第一部 信仰論 星加弘文

Chapter 2 キリスト教への接近を妨げる諸見解 (11)

Argument 1-2 「無謬論者」の誤り

一方で、「無謬」の立場が全面的に正しいわけでもない。「無謬」は救いに関わる事柄に関して聖書の記述に誤りがないとするものだが、そもそも「救いに関して誤りがない」という主張が奇妙である。

というのも、キリスト教に限らずあらゆる宗教における「救い」の教えというのは、それが誤りであることを証明できるものではないからである。「救い」はいわば宗教の専売特許であって誤りがないに決まっているものなのだ。

聖書の誤りのなさをその歴史記述にまで広げる「無誤」の立場においては、聖書と歴史の齟齬が証明される可能性があるので、「聖書の歴史記述には誤りがない」との主張には意味がある。しかし誤りを証明できる可能性のない「救い」について誤りがないと主張することは無意味である。

もっとも、こういった言わずもがなの主張を行わなければならないことになったのは「無誤」のせいだということはいえるだろう。「無誤」の立場が極端な聖書の正しさを主張するので、それとの区別を示すために、本来は無意味であるような点を強調しなければならなくなったということである。

「無謬」における誤りのなさを「救い」に関してだけではなく道徳にまで広げると(実際、後に紹介する保守派の書物では、無謬を「教理や道徳的な問題について誤って導くことがない」とする立場としている)無謬」の主張には疑問符がつけられることになると私は思う。

私は救いに関する記述については上に述べたとおり言わずもがなであるが聖書に誤りがないと考えるが、道徳に関して聖書は誤りを含んでいると考えている。

それは聖書のあちこちに不道徳な内容の記事が含まれていることを指していっているのではない。それらに対して聖書が意識的であり人間の罪の姿として描いているのである限り聖書に道徳的な問題はない。

しかし聖書のある箇所では、その内容について聖書記者の「無意識」が認められることがある。

近年では「フェミニズム神学」と呼ばれる神学が、聖書における人数の記載について、それが男についてしか数えられていないことや、神を「父」すなわち男性として述べていることの問題性を指摘しているが、私が示そうとすることはもう少し深刻である。

イスラエル王ダビデについては次の三点が罪として非難されてきた。多くの戦闘を行ったこと、初代王サウルからの逃避行において略奪を繰り返したこと、家来の妻を欲するためにその家来を合法的に殺害したことである。

聖書は英雄ダビデの非を晒すことに意識的であり、ここに聖書の道徳上の困難は認められない。しかし、三つめの罪に関する記事はおかしなものである。

ダビデはバテ・シェバという女性を自分のものとするために、その夫ウリヤを激戦地に送り込んで戦死させるのだが、これは「神のみこころをそこなう」こととなり、お付きの預言者ナタンからの責めを受けて悔い改めに導かれる。その結果、彼はバテ・シェバとの子供を失うのである。

しかしここから聖書は次の事実を伝えている。なんとダビデはこの後、バテ・シェバを正式な妻として迎えるのである。女性の夫を死なせ、しかもそれを自分の非として認めた者が、どうしてその女性を自分の妻とするのか。不正によって得たものは不正の発覚と同時に手放すのが最低限の責務であるだろう。彼はその責任上、バテ・シェバを生涯にわたり経済的に養う義務を負わねばならないとは思うが、妻にする必要は全くないはずだ。

この出来事が彼の罪に関わる他の出来事と異なるのは、聖書の記述がダビデの悔い改めと不義の子の死を終局とする罪と悔い改めの物語のようになっており、それをもって完結した印象を与えている点である。その後のダビデとバテ・シェバとの関係は、むしろ一件落着後の平穏なエピローグとして記されているように見えるのである。

このところに私はこの出来事についての聖書の無意識があると感じる。

ダビデがこの行為を狡猾と知って行っているのならば、まだ望みはある。しかし、ダビデ自身も、彼の罪を責めたナタンも、これを記した聖書記者も、そしてバテ・シェバとの第二の子を祝したと記された神までもが、この事実の不当さを意識していないのはどうしたことだろうか。

ダビデとバテ・シェバはイエス・キリストの系譜であり、上の事実は少なくない重大性をもっている。

しかし次の事柄はさらに重大である。

契約の民イスラエルはモーセとヨシュアの時代に侵略戦争によってパレスチナの地を得ることになる。旧約聖書の前半部はイスラエル民族の土地取得の物語と見ることができる。

彼らがパレスチナやカナンを自分たちのものとする根拠は、神がイスラエルの祖アブラム(後のアブラハム)と交わした「アブラハム契約」である。この契約は創世記12章に最初に現れ、その後、形を変えて繰り返し記されることになる。

15章では次のように記されている。

その日、主はアブラムと契約を結んで仰せられた。「わたしはあなたの子孫に、この地を与える。エジプトの川から、あの大川、ユーフラテス川まで。ケニ人、ケナズ人、カデモニ人、ヘテ人、ペリジ人、レファイム人、エモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人を。」

