第一部 信仰論 | 星加弘文 |
Consideration 4 史的イエスR2――教師的ではなく神的である史的イエスR
前段で事実依拠的な史的イエスR1が設定されたが、正統信仰が成立するためには、単にイエスが実在していたという設定だけではもちろん不十分である。現代の史的イエス研究がいずれもイエスの実在を当然とするものであってみれば、史的イエスRの設定がここで終わるのであれば何も行っていないことに等しい。
正統信仰が成立するための史的イエスRには何が必要であるか。これは非正統信仰である主流派神学の史的イエスTを眺めてみることで明らかとなる。
革命家から農民までそれぞれ特徴的なイエスが並んでいるが、共通しているのは、それらのイエスは奇跡を行わず教師的な教えを垂れるイエスであるということである。J.D.クロッサンの探求では知恵の教師であり、M.J.ボーグの探求では何らかの宗教的な師である。
それに伴い彼らのイエス観は「復活前の教師的イエス」と「復活後の神的キリスト」に分断されるのが通常であり、その信仰観はブルトマンの見解を引きずって、実際には神的ではなかったイエスが、使徒たちの信仰において初めて神的キリストとされていったというものである。
これはまた現代人に最もよくみられるキリスト教観でもある。一般の書店で見かけるキリスト教書籍の大半が、ほぼこの見方に立って書かれていることがその要因であるだろう。現代においてブルトマン的見解は非正統的というよりは、もはや通俗的である見解なのである。
そこで、奇跡を行った神的なイエスであるということが正統信仰が必要とする史的イエスであり、それが非正統信仰および未信仰の史的イエスとの境界となるのである。
では奇跡を行う神的である史的イエスRはどのように設定できるだろうか。すでに述べたようにこれも後件肯定式の性質に基づいて任意の設定として行うこともできる。しかし前段と同様、任意の設定というのではなく有意に設定できることが望まれる。
神的であるイエスを前件に置いて、後件肯定式推論に従ってそこからの帰結を考えてみると何が出てくるだろうか。そしてそれは、福音書や使徒の記録に確認でき、肯定できるものだろうか。そのようなものが見つかればよいのだが、ここで、福音書にイエスの奇跡が記されていることを後件にできないことは改めて述べるまでもない。
繰り返せば、福音書の奇跡記事を後件にできない理由は、史的イエスの獲得というそもそもの問題が、福音書記事の信頼性に対する疑義、端的にいえば多くの奇跡記事に対する疑義に発しているからであり、この論考はその疑義に賛同するわけではまったくないが、議論の完全を期すために、そういった疑義に、議論の上での最大限の譲歩を与えることを主旨としていることによる。
福音書に対する最も厳しい否定的判断のもとにおいても、史的イエスRの正当性によって、史的イエスの獲得と正統信仰の成立可能であることを論証するのが目的である。
ところで、一世紀パレスチナにおけるイエスの反対者たちの反対理由が、彼らの意に反するイエスの宣教活動への反対であって、イエスが奇跡を行っていたことへの疑いによるもの、すなわち彼をペテン師として訴えるものであることを伝える聖書の記事が見当たらないことは、イエスが神的な業を行っていたことの間接的な証拠である可能性がある。それは当時、イエスが奇跡をまったく行っていなかったか、あるいは逆にイエスの奇跡を疑う者のなかったことの反映として理解されるからである。(a)
しかし例えば、使徒を捕らえようとしたエルサレムの長老らが「あの人たちによって著しいしるしが行われたことは、エルサレムの住民全部に知れ渡っているから、われわれはそれを否定できない」(使徒4.16)と述べたという記事を、イエスおよび使徒による奇跡の証拠と見ることには疑義が挟まれることになる。それがイエスの反対者による言明であるとはいえ、それを記したのは聖書記者でありキリスト者であるからである。(b)
上の二つの事例(a)(b)が教えることは、ここで史的イエスRから導かれるべき後件としては、執筆者の意図が直接働いていないことがより明らかであるようなものが求められるということである。
