第一部 信仰論 | 星加弘文 |
無誤の立場からの主張で目を引くのは「神が完全であるなら聖書も完全である」という論法である。「神の霊感によって書かれた聖書には誤りがない」とか「聖書の言葉は神の『息吹き』によるもので誤りがない」と述べられている場合もある。
また「福音主義者であるなら聖書が誤りを含まないことを支持すべき」という脅迫めいた言い方になっている場合もあるが、これも大まかな意味では前命題の対偶命題であり同等の主張といえる。無謬論者はこれらの論法を「アプリオリな原理」とか「基礎づけ主義」として非難するが、その用語が適切かはともかくとして非難自体は妥当だと私は考える。
「神が完全なら聖書も完全である」という命題は論理的なものではない。ここで「論理的な命題」とは、命題の形式だけから真であることが定まる命題のことで、例えば「背の高い男は男である」といった、カント命名によるところの「分析的判断」がその一つである。
これは現代論理学の一分野である古典命題論理の「AかつB、から、Bを導出してよい」という「かつ除去則」に相当する。述語が主語に含まれるこの形の命題は、その真であることを知るために事態を観察する必要はない。背の高い男が男であることは背の高い男を見なくてもわかるのである。論理的な命題とはこのようなものを指す。
「神の完全性」から「聖書の無誤」が引き出せるという主張はこの論拠に基づいてのものであるだろう。
なぜなら無誤論者は「神の完全性」を観察できない状況にありながら帰結を引き出しているからである。観察なしに結論を導けるとするのはその命題が論理的な命題であるとみなされているためである。おそらくここでは「神の完全性」が「聖書の無誤」を含むと考えられている。
確かに我々は神は完全であると信じている。ただしそれは信仰であって知識ではない。そのため「神の完全性」という信念が具体的にどのような内容を持っているかを我々は知らない。
したがって「背の高い男」から「男」を引き出すのと同じようにして、「神の完全性」から「聖書の無誤」を帰結させられるかはわからないとしなければならないはずである。ここでは論理としての正しさが問題であるので、それが「背の高い男」の例のように事実判断としても成立するような推論ではなく(つまり論理的判断の正誤を事実としても確認できるような推論ではなく)、ここでのように前提も帰結も信仰的概念であってその真偽を事実に照らすことができない観念的な推論であっても同じことである。
また、たとえ聖書の完全であることが神の完全性ゆえのものであったことが最終的に明らかになったとしても、そのことは、終末時や天上界などでの体験によって知れたということであるから、両者のつながりを論理的なもの、すなわち事実を見ずに結論を導くことができるものとしてよいことを意味していない。
今から数百年以前、神は完全であるということから、神に唯一至高の存在として創造された人間が住む地球は宇宙の中心にあるとされ、地球を巡る惑星の軌道は真円だと考えられた時代があった。しかし近世になってその宇宙観が覆された後にも、神の完全性が損なわれたことにはならなかった。むしろ神の完全性に対するそれまでの理解の方が誤っていたとされたのである。
これと同様に「聖書の無誤」もまた、必ずしも神の完全性に直結したものでなければならないわけではない。仮に聖書に誤りのあることが確定したとしても、キリスト教は神の完全性を言い続けるはずである。そしてその場合、そのようにして主張され続ける「神の完全性」とは何であるのかが問われ、改めて定義されていくことになるのである。