第一部 信仰論 星加弘文

Chapter 2 キリスト教への接近を妨げる諸見解 (14)

Argument 3 聖書信仰と聖書批評学の関係

「ローテの原理」は聖書信仰の根拠を「イエスの信仰」イエスへの信仰」ではない)に還元し、それによって我々に聖書信仰を可能とさせ、正統信仰を保たたせるものである。イエスを信じることができれば、「彼の信仰」に基づいて聖書が神のことばであることを受け入れることができる。ここで「受け入れる」とは、理解できない事柄を受容するときのことばである。

それゆえ聖書信仰の鍵は「イエスを信じえるか」という問題に帰着することになるが、これはキリスト教ミッションの課題そのものである。したがってイエスへの信仰の可否を問うことが、聖書信仰可否の答えともなり、これをもって聖書信仰の問題はとりあえず完結することになる。

しかしながら、ここで完結を見た問題というのは「聖書信仰の可能」[1] に関することであって、これをもって近現代の聖書批評学に対する保守神学からの答えとすることができるというのでは全然ないことは理解されなければならない。

ただしこのことは、ウォーフィールドやパッカーが実際に述べている聖書信仰の議論に誤りが含まれていることによるのではない。それはまた別の問題である。彼らの議論の誤りについては注を参照されたい。[2])ここで、聖書信仰が聖書批評学への答えたりえないとするのは以下の理由による。

「ローテの原理」による「聖書信仰の可能」はイエスおよび聖書記者の信仰に依存しているので、我々が直接、聖書信仰の正当性を証明したものではない。それは彼が信じるから我々も信じるということであるにすぎず、聖書信仰の正しさを、理性的考察において示したものではなく、またイエスがそう信じていたことの理由を明らかにすることで間接的な証明を与えたものでもない。

聖書批評学の場では、例えば、ブルトマンの「様式史」という手法によれば、ルカ福音書17章20節の「神の国はいつ来るのか、とパリサイ人たちが尋ねた」という記事について、終末に関心のないはずのパリサイ人がイエスに質問しており、そのことはこの福音書記者のユダヤ的無知を示しているので、この箇所がヘレニズム時代の伝承を始源とした句であることを合理的に推察させる、それゆえこの記事はイエス時代の史実ではない、といった判断が行われる。[3]

この見解の是非はともかくとして、このように何らかの根拠に基づいて行われる主張に対して、「いや私はイエスゆえに聖書を史実と信じる」と宣言することが、噛み合わない反論であることは明らかである。ここで噛み合う反論とは、例えば、「パリサイ派は終末に関心がないのではなく否定しているのである。彼らは終末についてすでにサドカイ派と論争していた。この記事は同様のことをイエスにも仕掛けた事実を伝えたものと理解される」というような論証であるだろう。たとえこの反論が間違っていたとしても、それは噛み合う反論である。

物事の「正しさ」には数種類の近接概念があり、そこで求められている「正しさ」に対して、別種の「正しさ」で答えてしまうということがある。前章 Chapter 1 - Essay 4では、「ある人」が「新約聖書の価値は福音書の記事が事実であるか否かに関わらない」と主張したことに対して、ブルースが「聖書へのその見方はキリスト教ではない」と回答したのを見た。

「ある人」は、キリスト教の倫理的価値の在りかを問おうとしたのだが、ブルースはキリスト教の正統的定義をもって答えとしたのである。ここでは倫理的「正当性」への問いが、宗教的「正統性」によって答えられており、提起された問題と回答が噛み合っていない。

このような食い違いが起こるのは、ここでの「正当性(legitimacy)と「正統性(orthodoxy)が共に、それぞれの立場が考える「正しさ」というものに含まれているからである。「正当性」「正統性」「可能性」「必然性」などはいずれも「正しさ」の近接概念である。

これと同じく、聖書批評学において学問的考察に基づいた主張が行われているときに聖書信仰で答えるというのは、当の判断についての理性的な「妥当性」が主張されているときに、別の判断の成立「可能性」をもって答えているということである。

ちょうど事件ドラマで特定の犯人の証拠が挙がっているときに、主役の刑事が別の犯人の可能性を主張するのに似て、このときの主役刑事の推論は、それらの証拠に対する反証にはなっていない。このため視聴者にとって面白味のある主役刑事の推論は、出来の悪い刑事たちからいったん否定されるのが「お約束」である。

