第一部 信仰論 | 星加弘文 |
■Parable
[1] 冨田恭彦『哲学の最前線』講談社現代新書 1998年 pp.14-19「相手の発言の多くが正しいと思える場合に限って、ある発言が誤っていることがわかる。」
■Easy Study 1
[1]「信仰と理性論」Chapter 4-Section2
[2] I.カント『純粋理性批判 上』岩波文庫 1978年 p.61(B5は第二版5頁の意味)
[3] 前掲書 p.73
[4] 前掲書 p.33(要約)
[5]「信仰と理性論」Chapter 4 - Section 1
■Easy Study 2
[1] James M.Robinson, A New Quest of the Historical Jesus.,SCM PRESS, 1959, p.28
[2] マルコ1.43、5.43、7.36、8.26、8.30、9.9など
[3] R.ブルトマン「新約聖書神学Ⅰ」『ブルトマン著作集3』 新教出版社 1994年 p.40
[4] 山田耕太「聖書学の黎明期のイエス研究」『イエス研究史』日本基督教団出版局 1998年 p.95
[5] R.ブルトマン「新約聖書神学Ⅰ」『ブルトマン著作集3』新教出版社 1994年 p.40、「共観福音書伝承史Ⅱ」『ブルトマン著作集2』1987年 p.238
[6] H.ツァールント『史的イエスの探求』新教出版社 1971年 p.42
[7] N.ピーターセン『新約学と文学批評』教文館 1986年 p.22(カッコは星加による補足)
[8] A.E.マクグラス『歴史のイエスと信仰のキリスト』キリスト新聞社 2011年 p.171
[9] F.A.シェーファー『理性からの逃走』いのちのことば社 1984年 p.50, 63
[10] 松木治三郎『イエスと新約聖書の関係』日本基督教団出版局、1980年 p.15
■Easy Study 3
[1] 小河陽「様式史学派のイエス研究」『イエス研究史』日本基督教団出版局 1998年 p.186-187
[2]「史実は信仰を与えない」という(主旨の)記述は以下にみられる。
(1) 青野太潮「ブルトマンとその弟子たちの論争」『イエス研究史』p.202
(2) H.ツァールント『史的イエスの探求』新教出版社 1971年 p.85,90,116
(3) R.ブルトマン『新約聖書神学Ⅱ』「ブルトマン著作集4」新教出版社 1994年 p.166
(4) R.ブルトマン『原始キリスト教のキリスト使信と史的イエスとの関係』「ブルトマン著作集9」新教出版社 1994年 p.135
(5) A.M.ハンター『史的イエスと福音書』教文館 1976年 p.214
(6) W.パネンベルク『組織神学の根本問題』日本基督教団出版局 1984年 p.70
[3] J.K.Beilby, P.R.Eddy, The Historical Jesus FIVE VIEWS., Society for Promoting Christian Knowledge, 2010, p.23、M.ケーラー『いわゆる史的イエスと歴史的=聖書的キリスト』「現代キリスト教思想叢書2」白水社 1974年 p.179以下
[4] 小河陽「様式史学派のイエス研究」『イエス研究史』p.187
[5] バルトとブルンナーについては、A.M.ハンター『史的イエスと福音書』教文館 1976年 p.203-204参照。ブルトマンについては、Bultmann, Rudolf, Jesus Christ and Mythology, CHALES SCRIBNER'S SONS, New York, 1958, p.72
[6] E.ブルンナー『弁証法神学序説』福村出版 1973年 pp.188-189
[7] 前掲書 pp.212-213
[8] Beilby, Eddy, The Historical Jesus FIVE VIEWS, p.23
[9]『史的イエスの探求』p.177
[10] 前掲書 p.186
[11] M.J.ボーグ『イエス・ルネサンス』教文館 1997年 p.363-364
[12] たとえば、現在の「史的イエスの第三の探求」に関わるM.J.ボーグは「イエスについての歴史的知識の意義に関する論争の大半は、史実研究が信仰にとって意義あるべきか否かという問いに焦点を絞ってきた」とし、「もし否定するなら、仮現説、グノーシス主義、またその他の不健全さへ陥る危険がある」と述べる(『イエス・ルネサンス』pp.373-374)また、R.ボウカムも同様のことを述べている。「イエスと福音書を歴史的に考察することが不適切と言うならば、それはトム・ライトが記すように『現代的仮現説』であり、イエスがある程度検証可能な歴史的人物であることを否定するのと同じである。」(『イエスとその目撃者たち』新教出版社 2011年 p.15)参考 N.T.Wright, The Challenge of Jesus (London:SPCK,2000), pp.3-10
■Episode
