第一部 信仰論 星加弘文

Chapter 1 倫理意識とキリスト教 (12)

     補論 信仰の事実依拠性T/R

Chapter 1 では「信仰の事実依拠性」または、それを表す言い回しが何度か使われている。意味についてはそれぞれの箇所で直接、間接に述べているが、定義のようなものは述べることなく章を終えた。

この概念は、次章 Chapter 2 (Argument 1-3) の「倫理の非事実依拠性」と対概念を成し、Chapter 4 (Consideration 3) の「史的イエスT/R」の前概念となるものでもあるので、以後の理解の助けとなるように、ここに定義に相当するものを記しておきたい。

キリスト教信仰の「正しさ」というものを考えるとき、信仰内容が世界の事実に一致していることを意味する場合と、信仰内容が聖書と一致していることを意味する場合が考えられる。

前者を「信仰の正当性」後者を「信仰の正統性」と呼び、信仰が「正当性」を持つことを「信仰の事実依拠性Ttruth =真であること)が保たれているといい、「正統性」を持つことを「信仰の事実依拠性Rreality =現実への関わり)が保たれているということにする。

「信仰の事実依拠性T」についての新約聖書の言明はパウロ書簡の中に認めることができる。

「キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。それどころか、私たちは神について偽証をした者ということになります。」コリント15.14-15)

ここでは、キリスト教の宣教および信仰に事実として含まれている内容が、事実に照らして真であることが要請されている。

これは、イエスの復活が実際には起きていなかった場合、復活を主張する信仰は偽であり、またそれを宣教することは偽りを伝えることになるという、きわめて常識的な意味での観念と外界の対応性をいうものである。

しかしこのことを、単に「信仰と事実の対応」という、第二部 信仰と理性論 Chapter 2 でみる真理基準の一つである「真理の対応説」を表す呼称ではなく、「信仰の事実依拠性」と呼ぶのは、信仰と事実の対応関係において、信仰が事実に依存しており、その逆ではないことを明確にするためである。

当稿においては「信じることによって真実となる」というような信仰理解は一切存在しないことがこれによって意味されている。

イエスの復活についての事実認定を含む信仰において、現実の世界でその出来事が起こっており、信仰がその事実を受けて成立したものであるとき、その信仰は「信仰の事実依拠性T」を保つ。

このとき、イエスの復活が実際にあったかなかったかは、その信仰が担えることではなく、我々が信じることでそれが事実となるということではない、そういうものとして聖書はイエスの復活を伝えているということである。

「信仰の事実依拠性T」は、我々が通常、自身の信仰を「本当のことを信じている」あるいは「我々が信じていることは正しい」と考えるときに意味しているところの事実依拠性である。したがって、この事実依拠性についての判定、すなわちある信仰が「事実依拠性T」を満たすかどうかの判定は事実が下す。

この「信仰の事実依拠性T」が成立するためには二つのことが必要となる。

一つは、聖書の記事が、その真偽はともかくとして、とにかく事実であることとして書かれているのでなければならないということである。

もう一つは、我々の信仰は、事実として書かれてある、その聖書の記事を文字通りの意味に受け取っていなければならないということである。

これら二つの前提要件が「信仰の事実依拠性R」であり、前者を「信仰の事実依拠性R0」後者を「信仰の事実依拠性R1」と呼ぶ。

信仰が事実との対応を持つ、すなわち「信仰の事実依拠性T」が保たれるためには、信仰は事実に関わるものとしての信念を含み、その信念の起源となる聖書はやはり事実について記されたものでなければならない。「事実依拠性T」と同様、「事実依拠性R」も当たり前のような定義である。

パウロはテモテ書、テトス書に「空想話」について次のように書いている。

「果てしのない空想話と系図とに心を奪われたりしないように命じてください。」テモテ1.4)

「俗悪な、年寄り女がするような空想話を避けなさい。」テモテ4.7)

「ユダヤ人の空想話や、真理から離れた人々の戒めには心を寄せないようにさせなさい。」テトス1.14)

この「空想話」にはそれぞれ「果てしのない」「俗悪な」「ユダヤ人の」という形容がついており、テモテ1.4では続けて、そのようなものは「信仰による神の救いのご計画の実現をもたらすものではない」とされている。

つまりパウロがテモテ、テトスに伝えた福音は、世界の事実から乖離した「おとぎ話」のようなものではなく、まさに現実の事柄として伝えられているということである。

これは福音の内容が事実に照らして真であるという以前に、それが世界の事実に関係したものとして提示されていることをいうものであり、これが「信仰の事実依拠性R0」に相当する。

「信仰の事実依拠性R0」がキリスト教信仰に要請し、結果として排除するのは、上のような「空想話」の他、事実に依拠していてもいなくてもよい、あるいは依拠すべきではないとされる種類の信仰や思想である。

例えば、カントは、事実依拠的であるような信仰を「~を実現したいならば~せよ」という「仮言命法」に基づく手段化、ご利益化された信仰として価値を認めなかった。ただ「内なる道徳律」を尊いとして善であることそのものを目的とする「定言命法」に基づく信仰を推奨するのだが、キリスト教信仰とはそのようなものではない。

カントの道徳信仰は外部事実と無縁のものだが、キリスト教は「事実依拠性R0」により世界の事実と関係しており、このため科学の知見に脅かされることもあり、最終的には偽であることもありえる教義を持つものである。

教会の歴史が証明しているように、キリスト教は何があっても無傷でいられるような宗教ではなく、かつて地動説に傷ついたように、事実認識に関するキリスト教の主張は最終的に打撃を受ける可能性を持つのである。

ここで理解されるべきことは、キリスト教が時々の科学的知見と対峙してその真理性を争うというそのこと以前に、そういった競合を名乗り出ることで、自らの世界観が世界事象の真偽において真または偽として判定されうるような種類の信念であることを表明している点である。

