第一部 信仰論 | 星加弘文 |
以上で、先のApproach「教会で歓迎されない質問」の背景を概観できたので、ここから本筋に戻ろう。
私が関わりをもった西荻窪の教会(Chapter 1 - Episode 2参照)は保守的な正統主義の教会であり、後に「日本福音同盟」に加入することになるいわゆる「福音派」教会であった。
一方、先のEasy Study 1~3に書いたのは、現在「主流派」と呼ばれる教会群が拠って立つ「現代神学」の前身である「自由主義神学」から「新正統主義神学」への流れである。現在のプロテスタント教会はこの「保守派」と「主流派」に大別され、名称が示す通り「主流派」が多数を占める。
この現代神学のルーツとなる神学に「新正統」や「自由」と名が付いていることからも想像されるように、これら主流派系の神学はその時代の知識や学問に対応する姿勢を重視する神学である。これに対し保守派の神学は、あくまでもルター、カルヴァンらの宗教改革時のプロテスタント神学を保つことを旨としている。この二つの流れはカント哲学が広く認知されるようになった19世紀半ばに袂を分けている。
「迷信や教義にとらわれずに理性を働かせることにより真理に到達できる」という18世紀までの楽観的な理性主義がカントによって否定され、逆に、理性において到達できるのは経験世界の内側に限られることが説かれたことから、キリスト教の教義学、形而上学、神学は大きな打撃を受けた。これに反応したのが19世紀前半のD.E.シュライエルマッハーであり、彼はカント的な思想によって規定された最初のキリスト教神学者となり「現代神学の父」と呼ばれるに至る。
また、先に触れたとおり18世紀にはすでに聖書を批判的に読むライマールスがあり、19世紀前半には、他の三福音書とは様子の異なる「ヨハネ福音書」の歴史性を否定するD.F.シュトラウスの聖書学も登場していた。現在の主流派神学につながる流れは、このような、カント哲学の影響を受けた神学と、伝統的教義に懐疑的な批評的聖書学が合流して生じたのである。
一方、宗教改革および17世紀古プロテスタンティズムと呼ばれる教義体系を継承する保守派の神学は、カント哲学にも批評的聖書学にも、そして自由主義神学に対しても明瞭な反応を示さなかったといってよい。保守派がその重い腰を上げたのは新正統主義神学に対してであって、彼らの神学が正統主義からの離反でありながら、その名称が示す通り、その信仰が自分たちと似ていることに対する危機感からであった。
つまりそれ以前の、宗教感情や道徳を主軸とする自由主義神学においては、その非正統性は教会内の誰の目にも明らかであったために、却って正統主義の領域が脅かされる恐れはなかったのであるが、ある種の啓示観を導入し、正統主義とは似て非なる神学を展開する新正統主義神学は、それを採用する神学校と教会の登場によりキリスト教全体を変質させかねないとの危機意識を強く与えたのである。
彼らの啓示観は、超越的概念を理性領域から追放したカントの思想に合わせたものであり、理解可能なもの、つまり文字で書かれた聖書自身が啓示であることは否定され、神と人間の非理性的・神秘的・人格的な関わりとしての啓示、あるいはせいぜいバルト神学に見られるような、聖書が神の言葉すなわち啓示に「なる」という、やはり神秘的である聖霊の現在的働きにおいてのみ啓示を可能とみるものであった。
20世紀前半時までは保守的立場にあったアメリカのフラー神学校で教鞭を執っていたC.F.H.ヘンリーの嘆きがこの状況をよく伝えているので引用しよう。
「私たちは、カール・バルトやエミール・ブルンナーのような新正統主義の巨人国に集められたようなものである。…しかし、この新しい人々の行き方は、その人々が特別な神的啓示と聖書の証言の独自性を認めているにしても、なお満足できない。そのため私たちの心はなお重いのである。…カントとキルケゴールの影響、それにまた加えて、『神と人間の出会い』の定式化に当ってのエブナーとブーバーへの負債、神がご自身とそのみこころについての真理を何もコミュニケートしないというシュライエルマッハーの深刻に非聖書的な考えの恒久化、とりわけ聖書の啓示としての権利の不当な扱い方などは、私たちを特に悩ませた新正統主義の諸特徴であった。」
これ以後、保守派は自分たちの足場を固めることに腐心することになり、そこに掲げられたのが「聖書信仰」である。
これは第一義的には、新正統主義や批評的聖書学がその立場を採ることによって解決しようとした史的イエス問題についての、正統主義による答えというのではなく(そう考えている人たちがいるかもしれないが)、とりあえずそれらから自分たちの神学を分かち、伝統的・保守的・福音的立場を確認するための方策であった。
聖書信仰というのは「聖書は誤りなき神のことばである」と信ずることをいうが、これ自体は旧新約聖書を通じて聖書中に確認されるものであり、神の三位一体などと同様、歴代の信仰告白文などに明文化されていたかは別としてもキリスト教創設当初から信仰内容に含まれていたものであり、
しかし1978年に「シカゴ声明」などの形で改めて「聖書信仰」の内容が明確に規定され、しかもかつてなく重要な信仰要素としてこれが強調されると、同じ保守派の間でも理解の相違が明らかとなり、聖書信仰のあり方そのものが議論の対象となって、保守的教会は、その本来の目的であった外に対する戦いに踏み出す前に、内側での議論に労力を費やすことを余儀なくされる。
私が入信したのは1979年で、その2年ほど後に保守系の神学校に入学していたので、当時は聖書信仰についての議論が喧しく、教壇からこれを文字通り絶叫する教師もいた。
洗礼式が近づく頃、私は「聖書信仰の根拠」を牧師に尋ねていたが、それまで「自分を聖書の下に置いてください」と言っていた彼は「聖書信仰はドグマだと思っています」と答えた。この「ドグマ」の意味は明瞭ではなかったが、根拠なしにでも信じられるべき信仰箇条という意味合いに受け取れた。説明はできないけれども信仰に含まれなければならないものということのようであった。
受洗当時、私は聖書信仰を取り巻くこのような神学状況については知るよしもなかったが、しかしこの問題が神学云々以前の立場である一求道者にあってさえ避けて通れないものであることは痛感していた。
イエスは「狭き門より入れ」と教えているが、私にとって信仰の門は「狭い」のではなく「二重」であった。イエスを信じることが一つの門。しかしその前にもう一つの門があって、それは聖書、特に福音書に書かれているイエスに関するもろもろの出来事が事実であると信じなければならない門なのである。
この第一の門についての答えを持たないまま私は洗礼式に臨んだが、その信仰確認では「あなたはイエス・キリストを自分の救い主として信じますか」との問いに、「聖書に書かれている歴史記事が事実であるという前提のもとでイエス・キリストを信じます」と自身の信仰を告白したのである。
それは牧師の了承を得てのことであったが、しかしどこから来たともしれない青年によるこの信仰告白は、「安息日厳守」で知られたという戦前の「森派」
私の入信時の信仰が十分なものと見られるかどうかは別として、イエスを信じようとする者が――私の場合はChapter 1 - Testimonyがその「証し」だが――イエスへの信頼と、聖書記事への信頼をどうしても別のこととしてしか理解しえず、その状況を洗礼時の告白に含めなければならないというのは、本人にとってはもちろん、教会にとっても不幸なことであるに違いない。
このできごとのため、私は「史実と信仰」問題というものを、その入信当初から背負うことになったのである。