第一部 信仰論 | 星加弘文 |
Consideration 4 信仰二分(4)――信仰の第一段階としての自然発生的弟子的信仰と、第二段階としての確信的使徒的信仰
前節に、伝統的信仰に保たれた史的イエスRは現代の保守神学からは失われていることを見た。伝統的信仰を守る立場にある保守神学は史的イエスRを見失ってはならないはずであるが。
福音書の歴史記事に疑問が持たれなかった18世紀まで、教会は福音書に対する信頼によって信仰対象イエスを得ていると素朴に理解してきた。それゆえこれに異を唱える史的イエス研究が起きたとき、保守的な人々がイエスの確かさを守るために、使徒の証言とその記録の信頼性という史実主義的方法を現代の学問レベルにおいて実行し、その正当性を改めて主張する方向に進んだのは当然のことといえる。
先にあげたF.F.ブルースや、R.ボウカムらはこれを現代の考古学や社会学の方法によって行おうとしてきたのである。しかしその一方で保守神学が行き着いた先は Chapter 2に見た通り「聖書信仰」でもあった。それは原理的に蓋然的な確かさしか与え得ない史実研究が、保守派の標榜する聖書の「無誤」「無謬」という確かさには到達し得ないものだからである。
しかしこの史実主義の受容と聖書信仰の強化という事態は、保守神学における「史実と信仰の分離」といえるものである。これがもたらされている根本的な原因は、既述の通り、保守神学を含む現代神学が「史的イエスT」としての史的イエス概念しか知らずにきたことにある。
「史的イエスR」は伝統的信仰に含まれてきたものでありながら、これまでの神学では見落とされてきた。そのため保守神学がイエス認識の正当性を主張するには、伝統的信仰を構成する古典的史実主義の立て直しか、あるいはなりふり構わぬ聖書信仰による、いずれにせよ「史的イエスT」の獲得という道筋しか考えられずにきたのである。
しかしイエス認識の正当性が、口伝や証言という知識の原初的伝達に対する信頼以外のところにも根拠がある、すなわち当論考が伝統的信仰の要素であると考える「史的イエスR」にもその根拠があるということが明らかになるのであれば事態は大きく変わる。
その場合、保守神学はこれを反映して先の図式の「聖書信仰」による史実確保は、「史的イエスR」によって置き換えることが適切なこととなるだろう。
「史的イエスR」は、以下のR0~R2の段階的な概念に分けられる。これらはいずれも後件肯定式推論の前件に設定されるイエス概念である。(後件肯定式推論については次節に概説、第二部「信仰と理性論」Chapter 2 - Easy Study 3に詳説。)
史的イエスR0:任意のイエス
史的イエスR1:事実依拠性を持つイエス
史的イエスR2:教師的ではなく神的であるイエス
これがイエスの史実獲得のための知識として妥当であることについては次節から確認する。ここでは前々節に述べた「史実と信仰成否」問題が求める史的イエスの条件と、上の史的イエスR0~R2の関係を見ておきたい。条件は3個にまとめられていた。
(1) 主観的な信念ではなく客観的な知識としての史的イエス
(2) 既存の学問的方法とは異なる方法で獲得される史的イエス
(3) 事実依拠性が保たれた史的イエス
それぞれの意味を確認しておくと、(1)は史的イエス獲得を「意志的承認」によっては行わないということであり、(2)は信仰の学問依存が起こらないための条件である。(3)は獲得される史的イエスが「信仰のキリスト」にならないためのものである。
2つのリストを照らし合わせると、条件(1)は、史的イエスR0が後件肯定式推論という論理学的知識において獲得されるイエスであることにより満たされ、条件(2)は、同じく史的イエスR0が後件肯定式推論という、既存の史実研究とは異なる思惟方式による獲得であることによって満たされる。条件(3)については、史的イエスR1がそれを満たすこととなる。
ただしこれらの条件(1)~(3)は「史実と信仰成否」問題が求める史的イエスのいわば最低条件である。というのも、これら3条件を満たす史的イエスR1は「史実と信仰」問題における「過去性」を克服するものではあるが、正統信仰を可能とさせるための史的イエスとしてはなお不十分だからである。
正統信仰が可能であるためには、イエスは「奇跡を行うイエス」でなければならない。このため史的イエスR2までが必要とされるのである。我々が求めるイエスは、単に過去性が克服された史的イエスというのではなく――それだけでも大事業だが――イエスの超越性ということまでを確信できるような史的イエスである必要がある。
それでは史的イエスR0~R2がどのように獲得できるのかを見ていこう。