第一部 信仰論 | 星加弘文 |
「聖書は誤りなき神のことばである」という聖書信仰の「誤りなき」についての議論は以上である。
続いて、聖書を「神のことば」とする聖書信仰の根拠について考えてみたい。キリスト教徒ではない人にとっては、こちらの方がいくらか興味の持てる主張であるだろう。
聖書を「神のことば」と信じる理由としては、「聖霊による内的確証」(カルヴァン)、「神論からの演繹」(プリンストン神学)、「イエスの信仰」(ローテ)の三つが挙げられる。
しかし前二者について、それを「根拠」と呼ぶのは憚られる。聖書を信ずる根拠が、聖霊や神というこれまた信仰を要するものであるならば、聖霊や神を信ずるための根拠がさらに求められることになる。
また、もしそれが「聖書にそう書いてあるから」ということになれば堂々回りである。聖書と神と聖霊への信仰は、いずれがいずれの根拠であるというよりは、そのいずれもがイエスがそれを教え、そのイエスを信じるゆえに信じえるものであって、相互の導出関係はないと理解すべきである。
そこでイエスへの信仰が聖書信仰の鍵となるが、根拠の三つめに挙げられている「イエスの信仰」とは、我々のイエスへの信仰のことではなく、イエス自身が聖書を神のことばと信じていた、あるいはイエスにおいてはそれを「知っていた」という、そのことを指すものである。
キリスト教信仰はイエスをキリスト(救世主)として信じることであるが、それは彼を神とすることとほぼ同義であるので、そのイエスが支持していたものや信じていた事柄などは、すべて我々もまた支持し信じるのでなければならないとすることには必然性がある。
実際、現在キリスト教徒である者が、「神」はともかくとしても、「聖霊」というおそらくはキリスト教を知る以前にはなじみのなかったものを信じているのは、取りも直さずイエスがそれを教えたからに他ならない。イエスは神を「父」として、聖霊を自らが世を去った後の「神の働き手」すなわちいま一人の人格神として教えた。
そのためキリスト教信仰には、イエス・キリストへの信仰だけではなく、父なる神への信仰、我々に与えられた聖霊への信仰が含まれるのである。
聖書への信仰もこれと同様であって、イエスが「聖書は神のことばである」ことを信じ、その確信に基づいて人々を教えていたのならば、イエスのゆえにそのことを信じるのが道理である。
20世紀前半の神学者B.B.ウォーフィールドによる『聖書の霊感と権威』は、この点を明瞭に伝えている書物である(それにしても物々しい表題だが)。
2015年に出版された『聖書信仰―その歴史と可能性』(藤本満著)では、プリンストン神学校校長であったウォーフィールドについて、「神論からの演繹」による「聖書のアプリオリな無誤性(ア・プリオリ=経験や観察に拠らずという意味)」を主張する堅物として批判的に言及されているが、少なくとも日本に紹介された上の書物においてその傾向はみられない。
そこに述べられているのは、イエスや聖書記者が聖書を神のことばとして信じていたことの例証、そしてその限り我々もまたそのように信じなければならないこと、しかし聖書への信仰は広範囲に亘るキリスト教信仰全般の土台となるべきものではなく、信仰における一つの、そして最後の「冠」として位置づけられなければならないという三点である。
イエスが旧約聖書を「神のことば」として扱い、また聖書記者が後に新約聖書に収録されることになるパウロの手紙類を「神のことば」として扱っていたゆえに、聖書はそのようなものとして受け止められなければならない、という聖書信仰の根拠に関する主張は、ウォーフィールドだけではなく、J.I.パッカー『福音的キリスト教と聖書』や、先に触れた「聖書宣教会」発行の書物にも述べられている。
この考え方はいわば「聖書信仰の決定版(パッカー)」であり、私もこれに同意する。特に、ウォーフィールドの著書では、イエスや聖書記者が、聖書の文言を神のことばとして扱っている具体例を聖書中の夥しい箇所に指摘しており、これについては異論の余地なしとしてよい。
イエスは旧約聖書の文言を引用しつつ「神はこう言われた」と述べており、旧約聖書を神のことばとして扱っていることが明白である。
