第一部 信仰論 星加弘文

Chapter 2 キリスト教への接近を妨げる諸見解 (16)

     補論2 キリスト教倫理学モデル

〈キリスト教における信仰第一、倫理第二の構造〉

キリスト教信仰がどのような信仰であるべきかを定めるのは教義学であり、いかにしてその信仰にたどり着くことができるかを問題とするのが信仰論である。同様に、キリスト教倫理についても、それがどのような倫理であるべきか、また、その倫理はいかにして自らの倫理意識として持ちえるかが探求される。これがキリスト教倫理学の課題である。

キリスト教信仰が、単に聖書に書かれている信仰であるとしては定義できないのであるように、キリスト教倫理も、それを聖書に書かれているところの倫理であるとして定義することはできない。聖書に記されている命令の中には時代考証を必要とするものがあり、またすべての倫理規則が聖書に記されているわけではない。キリスト教倫理もキリスト教信仰と同様に、探求によってその内容を定める必要があるゆえんである。

したがって、当節に述べるキリスト教倫理は、聖書に記された諸命令を分析・総合してキリスト教倫理の定義とその実践原理を求めるものであり、それはまたキリスト者の倫理意識として求められるところのものでもある。当補論ではArgument 1-3で行った聖書倫理の分析に基づいてこれを行う。

なお、キリスト教信仰については教義学のほか、信条や信仰告白がその内容を定めてきた。しかし、そこで定められた信仰をいかに信じうるかについての確たる信仰論は存在してこなかった。ただ「聖霊が信仰を与える」とされてきただけであって、どの教会に尋ねてもこの答えを聞くばかりである。これは、初代教会において信仰がどのように確立されたのかが理解されてこなかったことがそもそもの原因である。当論考はChapter 3にこれを明らかにしている。

さて、Argument 1-3に、聖書の倫理命令についての解釈原理を「キリスト教倫理の非事実依拠性」として述べた。当補論ではこれを発展させてキリスト教倫理モデルを得てみよう。パウロは救いについて次のように教えた。

「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。」エペソ2.8-9

「もし恵みによるのであれば、もはや行ないによるのではありません。」ローマ11.6a

このときパウロはユダヤ教の信仰とは異なる新しい信仰のあり方を見いだしていた。神の義は律法を守ることによってではなく、我々の罪を赦す神の憐れみによって与えられるとする信仰である。

ユダヤ教では律法の遵守が救いの条件であったから、行いと救いは一体の関係にあり、倫理と信仰は結合している。しかしパウロは行いを救いの条件から除外した。これによる信仰についての理解は明確である。神の救いに関われるのは「信仰のみ」ということである。

では倫理の方はどうなのか。それまでセットになっていた信仰が、倫理から切り離されたとき倫理自身はどうなるのだろうか。

神の救いが律法の行いから切り離されているというパウロの信仰原理は、キリスト教信仰という信仰の新しいあり方を教えるものである。しかしそれは、救いから切り離された倫理についても新しい理解をもたらすことになる。これを以下に確認していこう。

まず、イエスが教えた旧約律法の位置づけは以下のようである。

1.律法は廃棄されない(マタイ5.17-18)

2.救われるためには律法にまさる義を獲得しなければならない。(マタイ5.20)

3.しかしそれは人にはできない(マルコ10.17-27)。義の獲得ために律法遵守に励む人々には多くの偽善がある(マタイ6)。しかし救いの根本的な問題はそこにではなく、そもそも人に神の義の獲得ができないところにある。人は自分の罪を神が求める基準で償うことはできず、ただ神の赦しを願わなければならない。

イエスは山上の説教で「~と言われているのをあなたがたは聞いている。しかしわたしはあなたがたに言う~」と言って、旧約律法と関係づけながら新たな律法を弟子たちに授けた。それは神の視点に基づかせた倫理であり、神を含むその世界観に生きることが神を知る信仰となり、「天の父がおられる」ことを勘定に入れた行いが信仰者の益となることを説くものである。