[1] C.F.H.ヘンリー「序(二)」『聖書論論集』聖書図書刊行会 1974年 p.7
[2] 鞭木由行「聖書信仰と無誤性」『聖書信仰とその諸問題』聖書宣教会 2018年 p.281
[3] 土佐クリスチャン群像刊行会『土佐クリスチャン群像』高知福音書房 1979年 人名索引 "森勝四郎" "森派" 参照
川口葉子、山口陽一『知られなかった信仰者たち 耶蘇基督之新約教会への弾圧と寺尾喜七「尋問調書」』いのちのことば社 2020年
■Argument 1
[1] E.トレルチ『トレルチ著作集2』ヨルダン社 1986年 p.169(要約)
[2] 以下を参照。
C.F.H.ヘンリー他『聖書論論集』いのちのことば社 1974年
藤本満『聖書信仰―その歴史と可能性』いのちのことば社 2015年
聖書神学舎教師会『聖書信仰とその諸問題』いのちのことば社 2017年
小林和夫他『論集聖書』東京聖書学院 1983年
■Argument 1-2
[1] 12部族から成っていたイスラエル民族は後に10部族が失われ、残された主たる民族がユダ族であったことからそう呼ばれるようになった。
■Argument 1-3
[1] K.S.カンツァー「啓示の伝達」『聖書論論集』p.24
■Argument 2
[1] B.B.ウォーフィールド『聖書の霊感と権威』小峯書店 1948年 p.229
[2] 前掲書 p.231
[3] 赤坂泉「聖書信仰の諸問題」『聖書信仰とその諸問題』p.21
■Argument 3
[1]「聖書信仰が可能であること」を簡略化したカント訳語風の言い回し。
[2] B.B.ウォーフィールド(『聖書の霊感と権威』小峯書店 1948年 p.175)と、J.I.パッカー(『福音的キリスト教と聖書』いのちのことば社 1963年 p.27以下)が述べている聖書信仰の根拠についての論述は、中世アンセルムスの「本体論的証明」と同じ種類の誤りを犯している。 神の存在証明である「本体論的証明」は、初めに神を完全者と定義し、続いて、神が完全であるなら神は存在を属性として持つはずだと主張する。なぜなら「存在する神」は「存在しない神」に勝っており、「存在する神」こそ神の完全性の定義に適うからである。それゆえ神は必然的に存在するとされる。 ウォーフィールドおよびパッカーは、まず、聖書記者たちが聖書の霊感というものを間違いなく信じていたことを「ヘブル人への手紙」などのテキストから証明する。そしてこれら聖書記者たちの見解や信仰内容を否定したキリスト教というものは定義上存在しえないのだから、キリスト教信仰は必ず聖書の霊感信仰を含むものでなければならず、それゆえ我々の信仰においては聖書信仰は必ず成立すると論ずる。 しかしこれは概念の定義がもたらす論理的な必然性と、概念と外界との対応性とを混同するという、現代ではよく知られた論理上の誤りを犯した論証である(この指摘については、I.カント『純粋理性批判(中)』岩波文庫 1977年 pp.261-268(B622-629)、B.ラッセル『西洋哲学史3』「論理分析の哲学」みすず書房 1976年 p.824、W.V.O.クワイン『論理的観点から』勁草書房 1996年 pp.22-23参照)。 例えば「ペガサス」はその定義により、必然的に馬でありかつ羽があるものとして存在すべきものだが、そのような生き物が実際に存在するかどうかは全く別の問題である。同様に、ある信仰が正統信仰である限り聖書信仰を含まねばならないことは確かだが、しかしそのような信仰が実際に成立可能かどうかはまた別の問題なのである。ウォーフィールドらの議論では、信仰が正統信仰であるための必然性が、その種の信仰の成立可能性にすり替わり、単なる信仰の定義であったものが信仰の存在として主張されている。 この点で彼らの主張は論理的な誤りを犯しているのである。 しかしウォーフィールドについては、上の論証の後、さらに「聖書の霊感はキリスト教教理の最も基本的なものではなく、われわれが聖書に関して立証する第一のものでもない。それは聖書に関して最後の、しかも冠のような事実である。」「われわれは十全霊感の教理がキリスト教信仰の基礎だとは考えない…」等々と述べて、それまでの議論を撤回するかのように、聖書信仰はあくまでも信仰としての位置づけを保つべきものとする考えを示している。つまり聖書信仰は教義の基礎的位置を占めるものではなく、また議論の根拠として使用すべきものでもないということである。 これにより、ウォーフィールドの議論は聖書信仰の主張としての妥当性を保つことになるが、先の論旨に終始するパッカーの主張については単に誤りであるとしか言いようがない事態となっている。
[3] R.ブルトマン「共観福音書伝承史Ⅰ」『ブルトマン著作集1』新教出版社 2004年 p.89
[4] 赤坂泉「聖書信仰の諸問題」『聖書信仰とその諸問題』p.24
[5] 前掲書 p.30
[6] James M. Robinson, A New Quest of the Historical Jesus.,SCM PRESS, 1959, p.31