第一部 信仰論 星加弘文

Chapter 2 キリスト教への接近を妨げる諸見解 (12)

Argument 1-3 「キリスト教倫理の非事実依拠性」と私の聖書信仰

日本における聖書信仰の拠点といえる神学校「聖書宣教会」が2018年に出版した『聖書信仰とその諸問題』という書物に、「無謬」の意味の変遷が次のように紹介されている。

それによると、聖書信仰においては「無謬」という語が伝統的に使われていたが、

「聖書批評学の興隆の中で、聖書には歴史的科学的記述の面では若干の誤りがありうることが主張されるようになり、その結果、『無謬性』の意味は縮小して『信仰者を教理や道徳的な問題に限って誤って導くことがない』ことを意味するようになっていった」

とのことである。

元来「無謬」は、聖書の歴史記事を含めた聖書全般の真実性を示す語であったが、聖書批評学との折り合いから意味が変わっていき、その中で、本来の「無謬」の意味を維持するために「無誤」という新たな用語が登場した。したがって現在では、「無誤」の立場が「本来の意味での無謬」すなわち聖書信仰の立場であるとされる。論理的にもっともな説明である。

では現在の「無誤」は、本来の「無謬」の何を守ろうとしたのか。「無誤」の立場では大きく分けて二つのことが主張されている。

一つは、先に述べた聖書の100%の正しさについての信仰を主張することであり、もう一つは救いに関する広い意味での事実依拠性を認めるべきことの主張である。これらは二つとも上の書物に述べられている。

このうち聖書に対する「事実100%信仰」については先の節で批判した通りであるが、私がこれを拒否するのは、聖書のどこかに誤った記述があるという判断によるのではない。この点は、前節に述べた倫理的に誤っている箇所があると判断するゆえの聖書への「倫理100%信仰」を拒否するのとは違っている。

「倫理100%信仰」に関して付け加えれば、聖書は救いについて漸進的啓示を完了しており我々に完全な情報を伝えていると理解すべきだが、倫理について聖書は漸進的啓示未了ともいえる状況にあり、例えばパレスチナの土地問題、動物の地位と食肉問題、離婚の問題、礼拝での女性のかぶり物の問題等々について、聖書に書かれているままを実行していればよいというわけではないと私は判断する。

つまり、聖書に書かれている事柄のうち、救いに関わる出来事として記されている部分すなわち我々の信仰の持ち方に関わる部分と、命令として記されている部分すなわち我々が信奉すべき道徳に関わる部分に対する解釈の原則は別でなければならないと私は考えている。

前章(Chapter 1)に、キリスト教信仰について、聖書が伝える「意義」のみを受け取ればよいとする啓蒙主義的理解は誤りであって、聖書の記事は事実依拠的に受け取られなければならないことを述べた。しかしキリスト教倫理に関しては逆であり、聖書に書かれた命令は事実依拠的に受け取ってはならず、むしろ啓蒙主義的に解されるべきであるということである。

前節にも触れたヨシュア記に記録されているパレスチナ侵攻が、当時においてすでに原理主義的であることは否めない。あるいは旧約聖書には「地は暴虐に満ち」という記載があり、そのことからは力をもってしか平和を達成できない状況があったということは想像される。しかしいずれにせよ、これを現代において実行することは、ヨシュアの時代に勝って悪しき原理主義となる。

キリスト教倫理は、聖書に記された命令を字義通りに重視すべきなのではなく、その倫理的な教えによって意図されていること、その命令が聖書に記された当時の社会でどのような意義を有していたかということが、可能な限り高い抽象性をもって汲み取られる必要がある。そして命令として記された具体例そのものではなく、その意味や精神が現在の状況で再現される形態において実行されなければならない。

この原則の正しさは、新約聖書に書かれている命令のうち、例えば「奴隷たちよ。すべてのことについて地上の主人に従いなさい。コロサイ4.22)や、「教会では妻たちは黙っていなさい。彼らは語ることを許されていません。Ⅰコリント14.34)のような箇所を検討してみればすぐに分かることである。