イエスはこれらのことをユダヤ人に向けて語った。イエスが教える父としての神観は彼らにとって耳新しいものだったが、彼らがイエスの教えに従って生きることは難しいことではなかった。というのも、彼らは皆すでにイエスと同じ神を信じるユダヤ教信仰者だったからである。

イエスの山上の説教は、倫理を教えているようでもあり、慈愛深き父としての神を教えているようでもある。そこで説かれる神への想いは美しく人の生き方は思慮深い。イエスが教える倫理は高度で困難なものでありながら、救いのために課される義務としての過酷さはない。イエスの教えにおいて信仰と行いは平和に結び合っていて、元来、信仰と行いを一体としてきたイスラエルの人々にとってなじみやすいものであった。

このとき、イエスの先駆者パプテスマのヨハネが悔い改めを説いていたが、ヨハネから「悔い改めのパプテスマ」を受けてイエスの説教を聞いた人々は、その教えをいっそう受け入れやすかったはずである。そしてまだヨハネの洗礼を受けていなかった人々は、イエスが教える慈愛深い父としての神を知り、律法を神の位置に置いているような硬直した信仰を是正して、この時存命中であったバプテスマのヨハネの元に赴けばよかったのである。

しかしその後、イエスの説教を聞き、彼の多くのわざにも接していたであろうユダヤ人たちによってもたらされたイエスの死、そして、イエスの復活後に出現したキリスト教信仰という、ユダヤ教とは明確に異なる宗教の誕生において、イエスの教えの受け取られ方は変わることになる。

イエスの死と復活を経過した後、ペテロとパウロが確立したキリスト教信仰は誰にとっても新しい信じ方であった。ユダヤ人とて、ユダヤ教の信仰はあってもキリスト教信仰は知らない。かつて知っていたイエスは、もはやユダヤ教ではなくキリスト教に属する存在である。

そのため、ユダヤ人たちにとって、イエスの教えを以前のように自身の信仰と馴染ませながら受け取ることは難しいことになった。イエスの教えを支持する者は、まずイエスの十字架の死と復活の意味を中心教義とするキリスト信仰を持たなければならない。

このことは、ユダヤ教の人々にとって一体と見えていたイエスの山上の説教における信仰と倫理に順序が付いたことを意味する。イエスの教えに従うためには、まず信仰が求められたのである。しかもその信仰とは、イエスが教えた神の国や父なる神への信仰ではなく、使徒が教えるイエス・キリストへの信仰である。

そしてこのイエスに対するキリスト信仰は、イエスの教えに含まれていた信仰部分と結び合い、イエスによる父なる神への信仰が、使徒によるイエスへの信仰と連続することになる。ここで信仰と倫理の関係は序列から分離へと移行し始める。

というのも、イエスが教えた信仰が、使徒が教える信仰に引き寄せられることによって、イエスが教えた倫理は信仰から取り残されて、ただキリスト者の規範として理解されていくことになるからである。これが使徒後のイエスの説教の受け取られ方であり、信仰と倫理の分離の始まりである。

この信仰第一、倫理第二の構造は、ユダヤ教から分離しようとする初代教会によって強められる。

初代教会設立後のあらましは「使徒の働き(使徒言行録)から知られるが、15章に記録された使徒会議はキリスト教における旧約律法の扱いをめぐるものであった。救いのためにはイエスへの信仰の他に旧約律法の行いが必要であるのかが討議された結果、軽微な妥協案を伴ったもののその必要が正式に破棄されたのである。

しかし使徒会議の後も、ユダヤ教から誕生したキリスト教において律法遵守の考え方は根強く、律法を救いの条件として説く教師たちが存在し続けたことが使徒書簡から知られる。ガラテヤ書2章には、筆頭使徒のペテロでさえユダヤ教の長老たちにおもねり、態度を軟化させたことから、パウロの叱責を受けことが記されている。