ある主張に対してどのような種類の「正しさ」をもって答えるべきであるのかは、その主張が最初に提出された時点で決まることであり、回答する側が任意に決めてよいものではない。それが「回答」を意図するものである限り、理性的な妥当性を主張するものに対しては、同じく理性的な妥当性によって答えなければならない。主役の刑事も自身の推理を唱えるだけではなく、その確たる証拠を求めて奔走しなければならないのである。

聖書信仰に関する書物にも、この点について若干の反省的言及が見られる。

「福音派が問われている問題の一つとして、『聖書批評学をめぐって議論が十分に深められてきたとは言えない』[4]

「福音派は今こそ、無意味な無誤性論争から解放され(略)、境界線思考(略)から脱却して、中心点強調思考に体質を改善しなければならない」[5]

しかしこれらの反省も保守派の総意というには至っておらず、無誤/無謬の論争が飽くことなく繰り返されている大勢から判断すれば、保守派は聖書信仰の「可能」に満足し、それをもって主流派への対抗が成立していると勘違いしているようである。

聖書信仰がイエスへの信仰によって「可能」であり、そしてその信じ方は「正統」であり、さらにイエス自身の信仰のゆえにそれが我々にとって「必然」でさえあるとき、しかしそれでも聖書信仰は聖書批評学に対する答え足りえていない。そこでは聖書批評学が求める学問的「妥当性」をなお欠いているからである。

またその一方で、内向きな聖書信仰議論の反省に立ちつつ、主流派神学への対抗を試みようとする人々の方向性にも問題がみえる。というのは、保守派は信仰と学問を対立的に捉えてきた時期が長かったのが災いしてか、その反動のごとくに、新しい思想、新しい方法論に飛びつく傾向がみられるからである。

哲学史を読むと、新時代の思想というのは必ずしも前時代の思想を克服したものとして登場してくるのではないことがわかる。何らかのまとまった著作をものした思想家の思想が一時代の思想を形成するのであり、そこに前時代の思想の反省と克服の跡付けを行うのは後の思想史家である。

むしろ特定の思想についての直接的な克服と発展を担うのは「~学派」と呼ばれるようなアカデミックな学者たちの研究であることが多い。カントであれば「新カント学派」、ブルトマンであれば「ブルトマン学派」などである。

そこで「聖書批評学をめぐって議論が十分に深められてきたとは言えない」とされる現況でなされるべきであるのは、新しく登場してきたポストモダン的神学などに光明を見いだそうとすることではなく、ほぼ全ての聖書批評学が当然のごとく前提するカントの理性批判や、聖書批評学そのものの方法論を検討することであるだろう。新しいものが過去のものを克服しているとは限らないからである。

まず、自由主義神学や新正統主義神学が、なぜ正統主義から離反せねばならなかったのかを理解しなければならない。彼らが正統主義を離れたのは、それが正しい道と思えたからに他ならないからなのであるが、そこに対する理解なしには、彼らへの批判がいつまでたっても的外れであり続けることは明らかである。

例えば、保守派が支持するキリスト教哲学として、H.ドーイウェールトのキリスト教哲学がある。理性には隠された宗教性があるとし、理性の前提についての宗教性批判を展開することで、キリスト教信仰に基づいた理性使用のみが正しいということを確立しようとするものである。この哲学においては、カントが間違った結論に至ったのは彼が異教的な理性を使用したためとされる。

しかしカント哲学の克服のために「理性の宗教性」ドーイウェールトの用語では「宗教的根本動因」という新たな概念を用意して、『純粋理性批判』における「理論理性」を根本から問い直す必要はない。そのような大がかりな批判の前にやるべきことがある。

それは『純粋理性批判』の内部に立ち入り、特にその中心思想である「現象と物自体の分離」を検討し、シュライエルマッハーやリッチュル、ブルトマンらが影響され、キリスト教を改変させるに至ったこの思想が理屈として正しかったのかどうかを、信仰抜きの通常の理性の範囲、いいかえればカントがそう考えていたところの理性において調べてみることである。