この「偽でありえる」ということ、すなわちカール・ポパーの概念でいう「反証可能性」を持つということが、福音が世界の事実に関係していることの印なのである(第二部 信仰と理性論 Chapter 3 Section 2-3 参照)

そしてこの「キリスト教が伝える出来事は現実世界に関わりを持つ」という「信仰の事実依拠性R0」が我々の信仰に反映されるためには、我々の信仰は、事実として書かれたのであるその聖書の記述を文字通りに写し取ったものでなければならないだろう。

このようにして聖書における「信仰の事実依拠性R0」が、そのまま我々の側に移された状態が「信仰の事実依拠性R1」である。それは聖書が事実に関わることとして述べていることをそのようなものとして承認することであり、その結果、事実認識に関する信仰と聖書の一致という、ここで求めるキリスト教信仰の「正統性」がもたらされることになる。

したがって「信仰の事実依拠性R0」は聖書の福音の性質に関わるもので、「信仰の事実依拠性R1」は我々の信仰の性質に関わるものである。

これら「信仰の事実依拠性R0」と「信仰の事実依拠性R1」からなる「信仰の事実依拠性R」は、キリスト教信仰が「正しい」ものであるために最低限保たれなければならない信仰の性質を示している。

キリスト教信仰が最終的に正しい世界認識であるのかは誰にも分からない。我々は聖書が伝える福音「キリストは我々の罪のために死なれたこと、三日目によみがえられたこと」を、一世紀のユダヤで起きたイエスに関わる出来事の正しい認識であると考えている。

しかし客観的に見れば、それはせいぜい「信仰の事実依拠性R」を満たす正統信仰であるということにすぎずただしそこには、そう信じることへの確信をもたらす主観的必然性があることを Chapter 3 で明らかにするがそれが我々の信仰に可能である正しさの限界である。

信仰においては、信じる内容についての客観的証拠は不要だが主観的な必然性は必要である。そして Chapter 3 に見る通り、キリスト教信仰は確信と必然性を持つことができる信仰である。ただしどのような主観的確信を持てるにせよ、その信仰が「信仰の事実依拠性T」を満たすかどうかは、世界の終末時に至って判断されなければならないことなのである。

さて、この「信仰の事実依拠性T/R」の区別は、科学が未発達であった中世の人々の誤った宇宙観を含む信仰についても整理された理解を与える。

トマス・アクィナスら近代以前のキリスト教は、トレミーやアリストテレスの宇宙観を支持していたため、天体に関係する聖書中の語句は古代ギリシャの説によって解釈された。

宇宙の真中にあって月と太陽を初めとする星々が人間のまわりを廻っていると読める詩編などの記述は、天使に勝る位の被造物として造られた人間が住む地球の位置にふさわしいと考えられたのである。

しかしこの「天動説キリスト教」は世界の事実に照らして誤りであることが知られることになる。この時、事実によって偽と判定された「天動説キリスト教」は当然のこと「事実依拠性T」を満たさない信仰である。

しかし「天動説キリスト教」が、そのように「誤り得る信仰」であったというそのことが、その信仰が事実と関係している信仰であったことを示しており、したがって「事実依拠性R0」を保つものであったということがいえる。

またこの「天動説キリスト教」は、事実を記していると解釈した聖書の文言を文字通りに受け取っているという点で「事実依拠性R1」を保っているともいえる。

「天動説キリスト教」は、詩編などの天地の描写を詩的描写としてではなく事実描写と読んだため、あるいはそもそもが詩編の著者自身が、天地の状態を天動説のように理解したことのため「信仰の事実依拠性T」において誤った。

しかしそれは聖書解釈や認識の誤りに起因する誤りであって、聖書の文言が当時の人々においてそのままに受け取られ、その結果、信仰内容と聖書が一致したものとなっているという点で「天動説キリスト教」は「信仰の事実依拠性R」すなわち「信仰の正統性」を満たしているのである。

新約聖書中に認められる、世界の終わりがごく間近であるとする終末観が抱かれた信仰についても同様に理解できるだろう。信仰が「間違っている」と言われるとき、それは「事実依拠性T」における不完全でありながら「事実依拠性R」においては完全でありえる。信仰一般を考えれば、このようなところが宗教のやっかいな点であるということは言えるのだが。

 信仰の事実依拠性T/R

信仰の事実依拠性R 信仰の事実依拠性T
パウロ的論拠 愚かな空想話」と区別される聖書記事の非観念性としての事実性 (R0)。
聖書記事のR0の性質を引き継ぐ信仰、つまり聖書を文字通りに受け止める信仰 (R1)。
復活がないなら信仰は虚しい」と述べられる場合に考えられている、信仰内容と事実の一致としての信仰の事実性。
これが満たされるためには、聖書に事実であるとして書かれている事柄(R0)が現実にその通りに起こっていることと、聖書に事実として書かれている事柄(R0)をその通りに起きたこととして信じる信仰(R1)が必要。
すなわち「信仰の事実依拠性R」を満たしている信仰が事実と一致することが「信仰の事実依拠性T」
判定主体 信仰の事実依拠性Rによって成立した信仰は聖書内容に対応している。(正統性) 信仰の事実依拠性Tを持つ信仰は世界の事実に対応している。(正当性)
真偽としての性質 事実に関係した信念であるゆえに真偽可能である信仰 事実に関係し、しかも真である信仰
信仰における必要 事実依拠性Rは信仰の成立に必要 事実依拠性Tは成立した信仰が真であるために必要
天動説キリスト教 事実依拠性Rを満たす 事実依拠性Tに反する
現代の信仰 事実依拠性Rを満たしうる 事実依拠性Tを完全に満たすことはできない