第一部 信仰論 | 星加弘文 |
Consideration 4 史的イエスR0――任意の史的イエスR
「福音書のイエス」に対して「史的イエスR」を設定できる理由は、それが論理学における後件肯定式という推論形式に基づいた概念であることによる。詳しくは「信仰と理性論」のサイトで「真理表」を使って解説するが、ここで必要とされる理解を得るために、とりあえず以下を確認しておきたい。
後件肯定式推論では前件に任意の概念を設定できる。前件に真である概念を設定しても偽である概念を設定しても、後件が肯定される限り、すなわち後件が真である限り式全体は常に真の値を持つ(理屈としての整合性を保つ)。具体的には以下のようである。
ある人Aが「もし雨が降るなら路面は濡れる」という道理の通った一つの「理論」を持っているとする。一方、Bは「もし散水車が来るなら路面は濡れる」というやはり道理のある別の「理論」を持っている。
ある朝、彼らは路面が濡れているのを見た。そこでAは「雨が降った」と考え、Bは「散水車が来た」と考えた。両者の結論は異なるが、それぞれの考え方の道筋そのものに誤りがある訳ではない。しかし常識を働かせれば以下のことは明らかである。
彼らの結論はいずれかが正しい場合もあるし、ときには、日照り続きのため散水車が水を撒いていたところにたまたま雨が降ったということで二人とも正しい場合もありえる。しかしそのどちらかが、あるいはいずれもが誤りである可能性もある。彼らの理論が述べる後半部が「濡れた路面」という事実によって肯定されたとしても、そこで想定されていた「雨」や「散水車」という前半部についての真偽は定まらないのである。
ただしこのとき次のことが見て取られなければならない。それは「雨」や「散水車」という理論前件の真偽が定まらないのは、その理論自体に矛盾や飛躍があるからなのではないということである。むしろそれぞれの考え方は整合的であって、いずれの理論も、事象を正しく捉える見方である可能性を持っているのである。
このような後件肯定式推論を適切に評価するためのポイントは、上のように「路面が濡れている」という事態の原因を、あれこれ想定してみたところで正しい答えが得られるわけではないということから、これを役に立たない推論とみなすのではなく(19世紀までの哲学ではそう考えられていたが)、事象の原因に遡らなければならないそのような場合にこそ、正しい答えを探る方法としてこの種の推論を活用すべきということなのである。
何を想定してもよいという後件肯定式推論の性質は、通常は考えることができないような新しい発見をもたらす可能性を持っており、その意味でもこの推論の有効性は認められなければならないというのが、20世紀後半のポストモダン思潮による主張である。
例えば、三人目のCは「ある種の自動車が通ったので路面が濡れている」と発想することもできるだろう。この場合、通常、自動車は水を吐き出すものではないので、Aはそれをいぶかり、Bは自分が述べたことの剽窃と思うかもしれない。いずれもその発想を考慮に値しないものとみるのである。しかしCのこの「新理論」は自動車についての新たな概念を示唆している可能性がある。現在では、燃焼廃棄物として二酸化炭素や窒素化合物ではなく水のみを排出する燃料電池車や水素自動車がある。
さて、史的イエスRは、史的イエスReal(現実的)と史的イエスMythical(神話的)の2要素を持つ概念だが、後件肯定式推論の上の性質により、福音書の成立原因として設定されるイエスは現実性を有する史的イエスRealであってもよいし、架空の存在としての史的イエスMythicalであっても問題ないことになる。
前件肯定式の概念である史的イエスTでは、福音書の原資料のうち真と認めうるものだけが推論の前件に置かれるため、その後の推論過程が正しい場合、後件には必ず真であるものが導出されることになる。
したがって史的イエスTにおいては史的イエスRのようなあいまいな事態は起こらない。つまり、史的イエスTの要素である史的イエスTrueと史的イエスFalseにおいて、常に史的イエスTrueのみが史的研究の結果として提出されるのである。
もっとも史的イエスTrueとして提出されるその史的イエスTは、あくまでもその真であることがその神学者の資料判定とそこからの推論によって主張されたものとして提出されるのであって、それに対する実際の真偽判定はまた別の問題であることはいうまでもない。
