第一部 信仰論 星加弘文

Chapter 2 キリスト教への接近を妨げる諸見解 (15)

Essay 3キリスト教の回心は必ずしも人生最大の出来事ではない

前節までの聖書信仰の議論は退屈でもあり気分を沈ませるものがある。それを主張する人々の信仰が私には嫌なのかもしれない。聖書に対する信仰は、ウォーフィールドが述べるとおり、「我々の信仰の最後の」そして「冠」としての位置づけがまったくふさわしいことと思えるが。

さて、口直しというわけではないが、章の最後にもう一つ、「他人の回心の証し」について述べておきたい。これがキリスト教への接近の妨げとなることがある。

教会の集会に出席すると体験談のようなものを聞かされることがある。それはたいていは牧師ではなく信徒による話しであって、体験談ではなく「証し」と呼ばれている。何を「証し」するのかというとイエス・キリストの存在をである。大それたことに聞こえるが「イエス様が私にどのように働きかけてくださった(と信じている)か」を話すことで、それが達成されるとしているのが教会の「証し」である。

このような信仰的な体験談が信仰の妨げになるというのはおかしなことに違いないが、私がそう感じるのは、一つはその話の立派さというかドラマチックさによる。

教会での「証し」がよくできた話になっているのは悪いことではないけれども、これを聞く人に「キリスト教を信じるためにはそんなに大変な経験をして、劇的な回心をしなければならないのか」という思いを与えてしまうのではないかと心配になることがある。彼らは立派な「証し」を聞いて、逆に信仰を遠いものと感じてしまうかもしれない。

しかし信仰を持つことは必ずしも人生最大の出来事なのではないということを私はここで伝えておきたい。

劇的な回心の「証し」をよく聞いてみると、おそらくは語っている本人が意識していない「仕掛け」があることに気づかされる。というのも、そのような劇的回心はたいていは彼らの青春時代の出来事なのである。

誰でも青春時代の出来事であれば、それが何であれ人生の中で一番大きな出来事となることに不思議はない。現在、「団塊の世代」と呼ばれている人たちが1960年代当時の学生運動を語る場面を目にすることがあるが、そこで彼らが熱情をもって語っているのは左翼思想ではなく自分の青春時代である。

それと同じく、教会の証しもそこで語られているのが回心というよりは青春イベントであることがある。

以前、ある教会の洗礼式で一人の高齢の男性が牧師の横に立たせられているのを見た。

牧師は受洗に臨もうとしている骨格のがっしりした目上のその男性について、「彼は元軍人であって見ての通りのいかつい男だが、いまやイエス・キリストの前に跪き悔い改めをする者となった。神はこのような人をも劇的に変えてくださる方だ」と香具師(やし)のような口上を述べた。

男性は無表情であったが、私には彼が神の宣伝のために大勢の観衆の前に引き出された人のように見えた。青ざめて立っているその人の無表情は当惑を示しているようにも見えた。高齢になって悔い改めたという彼に何があったのだろうか。

彼は戦場で何を見たのだろう、何をしたのだろうか。しかし確かなことは、いずれにせよその男性にとって人生最大の出来事はこのたびの回心ではなく、若い時代の戦場での経験であったに違いないということだった。

人生における最も大きな出来事というのは人生の中で一番辛い記憶であることが多い。キリスト教といえどもそれに取って代われないということもあるだろう。キリスト教信仰の重要さは、しかしその人の人生の最大の出来事になるところにあるのではない。悔い改めと回心は何番目かの出来事にすぎないかもしれないが、その人に確かな変化を与える出来事である。私はなお軍人の風貌をとどめる彼にそのような小さな、しかし確かな変化があったのだと思った。