「信仰のみ」とは、まさにキリスト教がユダヤ教から自らを分かつ生命線となる教義であったから、ここに妥協は許されない。その教義は律法主義に内在する神と人間の関係についての見方を根底から変えるものである。我々が救われるためにはただ神の憐れみによる赦しを受ける以外にはないとする理解こそ神観を正しく保つ道なのである。これが曖昧になることはキリスト教のユダヤ教への出戻りを意味する。その危険をよく分かっていたのは律法学者のエリートであったパウロだったのである。

こうして誕生間もないキリスト教はパウロに守られてその教義を確立していくが、このとき、信仰第一、倫理第二の構造が教会の中に固く築かれたことは容易に想像できる。パウロが退けたのは倫理全般ではなく、あくまでも旧約律法であり、しかもそれは救いの条件としてのものに限ってのことであったが、どのような意味であったにせよ、律法を信仰の下に置くことは、倫理を信仰の下に置くこととして受け取られることにつながった。

特に、ユダヤ人にとって倫理とは旧約律法そのものであったから、初期教会の中心メンバーとなっていた彼らが律法を退けたことは、信仰第一、倫理第二という序列理解をいっそう強めることになった。また、異邦人にとっては「救いは行いによらない」というパウロの教えは「救いは倫理によらない」と聞こえる。それは間違いではなく、まさにその通りであり救いは倫理によらないのだが、ここにおいても信仰第一、倫理第二の序列理解が起こるのである。

加えて、信仰第一、倫理第二の構造は、新約聖書に記されている倫理の性質によって恒常化される。キリスト教倫理は、倫理学としてみれば原則主義であり、細かな命令の集積ではないタイプの倫理である。Argument 1-3に述べた通り、新約聖書の倫理には、倫理の動機を与える「信仰に基づく倫理」と、倫理の目的を示す「命令に基づく倫理」という基本的な二種類の倫理がある。以下、命令に基づく倫理」を「原則に基づく倫理」と呼ぶ。)

ただしそれは「神の憐れみを受けた者らしくあれ」信仰に基づく倫理)ということと、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」原則に基づく倫理)という倫理の基礎を示すものであって、それ以上の具体的な規則を与えるものではない。具体性のない倫理規則は、信仰者に道徳の免除をもたらしかねない。

信仰にはそれによって達成される「救い」があるが、原則的な倫理にはそれによって達成される教義上のゴールがない。つまりこのような倫理には、それが達成されていないことを知る目安となるものがないので、信仰者がその点を自身に問わずに済ませる事態を許すのである。このことが「信仰のみ」というキリスト教独自の信仰理解と相まって、キリスト者における倫理弱体化の要因となる。

この信仰第一、倫理第二という信仰-倫理構造は、二つの方向に影響を及ぼす。一つは、上に示したキリスト教信仰者の倫理意識を弱める方向であり、これはほぼ良くない影響といってよい。もう一つは、キリスト教倫理を聖書の文言から切り離す方向であり、こちらは良い影響になりえる。以下にこの状況を見ておきたい。まず良くない方面から。

〈信仰第一、倫理第二の構造がもたらすキリスト者の倫理の弱体化〉

信仰第一、倫理第二という序列は、第二とはいえ倫理の重要さを示すものであることに違いない。しかし教会がこの点での誤解を与えることがある。教会が行う未信仰者に対する伝道的訴えの一つに道徳に対する批判がある。世の中には道徳的に立派な人がいるかもしれないが、神が評価するのは人の徳ではないというのである。

神が問うのは我々の行いではなく身分である。神は主イエス・キリストを着ることによって得られる救いの身分を求めるが(ローマ13.14、マタイ22)道徳的な人は自分の立派な着物に満足して神の救いを求めない。道徳は信仰の妨げになると説くのである。

元来、救いの教えは倫理・道徳を否定するものではなく、またこの種の説教は未信仰者に向けられたものなのだが、教会に集う信仰者はこれを自分に都合の良いように受け止める。すなわち、大切なのは信仰であり、倫理は求められていないとするのである。

このようにしてキリスト教信仰者が倫理的意識から遠い人になっていることは少なくない。神の救いを得ていることで自分が良い者になったかのように思い違いをする人もある。そしていわゆる「クリスチャンらしい」振る舞いを身に付けて、しだいにそれが「板に付いてくる」ということもある。