したがって、理論としての曖昧さを持たない前件肯定式に基づく史的イエスTも、その史的イエスごとに真偽が問われるのであり、結局、本質的曖昧さを抱える後件肯定式に基づく史的イエスRと同じく、真偽の蓋然性を免れることはできないといえる。このように理論の結果が曖昧であることと、理論そのものが曖昧であることを同等とみることもまたポストモダン的な考え方である。
そこで史的イエスRはたかだか「福音書のイエス」を帰結させうる一つの想定であるに過ぎないため、原理的にはどのようなイエスも「福音書のイエス」を説明できてしまう。
仮定を用いる現代の「史的イエスの第三の探求」が、イエスを革命家や賢者、聖人、農民などとして提示するのも、この後件肯定式推論のなせるわざである。仮にイエスがユダヤの一農民にすぎなかったとしても、何らかの根拠に基づいて「イエスを取り巻く人々が勝手に彼を神格化した」という推論を挟むことで神的な「福音書のイエス」を説明できるのである。
それだけではなく聖書から逸脱した異端信仰や、ほぼ異教的といってよいような「亜キリスト教」において信じられているイエス、また偶像崇拝とみられる異教での信仰対象においては、それが実在であろうと祭り上げであろうと、あるいは完全に架空であろうとおかまいなしに信じられ、しかもそれなりに信仰が成立していることを我々は知っている。
これらもまた後件肯定式推論によって、その前件に想定されている信仰対象が「世界の仕組み」や「人のありよう」をうまく説明しているように見える限り、その整合的体系を教えとして信奉することが可能となっているのである。
つまりこの推論では後件に置かれたものが何であれ、それに対する筋の通った説明ができていさえすれば、その説明に用いられる前件は事実でなくても機能する。先の、濡れた路面を見た「ある人A」は、その日が夜明け前から晴れ渡っていたということを知る時まで、自分の理論に基づいて「雨が降った」ことを真理として信じ続けることができるのである。
このようないわば「何でもあり」の概念に有用性があるのかということは改めて問われなければならない。史的イエスRもこの仲間であるが、とりあえず次のことがいえるだろう。
史的イエスRを設定する最大の契機は福音書の存在であったので、任意に設定したそのイエスから「福音書のイエス」を導けないような、あるいは「福音書のイエス」を導くのに著しく不自然な過程を経なければならないようなイエス像は省かれるということである。
E.シュヴァイツァーは、史実のイエスを不要とみなすブルトマンについて「もちろんブルトマンにとっても、(イエスが)どこかの犯罪者や変人ではないと知っていることが決定的に重要であった」と述べているが、
目の前にコップ様の物が見えている場合に、あえてコップではないものの存在を仮定するということをしないのと同様に、原理的にはどのような史的イエスRも設定できるが、実際には「福音書記者による捏造」といった極端に懐疑的な立場をとるのでない限りは、福音書にあるイエスの言葉や行動を大きく逸脱するようなイエス像を設定することはむしろ不合理である。
逆に、保守神学が考える「福音書のイエス」そのままであるような史的イエスRを設定することも原理的に可能である。しかしそのようなイエスもまた、例えば、共観福音書とヨハネ福音書間に認められる「イエスの言葉の調子の違い」や、各福音書での異なる時系列展開にちりばめられたQとしてのイエスの言葉の順序の一意性といった、これまでに知られている「聖書の事実」を合理的に説明しないため無理があるといえるのである。
とはいえ史的イエスR0は、その設定原理である後件肯定式推論に照らして架空のイエスを信仰対象として許容するものであるから、事実依拠的であるキリスト教を説明するイエス概念としてそのままでは適切ではない。そこでより適切な設定としての史的イエスR1が考えられることになる。
しかしながらこのような史的イエスR0こそが、信仰におけるイエス獲得の基本的な方法であり、この後件肯定式推論の方法は異端信仰や異教信仰をも成立させるが、キリスト教正統信仰においても同様に働いているところの、あらゆる信仰に共通する、信仰対象獲得の根本的な仕組みであることは認められるべきことである。