この記事は我々に何を伝えているのか。私にはこれがパレスチナ地域に関するイスラエル民族の権利の正当性を伝えるものであるとは到底思えない。

イスラエルというのはアブラハムの孫ヤコブの別名だが、そのイスラエルの民にカナンの地を与えることを神がわざわざ約束したということは、その土地がもともと彼らのものではなかったことを示すもの以外のなにものでもない。事実、上の記述によれば、その土地には先住民がいた。旧約聖書に記されたアブラハム契約はこのことを現代にまで証ししているのである。

しかし聖書はこの後、カナンがイスラエルのものではなかったという歴史上の事実について何らの顧慮も働かせていない。

モーセとヨシュアが率いるイスラエル民族が、自分たちに与えられた信仰に基づいてこの地に侵攻したいきさつはヨシュア記に記されている。先のEssay 2で、他者の権利を侵害することを厭わない公けの信念を原理主義として定義したが、アブラハム契約は明白な原理主義である。

ユダヤ民族[1]に対しては、モーセの十戒に代表される厳格な律法主義の民という印象があるが、律法はいわば国内的な法律であるにすぎない。ユダヤ民族を対外的に規定しているのは十戒ではなくアブラハム契約である。

アブラハム契約の原理主義性からはEssay 2に述べたことを含め、多くのことが述べられなければならないが、ここではただ聖書の道徳的無自覚の指摘にとどめておく。

旧約聖書には「寄留者への寛容」が律法として定められており、また、耕作地を持たない者が稲などの収穫物の「落ち穂拾い」をすることを認めるなどの定めが記されている。その牧歌的情景が印象深い「ルツ記」もある。

しかしこれらの律法の根底にあるのは、その土地を自分たちのものとしていることの歴史上の非正当性に対する無自覚であるといわなければならないだろう。ここでの他者への寛容は、あたかも自分たちが昔からその土地の正当な所有者であったかのようである。

このような指摘に対する反論としては「古い時代の倫理観を現代の倫理観で量ってはならない」「聖書がすべての歴史事実を伝えているのではないのと同様に、倫理的出来事についてもすべてを伝えているのではないのでそれらの行為の最終的な判定は行えない」などが考えられる。

しかし前者については、イスラエルは民族の歴史の早い段階から「殺してはならない」「盗んではならない」という十戒を有する民であったことを指摘すれば十分であるだろう。アブラハム契約の実現は、その遂行以前に神から与えられていた十戒に照らされて行われなければならなかったはずである。

したがって現代においても、アブラハム契約はイスラエルの権利の正当な根拠としてではなく、パレスチナへの彼らの不当な権利に対する制約と歯止めとしてこそ思い起こされねばならないものであるだろう。

また後者については、聖書が神的事実あるいは歴史上の事実すべてを我々に伝えているのではないことと、倫理的な出来事に関する不言及を同列に考えてはならないことを指摘しておきたい。

神や人間に関わる事実のすべてに言及していない聖書は、論理学用語で言うところの「不完全」である。ただし言及されている限りの記事においては誤りがないという意味で聖書は、やはり論理学用語での「健全性」が保たれているとみられるのである。このことは「聖書が提供する知識の不完全さをもって誤りとみなしてはならない」という無誤論者にみられる主張とも合致している。

ただし倫理的出来事に関する言及的「不完全」はただちに「不健全」につながる。一般に、不法行為に対する見て見ぬ振りはそれへの加担とみなしうるからである。

ダビデの非常識な行為や、アブラハム契約の原理主義性について聖書に倫理的不言及があるならば、それは不作為や黙認である。

私は上に挙げた事例については、聖書に不作為や黙認があるのではなく無意識があるのだと思う。そうでなければこの事態は聖書のさらに悪い倫理性を示すものになってしまうからである。

しかしいずれにしてもこれらのことのゆえに私は聖書を倫理的に完全であるとは思えずにいる。

イエスの教えについてもいくらかの異議を申し述べることができる。イエスは「誰が一番偉いか」を論じ合っていた弟子たちに対し、

「またわたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者はむしろ大きい石臼を首にゆわえつけられて海に投げ込まれた方がましです」(マルコ9.42)

と教えた。ここで「まし」と言われている比喩の内容に関しては、しかし実際にそのようにして殺害された人とその遺族が現代までに少なからずいるのであるから、これがたとえその場にいた弟子たちにだけ語られたものであったとしても、聖書に記されることになる比喩として不適切といわなければならないだろう。

よく知られた「放蕩息子のたとえ」の中で、イエスは養豚業を卑賤な仕事として語っている。しかしこれはその職業に対する当時の社会での見方を引き合いに出して語っているだけなので問題はない。それはイエスの考えではなく社会の考えである。しかし上の「石臼」はイエス自身によるあまりにひどいたとえようである。