しかし、教会で洗礼を受けた人とは何者なのか。「ただ救われただけの人」と理解するのが正しいだろう。「救われた良い人間」と言うのは、「救われた明るい人間」と言うのと同じくらい、救いについての無知が表れた言い方である。宗教的に救われていることと、当人の倫理的正しさは無関係である。

キリスト者が自分の不誠実に気がつかず、信仰があるという意識により、あるいは何十年も教会生活を送ってきたことで、あるいは教会で先生と呼ばれていることによって、自身の判断や対応の正しさを疑わなくなっている場合、事態はやっかいである。穏やかな態度や言葉で相手に対する意図を覆うことは、元々日本人の得意とするところだが、人がキリスト者となることで同様のことはいっそう行われやすくなる。

しかし心の中の愛は、相手にどんな態度で接するか、相手に何を言うかに表れるのではない。また、相手をどれほど気遣っているかという当人の意識が指標となるのでもない。それはただ相手に対する扱いに表れるのである。

病院や介護施設では、医師や介護担当者がその職業柄、入所者の家族に穏やかな言葉と態度をもって入所者の状態を説明する。しかし家族は彼らのそのようなうわべのふるまいに惑わされることなく、ただ彼らが入所者をどのように扱う意図であるかを見なければならない。施設は家族と了解を取り合って、それぞれにやっかい者である病者・入所者を、本人にとってではなく施設と家族にとって都合がよい扱いに持ってこうとすることがあるからである。

また、ビジネスの世界では取り引き相手から「私たちはあなたの仕事に感謝しており、あなたに敬意を抱いています」などと言われることを経験する。打ち合わせの後には、わざわざ社外までの見送りを受けたりもする。しかしそれらの言動が社交辞令にすぎないことは常識であって、相手の真の思いは処遇としての取引の形態や契約の内容に表れているのである。

神は我らを救いに処遇した。神は値のない我々をそのように扱った。そこに神の愛がある。このことは我々の心に愛の連鎖を起こさせるだろう。それがキリスト教倫理の出発点となる。神は我々に、まず道徳ではなく、キリストの購いの受容を求めた。それは天上での我々の身分を保証すると同時に、地上での我々がうわべではない愛を持つことができるようになるためである。

道徳が先んずれば、我々は愛から出るのではないうわべの道徳を実行するだろう。しかし道徳が求められていないなら、その可能性は低くなるのである。信仰第一、倫理第二の構造は、この意味において倫理に働くべきものであって、倫理を信仰にすり替えてよいのではない。

〈信仰と倫理の分離は原理主義の回避とキリスト教倫理の発展をもたらす〉

信仰第一、倫理第二の構造は、信仰と倫理の分離を生じさせることでキリスト教を原理主義から回避させる効果を持つ。Argument 1-3に既述の通り、宗教的原理主義は信仰と倫理が結びつくところに生じるものだからである。

信仰と倫理の分離は、それぞれが異なる聖書解釈法を持つことを可能にさせる。すなわち、信仰に関わる聖書の箇所については事実依拠的に字義通りに受け取り、倫理に関わる命令については非事実依拠的に字義通りにではなく受け取り、その意義を取り出す解釈を行うことが矛盾ではなくなる。(倫理の非事実依拠的解釈についてはArgument 1-3を参照)

仮にキリスト教が信仰と倫理が一体の宗教であるならば、このような不統一な聖書解釈法は必然性を持つことができず、都合に合わせた恣意的なものと見做されるだろう。その場合、聖書の全てを字義通りに受け止めることが正統主義における唯一の正しい聖書解釈法となり、その信仰は原理主義化を避けられないのである。

このような原理主義化された宗教は、現在(2025年時点)のイスラエル国家およびイスラム系諸国に認められる。その結果、彼らの「信仰的正しさ」が、どのような負荷を自国民と近隣国民にもたらしているかは世界中に知られている通りである。