そこでやはり、その範囲においてはブルトマンらの方向に進むことがやむを得ないことであったとか、あるいは通常理解されているような理性を認める限りカント哲学は覆せないという判断に至るのならば、そのとき初めて、ドーイウェールトのような理性に対する根本批判にも有用性の芽が出てくるといえる。

しかし私の理解ではその必要は全くない。「現象と物自体の分離」の主張を正確に取り出せば、その不整合部分も明らかとなり、この思想を受け入れたシュライエルマッハーらのカント理解が誤っていたことを明らかにできるのである。

この過程を飛ばして、いきなりカント哲学の根本批判に走るのでは、カント的理性を認める以上は自由主義や新正統主義の道しかありえなかった、いいかえれば「現象と物自体の分離」に対する彼らの同意は正しかったと認めていることになる。

その場合、彼らを批判するためにはカント哲学をドーイウェールトのように根本から否定するか、あるいはこれまでの福音派のように全面的に拒否する以外にない。しかしこのような対処は「過去の全哲学がカントに集約し、現代哲学のすべてがカントに出発点を持つ」とまで言われるカント哲学から何も学ばないことを意味する。

しかしカント哲学は現代的視点からみて全部が間違っているのではなく、我々自身の考え方、いいかえれば我々の神学を反省する機会を与えてくれる有用な学説である。そして現代思想の理解のためには必須の哲学である。

認識上の二元論であるカントの思想から何を学ぶべきで、そこで陥っている誤謬が何であるかを明らかにするという方向でカント哲学を扱わなければ、すべての思想がこの哲学を経ているといえる現代の思想界において有用であるキリスト教神学を構築することはできないだろう。この論考ではここ「信仰論」ではなく「信仰と理性論」でカントを詳細に扱ってそれを試みる。

また同様に、聖書批評学の方法論を検討することは、一つの有効な方策であるだろう。

例えば、ブルトマンの「非神話化」は「超越的認識不可」を主張するカント的見地を仮定した上での聖書の成立過程についての解釈法だが、「史的イエスの第二の探求」とも呼ばれるブルトマン学派の方法は、やはりカントの理性批判を経由したものでありながら、考察範囲を内在事象に限定することで前提を極力排した分析を試みるものである。すなわち「第二の探求」での「史的イエス」では、史実のイエスがどのようであったかということではなく、史実のイエスについて我々が何を知りえるのかということが探求されている。[6]

「信仰と理性論」に述べるが、前者の方法は解釈学的・実在論的(後件肯定式推論)であり、後者は分析的・構成主義的(前件肯定式推論)であって考察の方法が明確に違っている。このためこれらを「聖書批評学」として一括りにみることは正しいことではない。

伝統的神学では古くから四福音書の調和などが試みられてきたが、その原則は相互の整合性を求める通常の合理的判断である。聖書批評学においてもそのような合理的判断を主とする考察と、「史的イエスの第一の探求」および現代の「第三の探求」でのように、何らかの前提や仮説に立った主張であるものが入り交じっているのである。

これらのものを検討して、保守神学において聖書批評学の何が破壊的であるのかを明らかにする作業が行われるべきである。やや古いが1983年に東京聖書学院から発行された『論集聖書』には20世紀半ばまでの主だった聖書批評学の方法論についての解説と批判が述べられているが、このような考察がもっと行われていくべきであるだろう。

神学は学問であるから進歩し続ける必要があるが、その性質上、宣教学などの実践的前線部門を除けば、時代の先端を行く学問である必要はない。特に組織神学や聖書神学などの中心部は哲学や科学に遅れること百年であって支障はなく、ただしそれらにおける重要な成果を消化したものとして発展することが大切だと私は思う。

現時点でいえば、超越領域に関わる認識を考察する18世紀のカント哲学と、人間の主体性キリスト教に即して言いかえれば、キリスト教が真理として提示するものをいかにして自分自身にとっての真理として受け取るかという問題意識を重視する19~20世紀の実存主義についてはとうに消化されていなければならず、また、真理概念を扱う20世紀前半の英米の分析哲学の成果までは取り入れられているべきである。

これら「超越」「主体性」「真理は、いずれもキリスト教にとってきわめて重要な概念である。しかし保守神学はこれらの思想を未だ不通過であって、それを拒否する資格もないというのが実状である。