第一部 信仰論 星加弘文

Chapter 4 信仰対象イエスの獲得 (9)過去性の克服

Consideration 4 史的イエスR1事実依拠性を持つ史的イエスR

史的イエスR1は史的イエスR0と同じく後件肯定式の前件概念である。史的イエスR0では後件に「福音書の存在」が置かれそれが肯定されたのであった。

史的イエスR1では後件に「福音書のイエスの実在性」が置かれそれが肯定されることで、事実依拠性を持つ史的イエスRとしてその設定理由を得ることになる。

史的イエスR0の後件である「福音書の存在」が肯定されることについては、その事実が世界中に明らかであるので特に議論を要さなかったが、「福音書のイエスの実在性」についてはどのように肯定できるだろうか。

補足しておくと、後件肯定式推論が成り立つためには、前件から後件に至る論理に整合性があることと、後件を真として肯定できることが必要となる。実在的な史的イエスR1という前件から「福音書のイエスの実在性」という後件を導くことには整合性があると考えてよいので、ここでは後件の「福音書のイエスの実在性」の肯定について検討するということである。

その肯定が確認されれば、「福音書のイエスの実在性」を導くことに整合性がある史的イエスR1を前件に置いて、その実在的であるイエスを「福音書のイエス」の始源とみることに合理的な理由が得られるのである。

ここで多くの史的イエス研究のように、福音書をイエスについての歴史資料として考察する議論に入ることは避けたい。そういったいくつかの議論を私も確保しているが、それらの資料的研究は史的イエスTを再構成するための議論であり、史的イエスに関して極めて部分的なことを明らかにするにすぎない。

それらの論証を使って後件としての「福音書のイエスの実在性」を基礎づけることはもちろん可能だが、たとえそのようにしたとしても「イエスが実在した」という漠とした大きな設定を肯定する論証としては狭すぎるように思われるのである。

私は史的イエス研究に携わる神学者たちのほとんどに認められる次の事態が「福音書のイエスの実在性」を肯定する根拠となると考える。

イエス研究史において、ケーラーの「信仰のキリスト」に対する反対意見の要点は、その概念における史実のイエスの不在ということであった。[2] そのため、「信仰のキリスト」の批判者たちは、信仰が仮現説に陥ることのないように「史的イエス」の必要を訴えたのである。

もっともそれにより今度は、その信仰が史実研究の影響を受けるものになってしまうという「史実と信仰」問題第2のアポリアに嵌まるのであるが、ここでその点は置くとして、重要であるのは、このとき批判者たちが持ち出した「史的イエス」は、特に史的実在性を持つものとして考えられた概念であったということである。

神学者たちが提示する史的イエスのうち、その実在性を自ら疑問視しているようなイエス概念は少なくとも20世紀以降の神学においては存在しない。史的イエス獲得について、「イエスの生涯と人となりについてほとんど何も知ることができない」[3] とした最も急進的な立場のブルトマンでさえ、

「私が強調した史的イエスとケーリュグマのキリストとの間の食い違いからは、いかなる仕方においても、私が史的イエスと原始キリスト教の宣教行為)の間の連続性を引き裂くというようなことが帰結したりはしない」[4]

と明言している。ブルトマンが断絶を強調するのは「史的イエス」と「宣教された神的キリスト」の間であり、すなわち彼によれば、我々に「宣教されたキリスト」は使徒によって神格化された姿となっているため、そこから実際の「地上のイエス」を知ることはできないが、しかし使徒の宣教行為そのものが「地上のイエス」の存在を契機として発生したものであることは当然の前提であるということである。使徒の宣教を引き起こしたイエスが歴史に実在したことについては、ブルトマンでさえ何ら問題にしていない。

つまり、既存の史的イエス研究にほぼ普遍的に認められるこのイエスの実在性という性質が、史的イエスR1を前件とし、後件に「福音書のイエスの実在性」を導こうとするここでの後件肯定式推論における、その後件の肯定を促すのである。

学問的な信頼性を求める現代の神学者たちの見解において、彼らが導き出す史的イエスTがいずれも実在性について疑義を持たないのであれば、その出発点となる資料としての「福音書のイエス」の実在性を否定する理由はまったくない。

というのも「正しい演繹推論は真理保存的」[5] だからであり、現代のイエス研究がイエスの実在性に関して、その演繹推論の正しさ、すなわち彼らのイエス研究の手法である前件肯定式推論の正しさを維持するものである限り、「史的イエス」という帰結においてイエスの実在性が真とされているものは、その当初から、すなわち彼らが推論の前件に置く福音書資料におけるイエスについても、その実在性が真とされていたことを意味しているのである。

このことは、ここでの後件肯定式推論の立場から見れば、後件の「福音書のイエスの実在性」が真とみなされていることに他ならない。そしてこれにより史的イエスRを史的イエスMythicalではなく史的イエスReal、すなわち史的イエスR1とすることに一定の合理性が得られる。後件である「福音書のイエスの実在性」が肯定できるとき、それを整合的に導くための前件は実在的なイエスすなわち史的イエスR1だからである。

そもそも[史的イエスR福音書のイエス史的イエスT]という構図においては、史的イエスTの実在性は、その認識根拠である「福音書のイエス」を越えて、福音書の存在根拠としての史的イエスRにまで及んでいると考えられなければならなかったといえる。

というのも、後件肯定式推論は、通常は前節に見た通り前件の真偽が定まらない推論だが、ここでの前件「史的イエスR」と後件「福音書のイエス」は、その実体が同じものとして考えられているため、一方が真であれば他方も真、一方が偽であれば他方も偽という同値関係にあるからである。

したがって正確には、ここでの推論は「後件肯定式 かつ 前件後件同値」の推論ということになる。このため後件の肯定が前件の肯定となるのである。

ここで視点を変えて、史的イエスR1の史的イエスMythicalに対する優位を示すために「理論の審美性」を持ち出すこともできる。「観察における理論負荷性」の主張で知られるN.R.ハンソンは、仮説が有効であるための条件を5つ挙げている。

1.その仮説からの演繹によって当該事象を説明できること

2.その仮説が当該事象に関する未解決問題の少なくとも一つを解決すること

3.その仮説が当該事象に関連した未知の事象を予測することができること

4.その仮説が万能ではなく反証されうる可能性をもつこと

5.その仮説ができるだけ単純であること[6]

5番目の「仮説の単純性」が「理論の審美性」とも言われるもので、同等の成果を持つ仮説や理論においてはより単純なものが優れているとみなされることをいうものである。

それは単に、単純な理論は複雑な理論より「美しい」のでそちらが採用されるということなのではないだろう(実際にはそう言われていることしか聞いたことがないが)同じ事柄を説明するのにより少ない要素で説明できる理論の方が、多くの要素を用いてやっとのこと説明を果たす理論よりも勝っているはずだということである。

そこで、史的イエスRと史的イエスTは最終的には重なる概念であるから、この「審美性」の観点からいえば、史的イエスMythicalのような非実在的なイエスを史的イエスRとして設定し、そこから何らかの操作によって、実在的である史的イエスTへの演繹を考えるよりは、当初から実在性のある史的イエスR1を設定してそのまま史的イエスTとの連続を考える方がより優れた考え方であるということになる。

したがって史的イエスRの設定としては、史的イエスMythicalを含む史的イエスR0ではなく、史的イエスRealのみを含む史的イエスR1が合理的なのである。