ユダヤ教のように信仰と倫理が一体である宗教においては、原理主義ではない信仰のあり方を保つことは非常に難しい。この点だけを見ても、キリスト教がその成立時に、救いの条件を信仰のみに限定したことによって、ユダヤ教から完全に離れたことは極めて重要な過程だったといえる。

すなわち、「信仰のみ」の教義が信仰について劇的変化をもたらすことは、ルター以降、プロテスタント神学が強く認知してきたところだが、実は、この教義は倫理についても劇的変化をもたらす教義だったのである。

また先に、信仰第一、倫理第二の構造を確実にするもう一つの要因として新約聖書倫理が原則主義であることを挙げた。Argument 1-3で「命令に基づく倫理」として示した教えは「あなたの隣人を、あなた自身のように愛せよ」というものである。このような原則的な倫理は具体性を持たないゆえに、キリスト者の倫理意識を弱めることを述べたが、一方で、この原則主義は敢えて具体性を欠くことで、個別の倫理判断を作り上げていかなければならない状況をもたらすことによって様々な場面への対応を可能にさせている。

このとき「あなたの隣人を、あなた自身のように愛せよ」というイエスが示した原則は、キリスト教倫理におけるいわば憲法であり、新たな規則、命令、法律はこの憲法の下に生成されなければならない。それだけではなく、聖書に記されている既存の命令もこの憲法によって時代と状況ごとに常に再判断されることが原則主義に適う倫理のあり方となるのである。

Argument 1-3では「信仰に基づく倫理」が倫理の発生動機を与え、「原則に基づく倫理」がその方向を示すことを確認した。つまりすべてのキリスト教倫理は「愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい」および「あなたの隣人を、あなた自身のように愛せよ」という、これら二つの教えの上に築かれるのである。

したがって信仰第一、倫理第二の構造から生じる具体的なキリスト教倫理は、「信仰に基づく倫理」と「原則に基づく倫理」を土台とする新たな倫理規則の集合を形成する。これを「キリスト教倫理空間」と呼ぶと、この空間はどのように組み上げられるだろうか。

私はこれを二階建ての建物になるべきものとして考える。その一階は人権の階であり、二階は宗教的真理の階である。一階はEssay 2に述べた「真理より権利が上」という原理が働く階であり、二階は、宗教的な真理主張が他への強制力を持たずに保たれる階である。

救いは行いに拠らないというパウロとルターによる教義は、神の救いが人の行いとは無関係であることを宣言するものである。カルヴァンは救いを神の選びによることとし、両者の関係のなさにいっそうの強調を与えた。それは、救いの信仰が倫理に動機として働く点を除いて、信仰と倫理が相互に独立していることを示す教義であり、これを敷衍すれば、宗教と政治の独立、すなわち政教分離につながる思想である。

つまり、信仰と倫理の分離は、宗教が原理主義に至ることを防ぐ働きをすると共に、政教分離という政治思想と親和性を持つ原理でもある。原理主義ではないということは、特定の行いが宗教的理由から強制されたり、禁止されることがないということであり、政治と宗教の分離は、特定の宗教が国家権力によって優遇されたり、禁止されたりすることがないことを旨とするものであるから、非原理主義をもたらす教義と政教分離の政治思想に親和性があるのは当然のことといえる。

そして、これら政教分離と非原理主義によって守られるのは、国家権力からの信教の自由と、その信教の自由によって信じられた宗教からの個人の行いの非強制ということである。すなわちそれは、個人の人権が、国家と宗教から守られることである。信仰と倫理の分離は、個人の人権を守る原理となる教義なのである。

このように考えると、倫理空間として最初に建て上げられるべきであるのは、基本的人権を確保する倫理空間であるということになる。キリスト教倫理は、キリスト教的真理が実現される倫理である前に、まず人々の人権と自由が守られる社会の実現を目指す倫理でなければならない。 Essay 2に引用したリカルド・ローティの言を再録すると、「種族、宗教、人種、習慣、その他の違いを、苦痛や辱めという点での類似性と比較するならばさほど重要ではない」と考えていくことが、この一階の倫理空間でのキリスト教倫理である。