しかもそれは内容的に厳格とみえるモーセ五書などに限らず、より自由な内容を持つ詩篇からの引用においても行われており、このことからイエスは聖書の特定箇所についてだけではなく、聖書全般を神のことばとして扱っていると理解するのが妥当とされるのである。
もちろん聖書を頭からまったく信用しないという人にとっては、このような「イエスが聖書をどう扱ったか」に関する記事もまた信用できないため、ウォーフィールドの指摘は意味をなさなくなるが、現在、聖書を何ら信用できない書物と考える学者はキリスト教徒ではない学者においてさえいないといってよい。
ウォーフィールドはまた、この考えが19世紀ドイツ自由派(ルター派)の神学者リカルド・ローテの考察に由来するものであることを伝えているので、ここではこの聖書信仰の根拠を「ローテの原理」と呼んでおくことにしたい。
このように、聖書信仰を特別なものとは考えずに神や聖霊を信じることと同種の原理において信じられるべきものとし、我々にとっての信仰への「狭き門」はイエスその人だけにするというのは、「神と人との唯一の仲保者キリスト」という歴代の教会信条に照らしても理に適ったことである。
そしてこれにより、先のEpisode で、私にとって「二重の門」となっていた信仰への入口は「狭き門」一つとすることができるのである。すなわちイエスをどのように信じえるかということこそが唯一最大の課題であって――私の「信仰論」もそれを明らかにすることが目的であるが――そのことだけでさえ十分に難しさがある。
しかしその「狭き門」に入ることができれば、神についても聖霊についても聖書についても、それを信じることの責任はイエスに負ってもらうことができ、我々がその是非を自分に問う必要はなくなる。これがキリスト教信仰の基本的な方法である。聖書信仰の根拠としてのイエスが、同じく根拠として挙げられている神および聖霊と異なるのはこの点である。
それゆえ我々の信仰の成立には順序があり、まずイエス、そして神、聖霊、最後に聖書や終末や天使、天国等諸々ということである。私はこの順序をもって信じられた聖書信仰を支持する。しかしイエスに対する信仰よりも前に置かれた聖書信仰は支持しない。
ウォーフィールドもまた次のように述べている。以下、「十全霊感」とある語は「聖書信仰」と同義と解して差し支えない。
「われわれはキリスト教体系の全体を、十全霊感の教理の上に築くのだと言ってはならない。われわれが天使の教理の上にキリスト教体系全部を基礎づけるようなことはないように、十全霊感の教理の上にも基礎づけはしないのである。聖書の霊感はキリスト教教理の最も基本的なものではなく、われわれが聖書に関して立証する第一のものでもない。それは聖書に関して最後の、しかも冠のような事実である。われわれは聖書が霊感されたことを立証するよりも前にまず、聖書(の著者性など)が真正であること、歴史的に信用すべきものたること、総じて信ずるに足ることを立証する。」
「われわれは、十全霊感の教理がキリスト教信仰の基礎だとは考えないが、しかしこれが新約聖書記者たちによって主張され、教えられたのであれば、われわれはこれをキリスト教信仰の中の一要素、極めて重大かつ貴重な一要素…と考えるのである。」
聖書信仰はあくまでも信仰の一要素であって、しかもそれは信仰の「基礎」というのではなく「第一」のものでもない。それは「最後の」「冠」のようなものであり、聖書の信頼性については著者性や歴史性を学問的に明らかにすることが重要であるということである。
「ローテの原理」と合わせたこのようなウォーフィールドの聖書観は、信仰的方法と理性的方法のバランスがとれたものであり、保守神学においても健全なものといえる。
しかしこのような聖書信仰の捉え方が、聖書信仰を信仰の基礎、聖書論を知識の初めとして重視する現代の日本の保守神学のあり方とはずれがあるのは明らかである。
それゆえ先の聖書信仰に関する日本の大御所の書物(聖書宣教会刊)において、ウォーフィールドのこの著作が「日本の聖書信仰にとって大きな助けとなった」