聖書に記されたこれらの倫理は明らかに実践的なものとして、すなわち当時の社会に対して即時的に機能するものとして記されているのである。これを、後の変化した時代状況において実行するということは、当然、その文字通りのことを行うということではなく、当時の社会状況でその命令が意味したところを実行するということであるだろう。

信仰者が原理主義に傾く要因の一つは、信仰と倫理における聖書記事の扱いの無区別にある。信仰においては聖書に書かれている事柄を原則字義通りに受け取ることが重要だが、これにこだわることが、その「事実依拠性」を倫理的教えにも適用することにつながってしまう。

言いかえれば、聖書に対する啓蒙主義的理解を警戒するあまり、信仰に関わる事実と倫理に関わる命令の区別なしに、聖書の記事すべてについて啓蒙主義的理解を拒み、そしてそれを正しい聖書解釈であると思い込みがちであるということである。しかし「事実依拠性」は信仰に関わる出来事の記事に対して維持されるべきものであって、倫理的教えに関しては非事実依拠的な解釈を採用することが適切な解釈原則なのである。

しかしこのことは、キリスト教倫理に関する当論考のこれまでの考察と矛盾するのではないかという疑問を引き起こす。というのも Chapter 1 で、キリスト教倫理が、カントの厳格主義倫理などとは異なる事実依拠的な性格を持つ倫理であることをみてきたからである。

Chapter 1 - Essay 3 に引用したジョン・ヒックによれば、キリスト教倫理は、「イエスが教える世界のありように照らすとき、そう振る舞うことが我々にとって益となるような生き方」を命ずるものである。そこでは「神の恵みが与えられた世界」という信仰に立った世界認識が行為に先行しており、それゆえキリスト教倫理は世界の事実に依拠した倫理といえるのである。

しかしながら、ここでは次のことが理解されなければならない。それはキリスト教倫理としてひとくくりにされている概念には2種類の倫理が含まれているということである。

Chapter 1 で見たのは、イエスが教える世界の事実に基づくところから生じる生き方、すなわちイエスへの信仰から生じる倫理であるが、それとは別に、聖書に直接的な命令として書かれているところから生じる行動規範としての倫理が存在する。前者を「信仰に基づく倫理」、後者を「命令に基づく倫理」と呼ぶことにしよう。

キリスト教正統信仰において「信仰の事実依拠性」が重要な聖書解釈原理であることはすでに述べてきた。それは聖書に対する啓蒙主義的理解に陥らないための解釈原理である。

ただし「解釈原理」と言っても、「信仰の事実依拠性」のそれは、聖書に書かれた出来事をそのまま実際に起きたこととして認めるということであるから、むしろ聖書記事を解釈しないというのが適当であるような聖書解釈法なのである。そしてこのことが、「信仰の事実依拠性」を「聖書の文字通りの受け止め」と同じ意味にしたのである。

そこで「信仰に基づく倫理」においては、「信仰の事実依拠性」と同様に「聖書の文字通りの受け止め」という原則が働く。信仰者の生き方は聖書に出来事として記されている文言、また聖書に世界の事実として教えられている文言と密接な関係のうちに置かれる。「信仰に基づく倫理」とは「信仰の事実依拠性に基づく倫理」であり、それは聖書の文言と切り離すことはできない。

しかし、ここで啓蒙主義的解釈を行うべきとして扱うキリスト教倫理は、「命令に基づく倫理」のことであり、こちらは聖書の文字に縛り付けられたものとして理解されてはならない。「事実依拠性」とは、それが信仰のであれ、倫理のであれ、聖書が記す「事実」の文言に依拠することを言うものであって、「命令」の文言に依拠することを言うものではない。それゆえ「事実」依拠性と呼ばれるのである。

キリスト教における「事実依拠性」とは

「出来事に関する聖書の記事を字義通りに受け取ること」であって、

「命令記述を字義通りに受け取ること」ではない、

ということである。

そこでキリスト教正統信仰が「事実依拠性」によって保たれると考えるとき(私はそう考えるが)それは、聖書に書かれている「事実」に関する文言を文字通りに受け取ることを意味しており、聖書に書かれた「命令」を文字通りに肯定することを含んではいないと理解すべきである。