このような守られるべき人権という観点から倫理空間一階の指導原理を考えると、それを自然法やカント倫理学に求めることが可能であるだろう。というのは、自然法は、あらゆる実定法は人間の基本的人権を否定できないと規定する法であり、カント倫理学の「定言命法」は、すべての人間が互いに阻害し合うことのない普遍性を満たす法だからである。

ただし、自然法やカントの倫理思想に関しては、それをキリスト教倫理と同じ立場と見ることについての賛否両論がある。[1] 近代啓蒙主義の究極に位置するカントをパウロ・ルターの流れにあると見る神学者があり、またパウロが、人にそなわる良心を異邦人に書き込まれた神の律法として述べている箇所(ローマ書2.14-15)を、ギリシャ哲学由来の自然法に触れたものとする見方がある一方で、これらの思想の非キリスト教起源ゆえの批判も存在する。

しかし当論考では、キリスト教における信仰と倫理の分離という信仰-倫理構造が、倫理の信仰からの独立を可能とし、それゆえキリスト教倫理は、聖書に書かれている命令の字義通りの解釈から離れて、すなわち聖書の実定法を離れて存在できると考える。したがって自然法あるいはカント倫理学が、その起源をキリスト教に置くものではないとしても、キリスト教倫理空間一階の指導原理として機能することを否定しない。そして、このところにキリスト教が他宗教、他思想と共有・共同できる場が存在すると考えるのである(Argument 1-3)

キリスト教は神を含めた事実の真理については他思想や他宗教と争うが(Essay 2)人の価値に関わる倫理については価値観を同じくする諸思想と協同するのである。繰り返すと、キリスト教の信仰は事実依拠的であり聖書の文言から離れてはならない性質を持つので他思想との共有は許されないが、キリスト教の倫理は非事実依拠的であり聖書の文言からむしろ離れて展開されていくべきものであって、それによって他思想との共有が可能となるのである。当論考においても、事実認識に関わる認識論においてはカント哲学の克服が行われるが(第二部 Chapter 4)倫理についてはカントと共存する。

キリスト教における救いが「行いではなく信仰のみによる」とされたということは、もはや我々の行いは救いのためのものではなくなったことを意味している。つまり、かつて行いが信仰と結び合っていた時には、行いとしての倫理は、救いという自分の幸福と切り離せないものであったが、その救いが「信仰のみ」とされたことで、倫理は自分のためのものではなく純粋に他者のためのものになったということである。

カント倫理学では道徳のための道徳だけが真の道徳であるとされる。それは道徳が結局は自分の欲得を実現するための手段となることを否定する原理である。キリスト教もまた、それと同じことを「信仰のみ」の教えによって実現しているといえる。

このようにして、キリスト教倫理空間の一階は人権の階として存在する。そこでは、たとえ特定の宗教や思想から否定される行為であっても、それが他者の人権を損なわないものである限り、その当為者が社会や法律からの不利益を被らないことが目指される。この一階の倫理空間は、宗教的真理より個人の基本的権利を上とするからである。

キリスト教倫理空間の二階は宗教的真理の階である。ここには先の二つの倫理原則を除いた聖書のすべての命令が集められる。例えば、パウロ書簡には同性愛の禁止が複数回書かれているが、その教えはこの二階の倫理空間に属するものとする。教会で女性が教えることの禁止やかぶり物着用の命令などもここに属する。

聖書は同性愛を禁止していないと主張することは、どのような聖書解釈を採ったとしてもおそらく不可能である。この禁止を、女性が頭にかぶり物を着用すべきなどの命令と同様に、何らかの再解釈が可能であるものと解することは牽強付会であるだろう。

とはいえ、同性愛者の人権を考えれば、たとえそれらの人々が宗教的非難を免れなかったとしても、だからと言って彼らが社会的な差別や法律上の不利益を被らなければならないいわれはない。この意味で、キリスト教倫理は、その人々を倫理空間の一階において守るものでなければならない。繰り返しとなるが、一階では宗教的真理よりも個人の人権が上に置かれるからである。