すなわち、ある文書の信憑性が疑われている場合、(a)のように、そこに明瞭には述べられていないことから推察される事柄というのは、著者の意向が働いていない可能性が考えられるので、その推察される事柄についての間接的な証明になりうる。これに対して(b)のように直接述べられていることは、それがどんなものであれ著者の意向が働いているという疑いを払拭できないため証明としては使えないのである。
それゆえ聖書に直接記されている訳ではないが、しかし推察によりそれが確かであるような事柄、そのようなものがあれば、それは著者の意図の外にあるものと認められ、事実であることが了解されやすいということになる。
そこで、ここでは当論考が前章(Chapter 3)で考察した使徒における「確信の獲得」という状況を、イエスが奇跡実行者であったことの間接的な証拠として示したい。
使徒が福音書時代の後に「イエスに対する確信」を獲得したのであることは、使徒行伝に直接記されていることではなく、それゆえブルトマンは彼らの変化を見誤っていた(ブルトマンは使徒の変化を、生前の教師的イエスを後に神格化するに至ったことと考えた)。
しかし当論考が、使徒の信仰の変化が「確信の獲得」であったことを明らかにしたことで、「イエスの教えと使徒の宣教の不連続」という、ブルトマンが提示していた謎が解けたのであった(使徒の宣教がイエスの教えを継ぐものであれば不連続はおかしいが、ケリュグマはイエスに対する確信を得たことの証しであり教えではないので不連続であってよい)。
したがって、先に挙げたハンソンの「仮説が有効であるための条件」の二つめ、「その仮説が当該事象に関する未解決問題の少なくとも一つを解決すること」に照らして、使徒の変化についての当論考の理解は合格点を得ているとすることができる。
そこで、聖書に直接記されていることではなく、しかしそれが事実であったことの確実性が高いと考えられる、使徒のこの「イエスに対する確信の獲得」という事態を後件肯定式推論の後件に使って、以下のように考察してみよう。
Chapter 3 - Argumentでは、イエスの宣教と使徒の宣教の相違という、ブルトマンの問題設定を発端として、使徒たちの信仰が、福音書時代の自然発生的信仰と、イエス昇天後の確信的信仰の2段階の経緯を持つものであることをみた。
我々の多くがそうであるように、キリスト教信仰は、まずイエスに対する驚きや尊敬といった感情に始まるが、しかしそこから「イエスを救い主として信じる」という段階へ進もうとするところでは難儀を経験するものである。
キリスト教信仰は、なだらかな連続した坂道というのではなく、ある時期において(誤解を招きやすいので使いたくない語だが)「飛躍」とでも言うのが適切であるような、信仰のある種の断絶を経て確信に至るという道筋を持つ2段階信仰なのである。
さて、この2段階信仰のそれぞれの段階を見てみると、ブルトマンら主流派神学の見解では、その1段階目は教師的なイエスに対する自然発生的な尊崇であり、2段階目はそのイエスを自発的に神格化することによる「神的キリスト信仰」である。
これに対して、当論考 Chapter 3 の考察が明らかにしたのは、まず、多くの奇跡を行ったイエスに対するやはり自然発生的な尊崇としての福音書時代の弟子たちの1段階目の信仰があり、続いて、しかしそのようなイエスを目の当たりにしながらも彼を見ても分からない事柄、すなわち彼がキリストであるということについてはその確信を抱けずにいたが、その克服として「信仰の確信」という2段階目の信仰が福音書後の使徒に形成されたということであった。
後件肯定式推論は前件肯定式推論と同じく前件から後件への演繹を行うものであるので、前件から後件への推論過程は理屈上の飛躍のないものであることが求められる。そこで、主流派神学と当論考での使徒の信仰状態の発展を見てみると次のことがいえる。
主流派神学が、非神的な教師イエスへの尊敬という自然発生的な信仰から、次の段階として、イエスの死後、イエスを神格化する神的信仰が使徒に生じたとみていることは、信仰の発展経緯の説明として自然なことのように思われる。