もしこの理解が誤りであるとすれば、キリスト教倫理は、例えば「女性のかぶり物」コリント11.5-6)に関するような小さな命令であれば、適当な解釈により、それを文字通りではない規則として受け取ることができるとしても、より大きな命令、例えば、パレスチナ地域に関する神の約束に関わる命令については、それが旧約聖書が記すイスラエルの歴史の根幹に位置付けられたものであるため解釈による別様の受け取り方は困難であり、パレスチナでのイスラエル優位という聖書が記す価値とキリスト教倫理は固く結びついたものになるだろう。

それはキリスト教信仰が聖書に書かれた価値観そのままを信奉することを意味しており、また、一般には信仰とはまさにそのようなものと解されていることから、この意味で人々にキリスト教を忌避させることになるに違いない。というのも、そのような信仰は特定の思想をもたらす導線の役目を果たす原理主義信仰と見られるからである。

実際、この傾向は日本の教会に認められる。例えば、20世紀後半の複雑なパレスチナ情勢の中で安穏と実施されてきたキリスト教団体主催による「聖地旅行」の類いには、イスラエル優先主義への教会の無批判な肯定がある。私が聞いた「聖地旅行」の説明会では、「アメリカとイスラエルがこの地域を押さえ込んでいるのでこの企画が実現できることになった」というアナウンスがなされていた。これが教会としてのパレスチナ地域に対するの正しい対処方であるのかは問題にされなければならないだろう。

新約聖書から倫理的記述のすべてを拾い集めてみると、その記載量が思いのほか少ないことに気づかされる。例えば、新約の代表的書簡であるローマ書全16章では12-15章が倫理的記述、すなわち「命令に基づく倫理」に当てられている。けっして少ない量ではないが、旧約聖書の律法記述の夥しさからすれば激減しているといってよい。

もっともモーセ五書に記されている旧約時代の律法はイスラエルの法律でもあり、そのため膨大な量になっているのだが、それでもなおすべての決まりを書き尽くすことはできず、彼らはミシュナーなどの律法書を聖書とは別に持つようになった。

しかしこの点で、新約聖書に記されている倫理命令は、旧約聖書の律法とは基本的に性質が異なっているのである。

その違いの一つは、律法と救いの関係における旧約と新約の違いである。
旧約聖書においては、まず律法があり、その履行によって救いと恵みが与えられるという「律法主義」が原則だが(キリスト教的観点からはそのようには見ずに、旧約時代においてもまず神の恵みが先行していたとするが、旧約時代の人々はそのようには理解してこなかった)新約聖書では、律法や倫理的行いは救いの条件ではなく、逆に、救いを得ていることが倫理的行為の実行を可能とするための条件になっている。

いくつかを拾い上げると次のようである。

「神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなた方は深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身につけなさい。」コロサイ3.12)

「主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。」コロサイ3.13)

「ただ、キリストの福音にふさわしく生活しなさい。」ピリピ1.27)

「召しにふさわしく歩みなさい。」エペソ4.1)

「愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。」エペソ5.1)

「神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。」ヨハネ4.11)

これらでは救いを得るために何々をせよではなく、救いを与えられたのだから何々をすべきということが述べられている。

私自身の経験を思い返してみると、若い時分に私は両切りの紙巻き煙草を好んで吸っていたので、洗礼を受ける場合にそれをどうすべきかを牧師に尋ねたことがあった。牧師は「信仰後の問題として考えてください」と言ったが、その導きは上の聖書の文言に照らしてまったく妥当なものだったといえる。

つまり聖書が教えようとする倫理は「与えられた救いにふさわしくあれ」ということであり、聖書の具体的な文言をその都度指し示すものではないということである。キリスト教倫理はまず倫理の動機を与えるものであり、聖書の文言に縛り付けようという性質のものではない。

旧約と新約における倫理の違いのもう一つは、先に触れた命令の記述量の違いとして表れているところのことである。

上に引用した文言にも認められることだが、新約聖書では個別的・時代的な倫理的命令の他に、倫理の大原則といえる規則が示されている。旧約聖書には、イエスが示した「二つの大切な戒め」(マタイ22.37-39)が含まれていることから、キリスト教的観点からはこれを新旧約の律法の連続性として理解するが、旧約時代の人々はこの倫理の大原則に従うというのではなく、細かなきまり全部に従う生活様式を神のみ旨に適うあり方だと考えてきたのである。