しかしながら、ではキリスト教倫理は聖書に書かれている同性愛の禁止の教えを引っ込めるべきであるのかというと必ずしもそうではない。もちろん、将来的にそのような人々の性向が他の人々と全く同じく、純粋に生理的な機能の違いからくるものであることが明らかになる可能性は考えられるので、その場合は、この禁止命令も、時代制約を受けた類いの他の聖書の命令と同様の扱いとなり、現代的見解に沿って再解釈されるべきという判断に至ることになる可能性は考えられなければならない。

しかし、そのような科学的な事態が明らかではない現状では、その人々の行為を宗教的・道徳的観点から好ましくないことと見て、そのような場から引き上げさせようとする働きを否定してはならない。というのも、聖書が批判する行為は、それによって誰も傷ついている事態がなかったとしても、それは自分自身に対する罪、あるいは神によって与えられた肉体に対する罪(Ⅰコリント6.18)であることが教えられているからである。

つまりキリスト教倫理は、人間同士の関係において完結している倫理ではなく、神の被造物としての人間の品位を保つことを含む倫理である。それゆえ、キリスト教倫理は人が傷つかない限り何が行われてもよいとはしない。

したがって、キリスト教倫理を科学的知見や社会的認知の変化に対応させようとする場合、単に、それらに迎合すればよいというわけではない。知識は刷新されていくものなので、現在、最新の見解とされて大勢を占めるようになっている考えが覆される可能性を常に念頭に置いていなければならない。

この点でもキリスト教倫理は、倫理学一般とは異なる宗教的倫理の側面を保つことが必要である。ここでは神に造られた被造物というキリスト教独自の価値観が保たれ、それによって「愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい」という「信仰による倫理」が再び倫理の動機として関わることになる。つまり信仰が関わる分だけ、この二階の倫理は事実依拠的となる。

このように二階の倫理は、聖書の教えを字義通りに主張して他者に告げることを含むものだが、それが人権の倫理空間を優先させるものであることによってすなわち事実依拠的信仰から分離した一階の倫理を優先させるものであることによって、キリスト教倫理の非事実依拠性という当論考が主張する性質を保つのである。

〈キリスト教倫理モデル〉(以下、未完了)

 ■キリスト教倫理の階層モデル

キリスト教倫理空間二階-B2 宗教的倫理を保つための倫理空間
キリスト教倫理 キリスト教倫理空間の指導原理となる倫理
キリスト教倫理空間一階 基本的人権が宗教的真理の上に置かれる倫理空間
キリスト教倫理B1 イエスが教えた二つの戒めを土台とする倫理
キリスト教倫理B0 罪が赦されたことへの感謝を動機とする倫理

 ■キリスト教倫理の基礎B0, B1の詳細

キリスト教倫理B0 キリスト教倫理B1
倫理名称 信仰に基づく倫理 原則に基づく倫理
論拠とする聖書箇所
聖句はArgument 1-3を参照のこと
コロサイ3.12
コロサイ3.13
ピリピ1.27
エペソ4.1
エペソ5.1
ヨハネ4.11
ガラテヤ5.14
ローマ13.9
マタイ22.37-40
倫理の種類 恩恵主義 原則主義
倫理の基礎 主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。」コロサイ3.13)
救いにふさわしい生き方をするという動機を与える倫理
心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」
あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」マタイ22.37,39)
イエスが教えた上の「二つの戒め」に従う意志による倫理
倫理の形成 キリスト教倫理の発出点 キリスト教倫理の土台
倫理の持続 救いに目を向けることによる イエスの教えに目を向けることによる
聖書の字義に基づくか否か 救いに関する聖書の字義通りを受け入れることがキリスト教倫理B0を生じさせる。 イエスの「二つの戒め」がキリスト教倫理B1である。聖書に記されているすべての命令を「二つの戒め」に従わせて再考し、聖書に記されていない倫理判断を「二つの戒め」に基づかせて作成する。これらにより聖書から独立した諸倫理がキリスト教倫理B1の上に「一階のキリスト教倫理」として構成される。