一方、当論考が考察した、神的な奇跡行者イエスへの驚きを主とする弟子時代の信仰から、次の段階として彼をキリストと確信する使徒的信仰へ移行するということもまた、信仰心が求める自然な発展であるように思われる。
つまりこれらはいずれも、前件の自然発生的信仰から後件のより進んだ信仰へと導かれるという点で道理に適っており、後件肯定式推論として破綻のない妥当な展開であると認められるだろう。
しかしここに、「宗教教師イエスへの尊敬」の次の段階として「彼がキリストであることを確信する」という信仰の進展があるとしたらどうだろうか。それは自然な信仰心が次に希求するであろう段階を一つ二つ飛ばしているように感じられる。
繰り返すが、奇跡を行わないイエスへの尊敬という信仰が次に求めるのが、彼を何らかの神的な存在として信じようとすることであるというのは理解できることである。
また、奇跡を行っている驚くべきイエスを知る者が次に求めるのが、イエスを神的な存在と思っている現在の信仰が間違いのないものであるという確信を持つことであるということも理解できる。このイエスの神性は人々に伝えられるべきものだが、そのためには当時の事情から、師がそうであったように弟子もまた死を覚悟しなければならず、それゆえイエスに対する確信が必要だったのである。事実、12人の使徒はそのすべてが厳しい迫害を受けることとなり、ただヨハネだけが殉教死を免れたのであることが伝承されている。
しかしこれらに対して、宗教教師イエスへの単なる尊敬ということから、いきなり彼がキリストであることを確信する必要が生じたとすることは心理的連続性を欠いているといわなければならない。もっとも、心理というのはどのようでもありえるものなので、単に心理的連続性がないと感じられることをもって、「教師イエスへの尊敬」から「信仰の確信の獲得」という使徒の変化の存在しないことの根拠とすることは論として薄弱にみえる。だが次のことはいえる。
それは、仮に上のような心理過程が使徒にあったのであれば、「尊敬」から「確信」へ至る何段階かのギャップが複数の謎として問題にされなければならなかっただろうということである。しかし、聖書が伝えている使徒の信仰の変化をそのように捉えた神学はこれまで存在しない。
使徒の信仰の変化として考えられてきたのは、主流派神学が示す「宗教教師イエスへの尊敬から神的キリスト信仰への移行」であるか、ここに当論考が示した「神的キリスト信仰からイエスに対する確信への移行」のいずれかだけである。したがって神学史的見地からも、使徒の信仰の変化を「宗教教師イエスへの尊敬からイエスに対する確信への移行」とみることは妥当ではないし、そしてそれは使徒に起きた事実ではないだろう。
それゆえこの理解に基づけば、新約聖書に認められる使徒たちの信仰の第2段階目が「信仰の確信」であることが確定しているとき、その前段階としては「教師的イエス」ではなく「奇跡を行う神的イエス」が存在していたとすることが合理的な判断となるのである。
Chapter 3 - Argument では、使徒の信仰の第2段階目を「神的キリストへの信仰」とみるブルトマンの見方がケリュグマに対する洞察不足によることであり、使徒のケリュグマは、イエスがキリストであるという「教え」ではなく、それを彼らが確信することとなった理由の開示であり「証し」であることを明らかにした。
すなわち、福音書時代の「弟子」たちとイエス昇天後の「使徒」らの差は、「信仰の確信」の有無にあるのである。したがって、当節での後件肯定式推論の後件には信仰の第2段階目としての「信仰の確信」を置くことが適切であるということである。
そこで、この後件肯定式推論の前件に置かれるべき史的イエスR、すなわち使徒の信仰の第1段階目に彼らが目にしていたイエスを、「教師的なイエス」を含む史的イエスR1ではなく、「奇跡を行うイエス」すなわち史的イエスR2として設定することに合理性を認めることができるだろう。この設定によってこそ、イエス昇天後の使徒の信仰の変化を「信仰の確信の獲得」として後件に導くことができるからである。