しかし、新約聖書には次のように記されている。

「律法の全体は、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という一語をもって全うされるのです。」ガラテヤ5.14)

「ほかにどんな戒めがあっても、それらは、『あなたの隣人を、あなた自身のように愛せよ』ということばの中に要約されているからです。」ローマ13.9)

「律法全体と預言者(旧約聖書全体の意)とが、この二つの戒めにかかっているのです。」マタイ22.40)

新約聖書に書かれている他の個別的な命令や勧め、例えば、食べ物について、結婚について、教会内での女性の立場についてなどの教えは、すべて「神を愛し、隣人を愛する」というイエスの「二つの戒め」の大原則に基づいて、一世紀当時の社会状況、教会的事情から具体的なものとして書かれたといえる。

そうであれば現代においては、これらの個別的な聖書の命令は、その字義に捕らわれてはならないだろうし、むしろそれを文字通りに受け取って現代の規則とすることは、新約聖書が示す倫理の大原則を妨げるものとなる。

このことは、新約聖書が旧約聖書と違って多くの規則を持たないことから規則に漏れが起こっていて、それゆえ聖書に記されていない事柄については、イエスが示した「二つの戒め」をもってその判断原則とせよということだけを意味するものではない。

聖書の個別的・具体的命令は旧約・新約を問わず、時代制約、社会制約の中で書かれたものである。それゆえ聖書に実際に書かれているそれらの個別的・具体的命令についても、各時代において、イエスが示した倫理の大原則からその都度判断し直されなければならないのである。

聖書に書かれた命令は、すべて現代の状況に合わせて考え直されていくことが、新約聖書が示すキリスト教倫理のあり方であると私は理解する。

そこで、現代の危急的な問題であるイスラエル国家の施策についても、教会は判断を新たにしなければならないはずである。旧約聖書に記されたイスラエル優先の神の意向は、現実のイスラエル政府の振る舞いの善し悪しとは無関係である。

イスラエル民族を選ばれた民であると認めることは、彼らの振る舞いを善良と見なさなければならないことを意味していないし、また、彼らが良かろうが悪かろうが、イスラエルが神に選ばれた民であることが揺るがされることはない。神の選びは善悪を超えているのである。

そうであればなおのこと、教会は、現在のイスラエル国家が行っているパレスチナ政策に対する評価をしっかりと行うべきなのである。そもそも旧約聖書に記されたイスラエル民族の歴史は、彼らが繰り返し神の意に反することを行ってきたことの記録ではなかったか。その度に、神はイスラエルに士師、預言者を遣わして彼らの悔い改めを促したというのが旧約聖書全体を貫く主題なのである。

繰り返すが、イスラエルが選ばれた民であることを認めることと、イスラエルの振る舞いを肯定することは別問題である。どういう訳か教会はこの点で、イスラエルの振る舞いを否定すると聖書に記されたイスラエルに対する神の約束を認めないことになるのであるかのような稚拙な誤りに陥っている。

現代のイスラエル政策を支持する人は、今がアブラハム契約の実現のその時であるということを何によって判断しているのだろうか。

かつてイエス・キリストが来臨した一世紀の時代、イエスを迎えたユダヤ人たちはまさにそのように考えて熱狂的な期待を彼に注いだ。彼らはダビデ王朝、ハスモン王朝に次いで三たび、ユダヤを諸外国から自分たちのものとしてくれる「ユダヤの王」をイエスに期待したのである。

しかし、イエスは彼らの期待とは完全に異なる振る舞いをした。それゆえ期待を裏切られたユダヤ人らはイエスを十字架につけたのである。

キリスト教会は、イエスをユダヤの王にしようとした当時の人々の考えを、神のみ旨に反する愚かなこととして語ってきた。その一方で、しかし教会は自らが語るイエス受難のできごとから何も学んでいない。

