第一部 信仰論 | 星加弘文 |
この「第一部 信仰論 Chapter 2」は「キリスト教への接近を妨げる諸見解」を扱う章だが、ここに「聖書信仰」を取り上げるのは、これが前段での私の例のように未信仰者のキリスト教への接近を困難にする、あるいは信仰者においては、これが信仰上の問題の万能の解決となって、自身の宗教をより深く理解することの妨げになることがあると思うからである。
牧師が求道者の私に「自分を聖書の下に」と言っていたのは、その言葉遣いの穏やかさはどうであれ、要するに頭から聖書を信じろということであって、これは求道者を戸惑わせる要求である。無条件に理屈抜きで聖書の真実性を前提させる以外にキリスト教信仰への道はないものなのか。
しかし、聖書を肯定する前提なしに、我々の信仰はイエスへの信仰から始まるのだと考えてみても、そのイエスは聖書を抜きにしては知ることができない。したがって聖書を信頼できない場合、イエスへの信仰は困難と断ずるか、あるいはイエスの史実を抜きにしたキリスト信仰というものを考えるかの二者択一となることは一つの道理であるだろう。
そしてこれこそ20世紀初頭の自由主義神学者E.トレルチが述べていたことであった。
すなわち前者は「史実が信仰を与える」という理解を前提に、史実が不確かなら信仰も成立しないと考え、後者は「史実は信仰を与えない」という理解に立って信仰は史実以外の何かが与えるとするということである。
現代の神学はもはや「イエス認識不可」「イエス認識不要」を声高に主張することはないが、基本的にはこの二者択一を避けられないものと考えている。その基調はイエスへの信仰の可能性を否定するものか、「事実依拠性」を持たない信仰のみを可能とするものかのいずれかなのである。
この状況の中で保守派教会の牧師が「ともかく聖書を信頼せよ」と訴えることは無理からぬことではあるだろう。「聖書を検証してみましょう」と提案すれば、どちらに転んでも具合の悪い現代神学へと求道者を導いてしまうことになりかねないからである。
しかし聖書に関する議論から目を逸らさせつつ、求道者には聖書記事の事実性を前提させ、信者には聖書信仰を求めるという方策が最善であるわけではないことはいうまでもない。
「自分を聖書の下に」という勧めは、本来は信仰における謙遜、あるいは後に紹介するB.B.ウォーフィールドが言うところの「信仰の冠」として聖書を信奉するという、いずれにしても信仰成立後に勧めるべきことであって、少なくとも信仰を得ていない者に求めることではない。仮に、未信仰者が聖書に対してそのような態度をとったとすれば、それは謙遜というよりは単に不自然というべきである。ここには解決されなければならないものが明らかにある。
そこで、聖書信仰の問題について私の理解を述べてみたい。
聖書信仰に関する議論は複雑なものではない。保守派の書物においてひじょうに多くのことが語られており議論が錯綜しているように見えるが、それは問題の困難さによるというよりは論点の未整理によるところが大きい。
行われている議論の内容は、
Argument 1. 聖書信仰のあり方(聖書信仰の正統性に関する議論)
Argument 2. 聖書信仰の根拠(聖書信仰の妥当性に関する議論)
Argument 3. 聖書批評学、現代神学、現代科学がもたらす諸見解への対応
の3点である。
Argument 1 においては、特に、聖書の「無誤性」というものが主要論点となっている。
聖書を「誤りなき神のことば」とするとき、現在その「誤りなき」には二義が考えられている。
一つは、聖書の主たるメッセージである人間の救いに関する事柄についてその記述に誤りがないとする「誤りなき」であり、これを聖書の「無謬(むびゅう)性」と呼ぶ。
いま一つは、聖書に含まれる歴史記事などすべての記述において聖書には誤りがないと解するもので、こちらが「無誤(むご)性」と呼ばれている。
この「無謬」「無誤」のいずれを支持することが聖書信仰として正しいあり方であるかという Argument 1 の議論が、聖書信仰全議論の大半を占めるものとなっているのが実状である。それは、この二つの理解が聖書信仰を旗印とする保守派を二分しており、この分割のために保守神学が一つにまとまることができずにいるためである。
いずれも「聖書は神のことばである」という信仰に立つものであるから、傍目からは大差なきものと見えるが、「無謬」の立場によれば、「無誤」は現代科学との折り合いがつかないという問題を抱え、また聖書の全内容を事実とみる硬直性のために、聖書の本来の意図を見いだすための柔軟な解釈の余地を許さない信仰になっているなどの批判がある。
一方「無誤」の立場からは、「無謬」の信仰は神の完全性を損なっており、矛盾と見えている箇所についてのより深い整合性を求めることなく現代思想や科学に迎合し、その結果、聖書に小さな誤りを認めることによって他の多くの箇所を疑わしいものとする道を開いているとされる。
日本におけるそれぞれの陣営は、教義学上の救拯論(きゅうじょうろん=救いについての論)と聖化論(せいかろん=救いの後の状態についての論)において立場を異にしてきた二派、すなわちカルヴァンを出発点とする改革派系諸教会と、アルミニウスを出発点とするホーリネス系諸教会であるという実質的な傾向がある。
したがって「無誤」(≒改革派)と「無謬」(≒ホーリネス)の論争は、18世紀以後、歩みを異にした保守系二派が「聖書論」において再びその違いを鮮明にしたものともいえる。
また教派によらず、自身の信仰の拠り所とか確信といったものを、聖霊の現在的働きや、イエスの教えの終末論的解釈など、キリスト教におけるダイナミズム・神秘性に見いだしているような人々は、聖書の「無誤性」に拘らない傾向もみえる。
私自身は「穏健なカルヴァン主義」の牧師が率いた教会の出身であるため改革派系ということになるが、正直に言えば、こういった教義上の議論――聖書信仰に限らず、終末や千年王国の理解、「セカンドチャンス」などの議論――にこれまで関心を持てたことはない。
それはこの種の議論が信仰の「正統性」を争う議論であり、その決着を、聖書やせいぜいその教義の成立経緯に尋ねるだけのキリスト教世界に閉じた議論であることによるのだと思う。答えの在りかが最初から分かっている議論に興味を持つことは難しい。
しかし先にトレルチに触れたところで述べたように、聖書の歴史記事を信頼できるか否かの問題は、「イエスの出来事が我々に信仰を与える」という考えを持つ人にとっては信仰の死活問題そのものであるし、また「我々に信仰を与えるのはイエスの史実自体ではない」と考える人にとっても、そう考えさせた契機となったのがまさにこの問題に対する否定的判断であったわけで、いずれにしても信仰の方向性を決める重大な問題といえる。
したがってその問題の答えとして主張されるようになった聖書信仰の問題を、信仰の正統性に関わる他の問題、例えば上に挙げた救拯論での神と人間の役割といったことや、聖化論での救いときよめの関係、あるいはキリストの二性一人格、神の三位一体、イエスの再臨と千年王国の前後関係などの、いわゆる「神学論議」としてある人々から蔑称をもって呼ばれることのある神学上の諸問題と同列に考えてはならないだろう。
これらが純粋に神学的な問題、いいかえれば信仰に信仰を重ねた後に始まる問題であるのに対して、聖書信仰の問題は、やはり信仰後の問題であるとしても、そこから信仰のあり方に遡って、その根本的な改変を迫る可能性を持つ問題なのである。