がなされる場合でありこれを臆見といい、第二のものは怖れなしに確証をもってなされる場合でありこれが信仰と呼ばれる。
そこで、[信仰とは信じられていることがらにたいする知性の承認を意味する](2-2部第1問題第4項主文)と言われる。ここで「信じられていることがら」というのが「信仰」と重複しているようでわかりにくいが、その意味は以下にみるとおりである。同項の異論(二)で「それゆえに、信じられているところのものは見られている」とあり、異論解答(三)に「信仰の光は信じられていることがらを見えるものたらしめる。」とある。『神学大全』においては掲げられた異論は反駁されるのが倣いであるから、異論(二)で述べられた「信じられているところのもの」と「見られている」というのはある種の対立関係にあるものとして結論される。また異論解答(三)では「信じられていることがら」が信仰の光によって何らかの変換を受けて「見えるもの」たらしめられるとされているのであり、ここでもこれら二つは対立的意味をもっていることが知られる。また、第5項の異論解答(三)の結語には明瞭に「信じられたことは見られたことではないのである。」と記されている。
この「見られる」については同項主文において「知性もしくは感覚を動かして、自らを認識せしめるところのものが『見られる』といわれる。」と記されている。そこで、この主文の「知性もしくは感覚」という語であるが、1部第12問題第4項主文において「われわれの魂は二つの認識能力を持っている。一つは肉体的な器官の現実態である。いま一つの認識能力として知性があるのであって」(「現実態」はアリストテレスの哲学概念であり、運動とか働きが終わってなにかが実現されている様子をいう神の完全現実態(エンテレケイア)、可能性としての広義のディナミス(可能態)、運動、活動の過程を表わすエネルゲイア、能力・力としての狭義のディナミスなど多様な意味をもつ。ここでの「現実態」はエネルゲイアもしくは狭義のディナミスの意味であり、感覚の活動とか感覚能力のことである。)(アリストテレス『形而上学』第九巻(Θ)第1章および同箇所の岩波文庫訳者注参照)と述べられており、それは「認識能力」のことである。つまり「見られる」は「認識される」の意味である。他方、同項主文の最後に「見られた事物に関しては信仰ということも臆見ということもありえないことは明白である。」とあることから、「見られる」は「認識」から「信仰」と「臆見」を除いたものだということになる。(次図参照)

トマス・アクィナスの認識観

そうすると、「信じられていることがら」は「感覚的あるいは知性的などのような意味においても認識されているのではなく、ただ単に信じられているにすぎないようなことがら」というほどの意味であることがわかる。
具体的にそれは何であるか。2-2部第1問題第4項の同書訳注にトマスの『ローマ人への書翰』が参照されている。それによると、「信仰の成立には二つのことが必要であり、一つは心が信仰へと傾かしめられることでありこれは恩寵の賜物から来る。もう一つは信ずべきことがらが確定することでありそれは聴くことから来る」とされている。これを先の「信仰とは信じられていることがらにたいする知性の承認を意味する」に対応させてみると、「心が傾かしめられる」は「知性の(意志的かつ確信的な)承認」に相当し、「信ずべきことがらが確定する」は「信じられていることがら」に相当するだろう。つまり、「信じられていることがら」とは、信ずべきものとして確定されたところの「信仰箇条」や「教理」のことを指していると考えられる。この信仰箇条の確定については、2-2部第2問第6項に「信ずべきことがらの明示・解明は神的啓示によってなされる。というのも、信ずべきことがらは自然的理性を超え出ているからである。」と述べられている。また、信仰箇条をどのように信じるかについては、先の訳注の引用で「心が信仰へと傾かしめられるのは恩寵による」と記されている通りである。また2-2部第2問題第4項の異論解答(三)においては「人間が神的に注入された信仰の光によって、信仰に属することがらに承認を与える」とあり、信じることの超自然性が述べられている。
以上のことから、『神学大全』における信仰概念は次のように定式化できる。
[信仰とは、根拠に欠け単に信じうるにすぎないと考えられるような信仰箇条に対し、神の特別な働きかけにより、確信ある意志的承認を行うことである。感覚的に見られるものや、論証しうるもの、特別な直感によって知られるものは信仰の対象ではないし、それらの対象に適した認識方法、すなわち感覚することや、論証すること、直感することは信仰の方法ではない。信仰の対象である信仰箇条は啓示によって与えられ、これを恩寵によって受け入れるものとされたとき信仰が成立する。]
ここで導いたこの信仰概念はトマス自身による次の信仰の定義によって確認できるだろう。
[信仰とは、知性をして見えざることがらに承認を与えさせ、かくてそれによってわれわれのうちに永遠の生命が始まるところの精神の習慣である。] (2-2部第4問題第1項)
ここでトマスが『ヘブル人への手紙』11章の信仰の記述に沿わせていることと、信仰が知性による承認であると述べている点が注目される。知性とは学知、直知、信仰、臆見を含む広い概念であるので定義に用いるのは適当ではないが、信仰の知性的側面を強調しているとみることができるだろう。
上は、拙論『キリスト教命題学』「予備的議論(2)キリスト教命題学の方法論 4. トマス・アクィナス『神学大全』にみる「信仰と理性」領域の重なりについて」2008年(prop.133L1302-1388)からの引用