というのも、キリスト教会は現代こそがアブラハム契約の成就の時であるかのように、イスラエルを支持しているからである。しかし、一世紀のユダヤ人たちの願いは愚かだったが、現在の彼らの願いは愚かではないとする根拠はどこにもないはずである。

このことは、アブラハム契約の有効性を反故にすることではない。ただ、20世紀におけるイスラエル建国がまさにアブラハム契約の成就であるということは、誰にも断言できないことであるはずだということである。

そこでユダヤ教とは明確に一線を画すキリスト教は、アブラハム契約においても、イエスが教えた倫理の大原則が優先すると理解すべきであるだろう。ユダヤ教徒が旧約聖書の一字一句に拘泥し、律法を文字通りに守ることを務めとするのは、そうすることでアブラハム契約の字句の有効性を神に強要しているかのようである。しかし、アブラハム契約はそのような律法主義には拠らず、ただ神を愛し隣人を愛するというイエスの教えが優先される中で必ず実現の時が来るのである。

命令に基づく倫理」は聖書の文言と密着していない。それゆえ我々はキリスト教倫理を聖書からある意味自由であるものとして、イエスが教える大切な二つの戒めによって作り上げていく責任があるということになる。このときに働く原則が「キリスト教倫理の事実依拠性」である。

当章 Parable「超宗教とメートル原器のたとえ」で、キリスト教においては超宗教という考えが成り立たないことを述べた。事実依拠性を持つキリスト教は確かにその通りである。しかし、キリスト教が「倫理の非事実依拠性」を持ち、倫理を聖書の文言に縛られないものにできるとするとき、キリスト教は他宗教と倫理面における共有と協同が可能になる。これによって社会でのキリスト教の宗教的共同性が確保されるのである。

キリスト教における信仰と倫理をある程度分離するこの理解は、当章 Essay 2 に述べた、「キリスト教は他者の真理を脅かすが、他者の権利を脅かさない」「社会が必要とするのはキリスト教が説く『至高の真理』や『まことの愛』というのではなく、ただ人権と自由の最低限の保障である」という考え方と整合性を持つ。

さて、聖書信仰について言えば、上に述べてきたことを省みて「道徳的な問題について誤って導くことがない」とする聖書信仰は、無謬、無誤の立場を問わず問題が大きいといわなければならない。「救いについて聖書は100%正しく導く」という聖書信仰は、聖書信仰そのものが持つ神学上の問題を除けば実害のないものだが、「倫理について聖書は100%正しく導く」という聖書信仰は、それが倫理命令の字義通りの受け止めを意味するとき、実際上、非常に大きな問題を引き起こす。救いとセットにして聖書の倫理までを固定化して信奉する人々は原理主義的である。

「事実100%信仰」に話を戻そう。聖書の歴史記事については、ヒゼキヤ王の時代に「日時計の影が10度逆戻りした」など、一部の奇跡について困難を覚えるのは事実であるが、私が「事実100%信仰」を拒否するのはすでに述べたとおり、これを主張する論理が正しくないことと、「事実100%信仰」でなくても神の完全性が損なわれることはないという理解による。

聖書を100%正しいとすることの本来の目的は、「無誤」におけるいま一つの主張である「救いに関する広い意味での事実依拠性」を守ることにあると思われる。実際、次のように述べられている。

「聖書記事の一節一節においては歴史と教義の区別は困難である。しかし、われわれは信仰として教義を受け入れなければならないことは絶対条件であるから、教義部分と区別が困難である歴史記事もいっしょに信じるより他に方法はない。これが聖書信仰が必要である理由である。」[1]

このようなことから無誤論者は「小さな誤りを認めることはより大きな誤りを認めることにつながる」といった危惧を語ることになる。

イエスの出生、活動、死、復活などの記事は救いと信仰に直接関わる歴史記事であるが、それ以外の事柄、極端な例では、旧約聖書での先の日時計の件(列王記 第二)や、ダニエルの友人三人が高温の炉の中を平気で歩いたという記事(ダニエル書)の真偽が我々の救いと信仰に関わることであるかどうかは明言できないと私は思う。

しかしこれらの記事の真実性を簡単に否定してしまうと、それによって「聖書は我々に事実を伝えている」という事実依拠的な聖書観に変化が起こり、創世記の宇宙創生の記事、人間創造の記事、男から女を造ったという記事、エバがエデンの園で知恵の木の実を食べて罪を犯したなどの記事が、比喩や神話でもかまわないとする道を開くことになる。そうなるとキリスト教信仰の性質は、当初受け止めていたものとは違うものになっていくように思われるのである。

そこで聖書に対する「事実100%信仰」はこの危険を防ぐために設けられた防護柵であって、100%であることそのものを目的としたものではないと私は理解する。

イスラエル民族はモーセの十戒を中心とする旧約律法「トーラー」を守るために、それを犯さない用心として「ミシュナー」や「タルムード」という別の律法体系を構築して「トーラー」の回りを何重にも防護してきたが、「事実100%信仰」はそれと同じようなことといえる。

確かに聖書を100%正しいとしておけば、聖書が事実を伝えていることを否定する可能性を完全に排除できる。それは「堤防の一箇所が破られればやがて全体が崩壊する」という聖書の危機を回避するための賢明な方策であるのかもしれない。

しかしイエスの時代に、イエスは同族民の生活ぶりを「律法主義」として非難したのであるように、やはり「事実100%信仰」は律法主義的な考え方なのである。彼らが律法の本質を見失って律法を守ること自体を目的化したのと同様に、聖書の何が守られねばならないかが二の次とされ、ただともかく聖書の全てを正しいとしておけば安全という意識が現代の無誤論の根底にあるように感じられる。

確かに先のカンツァーが述べているとおり、信仰の正統性が保たれるために、聖書のどの部分の正しさが信じられていなければならないかを線引きすることは困難である。しかし、線引きが難しいからといって100%のところに線を引いてしまうのは安易であり、それは粗雑な議論を招く行為であるだろう。

私が支持する聖書信仰とは「無誤から100%信仰を除いた立場」、あるいは「救いに関わる広い意味での事実依拠性を保つ信仰」ということである。現代の「無誤」が、本来的意味を失った「無謬」から守ろうとしたのは、人間の救いに関わる歴史記事についての真実性であり、ただし、その範囲は現在の「無謬」の人々が考えるよりもはるかに広いものとして理解される。

すなわち人間の救いに関わるのは新約聖書のイエス・キリストの記事だけではない。

天地創造という人間の存在出自に関わる旧約聖書創世記の記述は、人間が神と関わりのある存在であることを示し、それゆえに罪の赦しや救いといった事柄を初めて有意味とするものであるから、これは救いに関わる事柄であると考えられなければならない。同じく創世記のアダムの堕罪記事や、イスラエルという民族国家に対する神の扱いとしての歴史記事なども神の救拯計画に含まれるため、事実や歴史に関するこれらの聖書記事は基本的に誤りのないものであることが要求されると考えるのである。

そしてもし、こういった「救いに関わる広い意味での事実依拠性」に誤りがあることが明らかとなった場合、例えば、上に挙げた創世記の記事が解釈の余地を超えて事実とは異なることが仮に明らかになった場合には、私自身キリスト教というものを見直し、キリスト教を事実依拠的ではないものとして再認識し、正統主義信仰の誤りを自らに宣言して現在の立場を離れなければならないと考える。

実際、正統主義ではないキリスト者たちの何割かは、この事態を経由して現在の立場に至っていると考えられるのである。

事実依拠的ではない種類の信仰であれば、そもそも信仰に認識上の誤りがあるという事態はありえない。どんな状況に直面しようともただ信じるところに立ち続けていればよいのである。

しかしキリスト教正統信仰は事実依拠的信仰であり、誤りの可能性と隣り合わせの信仰である。我々は正統信仰が修正や破棄の可能性を孕んだ信仰であることを理解しつつ、しかし次章(Chapter 3)に明らかにするイエスに対するある確信のゆえにこの信仰を保っているのである。

さて、上に述べてきた聖書信仰の内容は、次節に述べる「ローテの原理」において獲得されたものであるときに「私の聖書信仰」となる。イエスを信じる以前に求められる聖書への信仰はどのようなものであれ私は支持しない。このところを次節以下に明らかにしておこう。