■Consideration 1

[1] R.M.チゾルム『知識の理論』培風館 1976年チゾルムの理論において知識とは、まず自己意識、次いで知覚、次に記憶である。これらのものは「直接的な知識」のうちに数えられ、デカルト的明証性を持つと認められ検証を必要としない、あるいはそれ自身が検証を含むとされる。知識の次の段階は「証言」であり、証言者は記憶という「直接的な知識」に基づくが、証言を聞く者においては「間接的な知識」となる。

■Consideration 2

[1] H.ツァールント『史的イエスの探求』新教出版社 1971年 pp.116-117

[2]「信仰論」Chapter 2 - Easy Study 3 注[12] 参照

[3] 直観主義論理では、古典論理の「真または偽」に変えて、「真または真の可能性のある不明」を肯定/否定のあり方としている。信仰と理性論」Chapter 2 - Easy Study 5-1)「イエスを学問的な意味での証拠なしで獲得し、それでもそのイエスの真であることを主張できるようなイエス」とは、直観主義論理の「真の可能性のある不明」としてのイエスに相当する概念ということもできる。ここには、このようなイエス概念によっても成立可能であるのが信仰というものである、という信仰についての含意がある。

■Consideration 3

[1] 森田雄三郎『現代キリスト教思想叢書2』解説」白水社 1974年

[2] 小林和夫「聖書の歴史的批評的研究について」『論集 聖書』東京聖書学院 1983年 p.302

[3] J.K.Beilby, P.R.Eddy, The Historical Jesus FIVE VIEWS., Society for Promorting Christian Knowledge, 2010 p.11

[4] R.ブルトマン『原始キリスト教のキリスト使信と史的イエスとの関係』『ブルトマン著作集9』新教出版社 1994年 p.128

[5] E.ケーゼマン『新約神学の起源』日本基督教団出版局 1973年 p.121

[6] J.H.チャールズワース『これだけは知っておきたい史的イエス』教文館 2012年 p.29

[7] M.J.ボーグ『イエス・ルネサンス』教文館 1997年 p.374

[8] N.Perrin, Rediscovering the Teaching of Jesus, Harper & Row, 1967, pp.243-244

[9] I.カント『純粋理性批判 上』岩波文庫版 1978年 p.41

[10] 聖書信仰による保守神学の「史的イエスT」も、聖書信仰の根拠が失われるとそれにより崩壊する。もし、聖書信仰は信仰なのでその根拠が失われることはないということであれば、そのような信仰によって保たれるイエスは「信仰のキリスト」と似た、「心の中のキリスト」であると理解せざるをえなくなる。保守的な教会では、信仰は聖霊によって与えられると教えるが、聖霊が与えるのは信仰、つまりイエスをキリストと信じることについての信仰であって、聖霊が信仰対象を我々にもたらすというのではない。「史的イエス」は信仰対象であって、それは何らかの知識として獲得されなければならないのである。

■Consideration 4

[1] E.シュヴァイツァー『イエス・神の譬え』教文館 1997年 p.179

[2]「信仰論」Chapter 2 - Easy Study 3 参照

[3] R.ブルトマン『イエス』未来社 1989年 p.12

[4] R.ブルトマン「原始キリスト教のキリスト使信と史的イエスとの関係」『ブルトマン著作集9』新教出版社 1994年 p.127(引用内カッコは星加による)

[5] 戸田山和久『知識の哲学』産業図書株式会社 2007年 p.24

[6] N.R.ハンソン『知覚と発見(下)』紀伊國屋書店 2000年 pp.56-60

■Review

[1] このことはカトリック教会に対する新たな批判となりうる。カトリック教会の諸教皇は使徒ペテロの後継とされるが、「キリストの代理」とも呼ばれている。実際、カトリック信者達は、使徒がイエスを眼前にしていた福音書時代の状況を擬似的に現在に保ち続けているのである。しかしこれにより、イエスを失った使徒とイエスを持たない現代人が、そのことのゆえに共有することとなった二段階信仰は、彼らには生じえないものになっている。

[2] K.バルト『教会教義学』第4巻和解論の一(第2分冊)新教出版社 1972年 p.243

[3] 前掲書 p.245

[4] 「信仰と理性論」Chapter 2 - Easy study 1 参照